4.標的

 風は知っているのだろうか


 ウルフが無実なのか


 ユダの眼がうるんだ。


 ウルフが魔に取り憑かれていないと信じきれない自分が悔しかった。


 彼女は今まで一人で生きていくものだと思っていた。


 自分の目的を果たし、未来永劫一人きりだと思っていた。


 だが、今こうしてウルフがいないだけで自分はなんと脆いことか。


 涙が頬を伝うほどに不安なのだ。


 たった数日前に出会い、旅を共にしただけだというのに……。


ケァラ・ラクスウォンテ生を司る者よ

サーバニ・サン・ノマントール蜘蛛の巣は今解ける


 後方より聞こえた氷鬼守の呪文によりユダの思考は断ち切られた。


 目の前を見れば、先ほどまで貼られていた膜は弾けた。


「中を……確認させてくれ」


 氷鬼守の言葉は、ひどく震えていた。


 彼は一歩一歩、ゆっくりと隔離堂に近づく。


 ぽすっ……ぽすっ……という砂の上の足音さえ彼の動揺を感じさせる空虚なものだった。


入り口に顔を突っ込み、天井を見上げる。


 そして……。


「……ッこっちへ……きてくれ」


 ユダの方をゆっくりと向き、呼び掛けた。


 彼女は錫杖を構えながらそちらへ駆けていく。


 氷鬼守は隔離堂内にすっぽりと入り込んでまだ天井を見ていた。


「どうした」


 そう問いながら入り口に顔を突っ込み天井を見た。


 しかしそこにはなにもなかった。


 ただ天井があるだけだった


 その時ユダの口元が突如何かで覆われた。


 手だ。


 では何者の。


 ユダの瞳は捉えた。


 それは氷鬼守の。


 《敵は氷鬼守か⁉︎》


 ユダが錫杖を彼に突き立てようとした時、氷鬼守はもう片方の手の人差し指を自分の口元に持っていった。


 それは静寂のポーズ。


 彼は彼女に喋るな、と言うのだ。


「うぁあああああああああ!!!!」


 直後。


 情けない叫び声が響いた。


 それは氷鬼守の声だ。


 彼は叫びながら口元にあった手を素早く床に落とし、人差し指で時計回りに円を描く。


「何者だ!?うっ」


 言いながら今度は反時計回りに三回円を描く。


 ユダはその指先を見つめていた。


 彼がなにやら企んでいることはわかる。


 そして自分がこの状態で暴れることが得策でないことも。


 円を描き終わった時。


 突如隔離堂の床が消えた。


 二人は暗い暗い穴の中へと落ちていく……。


 どすんっ……と二人の体が穴の底に着く。


 見上げればすでに隔離堂の開いた床は元どおりになっているようだった。


「なんのつもりだ、氷鬼守」


「騙したんだ、魔を。魔は聴覚が発達しているから、大声でごまかしながらこの地下室への扉を開けたんだ。驚かせてすまなかった」


 ユダの顔を恐る恐る見る氷鬼守は、どうやら冷静であるようだった。


 いや、正確にはそういうわけでもないようだ。


 彼の指はかすかにふるえていた。


「だが奴らがこの場所を知ればすぐにここを狙うだろう……。だから仕方なかったんだ…」


「……何を隠している」


 ユダは呟いた。


 闇の中彼の表情は見えない。


 だが声色でわかる……。


 彼は力なく笑っているのだ。


「さて」


 彼は呟く。


 パンっと一度手を叩くと壁についたいくつもの燭台しょくだいに次々と灯りが灯っていく。


 そうしてようやくわかった。


 ここは地下の通路だ。


 ずっとずっと奥に小さく扉が見える。


 氷鬼守はそこをじっと見つめている。


「ここまで連れてきてしまったからには全て説明しよう」


 呟くと、通路の奥へと歩き始めた。


 涙を堪えて。


「隔離堂と御祓殿の周辺には基本的に魔は侵入できない。それは妖術による極秘の技が使われているからだ……とはよく聞くだろう?魔というのは空気中にいるときは弱い存在だ。聴覚があるだけでほんのちょっぴり思考することしかできない。だからこそどうにか抑え込めることができる。しかしその方法も簡単なものじゃない」


 石畳の廊下を進んでいた。


 こつんこつんという二人の足音と彼の語りだけが響いている……。


「一人を犠牲にするんだ。たった一人の妖術士をこの地下室の中に閉じ込めて、機械と繋ぎ妖術の源である魂を御祓殿周辺に供給し続ける」


 語りは床を這うように暗かった。


 それは後悔がにじみ出たもの。


 何が彼をそこまで苦しめているのか……。


 ユダは黙って彼の話を聞いている。


「それにより御祓殿に空気中の魔は入ることはできない。力尽きればまた別の者を閉じ込める……。その生活は幸せと程遠い。意思疎通はテレパシーのみ。我々もほとんど会うことができない。人に会えば、彼女の魂の質が低下すると……」


 その声は涙。


 震えていた。


「根拠のない迷信だ!だけど僕も山蘭も正太郎でさえもそれに反抗することはできなかった……」


「……それを急に話し出してどうする」


 あえて冷静にユダは呟いた。彼の理性を取り戻させるために。


 一瞬、確かに彼の語りには理性が戻った。


「僕は……。魔の狙いは……この周辺に張られた魔を近づけなくさせる妖術を解くことだと思っていた。だからこそ、人柱になってしまった彼女の近くに……妖術の一番強い隔離堂にサイコウルフを閉じ込めた……」


