第8話 シークレット・ブルベ(後)

 ブルベとは、フランス語で認定を意味し、制限時間内での完走を目指す、自転車ロングライドのイベントを指し、完走者にはメダルが与えられる。二百キロから始まり、三百、四百、六百と、同一年度にすべて完走すれば、シューペル・ランドヌールの称号と共に、ブルベの最高峰とされるパリ~ブレスト~パリ千二百キロの参加資格を与えられる。

 千二百キロというのは、青森から岡山、あるいは東京から長崎という距離である。順位や完走タイムは問われないというのが建前であるが、トップを狙う一部の猛者にとっては、レースそのものであり、まる二日間、不眠不休で走り通す。ちなみに美津根はその後も、ロンドン~エジンバラ~ロンドン千四百キロを完走している。

「うーん、自転車パートの三百キロは、まあいいとして、問題はトランジットだな。スタートは西宮戎じゃなくて、淡路島の岩屋でいいの?じゃ、先に淡路島一周、アワイチ百五十キロを六時間、岩屋から大津まで、阪神高速の北神戸線と名神使って二時間、大津から琵琶湖の北湖一周、ビワイチ百五十キロを六時間、大津から西宮戎まで一時間半としよう。それで間に合うの?」

 奇跡がどうとか、考えても分からないことは後回し。工夫して改善の余地があることを先に努力する。美津根のポジティブな合理的志向は、藁をもすがる思いで相談した紗弥の表情を瞬時に明るくした。

「え?美津根さん、一緒に行ってくださるんですか。嬉しい!」

「いやいや、そうは言ってない。ライドのプランとして実現性があるかどうかをまず知りたいからさ」

 夏至の日の出時刻は、淡路島の岩屋で四時四十六分、日没の時刻は西宮で十九時十六分、日長時間は十四時間三十分となる。美津根の最初のプランでは十五時間三十分となり、一時間短縮しなければならない。

「車の移動は時間が読みづらい。まだ自転車パートの短縮の方が現実的だな。要するにアワイチとビワイチをそれぞれ五時間半、合計で一時間短縮すれば、無理な話ではないな。平均巡航速度三十キロをキープすれば、合計三十分ずつ休憩できるし」

 紗弥は淡路島の出身である。洲本を越えて、福良に至るまで島の南部にそこそこ急なクライムルートがあることはよく知っている。立川水仙峡など、今の紗弥の実力では、自転車に乗ったまま登れるかどうかさえ自信がない。それに、下りでタイムを挽回しようにも、カーブが多くスピードが出しづらいことも容易に予想できる。五時間半、まったく不可能なハードルではないが、少なくとも一人で達成できるとは思えない。

 紗弥の高校時代の友人が、古代史の研究サークル「秘すとリアル」のメンバーだった関係で、メビウス・ロードと名付けられたパワーチャージ・ミッションを伝え聞いた。実はこの仮説の検証が進むにつれ、サークル内では情報公開を巡って意見がまとまらなくなり、最近は互いに連絡が取れなくなってしまったという。サークルの副会長をしていた彼は、マスコミや政治団体へのリークには慎重派だったが、自分一人の胸に納めていることも辛抱できずに、自分が自転車に乗れないこともあり、高校時代にはスプリンターで鳴らした紗弥に「絶対内緒だよ」と言いながら教えてくれたのである。

「しかし、これって、今まで誰か実現した人はいるの?そもそも古代には自転車なんてなかったし。馬とかじゃ、だめなの?」

 美津根は、すっかり仲間になってくれるものと、一方的に期待をふくらませている紗弥に、もっともな質問を重ねる。

「大津に日本の都があった頃の、弘文天皇、大友皇子の時代の文献が、どこかにあったはずなんですが。昔は馬と船で試した人がいたんじゃないかって話です。成し遂げられたかどうかは結局分からないんですけど。天武天皇が、彼の兄とされる天智天皇より実は年上だったという資料とか、天武に倒されたはずの大友皇子が実は生きて落ち延びたとか、大友皇子が天皇として即位したというのとそうでないのと、いろいろ矛盾する、しかもどちらも信用に値する資料があるのが、この時間と空間がつながった結果だということで、仮説を支えてるんです」

 美津根はまだ信じてはいない。ただ、面白そうだとは思う。

「まあ、今の日本じゃ、国道を馬で駆けるわけにいかんしな。でも仮に馬でいいなら、自動車でもいいんじゃないの?」

「馬とか人力以外の力を借りると、御利益が薄まるんじゃないかって話です。だから、昔、馬で走りきった人がいたとして、歴史を大きく塗り替えるほどのパワーが生じなかったんじゃないかって」

 御利益の話はよく分からないが、歴史うんぬんはちょっと違うんじゃないか、と内心美津根は思った。仮に死すべき人が助かったり、天下を統べる権力が得られるというなら、それは個人にとっては一生に一度あるかないかの奇跡だろう。歴史は、今の積み重ねで作られた結果であり、未来の人が評価するものだ。自分にできることは今この時に最善を尽くすことしかない。それが偶然の要素で失敗したとしても、それは受け入れるしかない。

 美津根が少し考え込む様子を見せたこともあり、紗弥はサークルの副会長から聞いた話を少し盛ってみた。

「それでね、美津根さん、このライド、一人じゃダメなんです。須佐之男が風と雷を連れて走ったように、三人で走らないとダメなんです。友だちにも声かけたんですけど、みんな自信がないって・・・」

 美津根は、最初から紗弥の心中を見透かしていたように、軽く笑った。

「いいよ、別に。その日は予定入ってないし。最近アワイチもビワイチも走ってないしね。仕事もちょっと退屈してたところだから。それでもう一人?なんなら、ちょっと一緒に走りたい子もいるんで、声かけてみようか」

           *

 ビワイチの起点となる琵琶湖大橋から十キロあまり、滋賀県守山市にあるスポーツサイクルショップ、ドラゴンスクエアに、どうもサイクリストには見えない風体の、なにやら怪しげな雰囲気の客が来店していた。まだ若い雇われ店長の脇本優は、専門誌が毎年企画している、最速店長選手権の三年前の優勝者である。若手有望のプロレーサーとして、ヨーロッパのツアーを転戦していた頃の鋭い眼光は、少なくとも客商売の時間は封印し、おっとりした優しげなオーラを意識して出している。

「いや、ほんまですか?その話。それやったら、ボク、絶対走りますわ。店休んで。それで、あともう二人要るんでしょ。いいですよ、そんな話大好きな人がおるんで、言うときます」

(御利益があるのは最初に神社にゴールした一三人までやて?福男のレースは、その名残やったんか。じゃあ、あの二人には内緒にしといて、適当に省エネで走ったらええな。もし他のチームとかおったら、協力するフリしてブチ抜いて、最後の最後にスプリント勝負でリベンジしたるわ)

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