 だがそれをたやすく崩すのは後悔。


「そうすれば絶対に彼女には近づけないと思っていたんだ‼︎周辺に張られた妖術は空気中の魔を防ぐことはできる……。だが取り憑かれた者を防ぐことはできなかった。彼女の近くの隔離殿なら取り憑かれた者も動けないと思っていた……」


 彼は叫ぶ。


「だが違った‼︎」


彼は遠くの扉を見つめた。


 こつん……こつん……と一歩ずつ近づいていく。


「サイコウルフが膜を破らず隔離堂から消えるにはこの地下室に入るしかない……。そしてこの先には彼女が……。渚がいる………」


 目の前に扉が立っていた。


 お粗末な鋼の扉が、ほんの数ミリ開いたまま……。


「誰かが中に入ったから開いているのさ……。サイコウルフはここを通り……、渚を狙い……そして通り抜けた先の扉から御祓殿へとでたんだろう……」


 キィっと甲高い音を立てながら扉が開いた。


「……優也」


 部屋は配線で溢れていた。


 壁をよく見れば何やらよくわからない機械が埋め込まれ、そこから出た配線は部屋に入った者を圧倒する量だった。


 その配線の中に微かに肌色が見えた。


 氷鬼守は、はっとして目を擦りながらその配線の元に駆け寄る。


 そしてかき分けた。


「……なぎさ」


 優也は泣きそうだった。


 もうほとんど涙が出る直前だった。


 配線の中から見つけ出したその幼気な少女の顔を見ると、もうただ笑うしかなかった。


 氷鬼守は予想が外れ、喜んでいいやら茫然としていいやら分からず変な笑いを出すしかなかった。


「よかった……よかった」


 だがしかしそれならば疑問が残る。


 ウルフは如何にして消えたのだ?


 ここを通ったはずなのに……。


「ではウルフはどこへ……」


 ユダが問えば少女……渚は言った。


「彼は私の想いを継いで決着をつけに向ったのです」


 少女の視線は複雑に絡まった配線の中に向けられていた。


●◯●◯●◯●◯●◯●◯


「くそっ!どうして俺がこんな役回りをせにゃならんのだ……ッ」


 ウルフは埃を払いながら御祓殿へ続く梯子を登っていた。


 長い長い梯子を登り、頭の上にある蓋を押し開ける。


「左腕を失ったと思っていたら穴に落とされ配線掻い潜って……その後には梯子上り⁉︎はぁーっ……いや仕方がないのはわかるがなァ」


 押し開けた先は御祓殿の広間のちょうどユダが座っていた座布団の場所だった。


 あの場所は地下に繋がっていたのだ。


「さぁて魔退治だ……!予言を遂行させますよっ」


 そう呟き御祓殿の床の上に上がる。


 あたりを見回せば、ちょうど玄関につながる通路の方にてるてる坊主が立っている。


 先ほどまで地を這っていたのが嘘のように二本足で立ちながら、じぃっと恨むようにウルフを見据えていた。


「終わらせようぜ。妖術長サマ」


 にっとウルフは笑った。


●◯●◯●◯●◯●◯●◯


「説明してくれ……渚。サイコウルフは魔に取り憑かれていた訳じゃないのか」


 氷鬼守は黙る渚に耐えきれず口を開く。


 彼女は悲しげに笑うと話し始めた。


「予言は絶対です……。ですから結果が違うとすれば、それは我々妖術士の解釈の間違いです。冷静に考えれば『魔』の行動には不思議な点がありました」


 彼女は少し黙り、氷鬼守の方に目を向けたが、すぐに目線を落として言う。


「正太郎を殺す意味が見えなかったんです。正太郎を殺したとしても彼らにメリットはありません。正太郎を殺すくらいなら、直接乗り込み私の居場所を探す方がまだマシです。ですが、『魔』は何かにとりついて正太郎を殺した……どうして?」


「おまえの言いたいことがわかってきたぞ…渚」


 ユダは腕を組み呟く。


「正太郎の死体はアキレス腱が切られていた。それは、魔が正太郎の体に乗り移る入り口を作るためだったんだな。魔が元々とりついていた何かは砂の海の中に消え、正太郎の死体は妖術士の手によって御祓殿の中へと連れられていく……」


 ユダは確信をもってつぶやいた。


「死体ならば誰も警戒はしない……。だから『魔』はおとなしくしているだけで情報が入ってきていた。そして、予言を正確に読み取ろうとしていた妖術長は術を施す最中で完全に油断していた……」


 そして、答えはユダの目の前にも一度洗われていたのだった。


「『魔』に取り憑かれた正太郎の前で‼︎」


 静かに、渚は頷く。


「そう……。だから妖術長様は殺されたのです。そして今…その魔は妖術長様の死体の中に入り込んでいるのです‼︎私はそのことに気づきサイコウルフさんにお願いしたんです……。予言の通りなら、妖術長様を殺すのはウルフさんだから……」


 突如少女は血を吐いた。


 体をのけぞらせて、血は空中を舞う。


「渚!どうした……」


 渚に駆け寄る氷鬼守は心配そうに渚を抱きしめる。


「……わ、わたしの魂はもう限界に近づいているんです……。優也ぁ……」


 息を切らして少女はいう。


「だからはやく……。ウルフさんが……決着をつけないと……」


 また血を吐く……。


 配線を濡らす血は、床へと滴り落ちていく……。


 ユダはただ黙り込むしかなかった。


 彼ら3人は感じた。


 この地下室が微かに揺れていることを……。


 魔が騒ぎ始めているのだ。


 それは御祓殿周辺の術が切れかけている証拠なのだ。


 ウルフ…おまえは勝つのだろう?


 勝つしかないのだろう……?


 予言は絶対なのだから……。


 ユダはそう、静かに目を閉じた。

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