プロローグ

 山城やましろの者がこの地を平定せし際、てんろうは乙女を通じて祝福を与へきといふ。以来、山城の当主はぎんろうと呼ばれたり。



「愚かだこと!」

 肩口で切りそろえた銀に輝く髪は玉をすり合わせた様な音を立てて揺れる。

 ひめ巫女みこが繊細な見た目にそぐわず、腹を抱えてそう大笑いしたからだ。私は呆然と眺めていた。

 いまだ収まらぬ笑いの発作をむりやり鎮めようとして身をよじっているが、試みはほぼ失敗している。普段は下げられている御簾を取り払っているため、あられもなく笑うさまがつぶさに観察できる。部屋に控えた侍女たちは一様に視線をそらしていた。

 姫巫女がこんなふうに人間らしく大笑いをしたところを見たことはない。氷でできた人形にたとえられるほどの人だ。

 切れ長の瞳は雪をまぶしたようなたっぷりとしたまつ毛で装飾されている。あの瞳に見つめられれば死んでもいいと思う信奉者は多い。かくいう私もその一人だった。すっきりとした鼻の下には楚々とした風情の唇が薄紅に色づいている。少女の憧れの美しさを形にしたらきっと姫巫女のようになるに違いない。

 私が初めてその姿を見た時は、胸のときめきがうるさくて眠るのも困難だったほどだ。

 その、憧れてやまない人が私を呼び付けた上に愚かだと言って笑い転げている。

 ただ呆気にとられていた。おかげで大口を開ける姫巫女の喉奥までよく見えた。

 見た目は十七ほどの花ざかりの乙女であるがその実、在位五十年になる。永遠を生きることを宿命づけられた乙女は、そのろうたけた内面を微塵も感じさせない。

 そもそもなぜこんなに笑われているのだろうか。私は彼女への憧れを口にしただけだというのに。

「お前、私のようにはなれないわよ」

 ひとしきり息を吸って吐いて、そうして甲高い声をおさめて、姫巫女が言い放ったのはあろうことか、こちらの浅はかな願望を打ち砕く言葉だった。

 あぁ、そうだった。

 私のなかで、もうひとつの意識が覚醒する。

 彼女は確かにかつて私にそう言ったのだ。それでも。

「……なぜ」

 喘ぐように呟いたのは今の私。

 かつてただの少女であった私ではない。

 景色は厳かな拝殿でなく控えていた侍女も消え去っていた。なにもない。ただの白いだけの空間で、すべてが夢だとわかっていた。記憶とありえない夢が混じり合った、ただの妄想だ。

 わかっているのに、それでも問いかけずにはいられなかった。

 なぜ。

 私ほどあなたに憧れて恋い焦がれた者はいなかった。

 美しき姫巫女様。

 私はあなたを継ぐことのできる唯一の乙女だ。

 私の抱く思いをすべて知った上で、私の創りだした私の姫巫女はまた笑う。なにもない空間に、絶望と彼女の甲高い笑い声だけが反響する。

「何故と問うか、真珠しんじゅ

 喘ぐ私の名を呼ぶ眼前の美しき人は、実につまらぬものを見たというように肩を竦めさえした。

 そうして言い捨てる。

「お前は死ぬからさ」



 じょおぉぉぉだんじゃない。

 真珠は叫んで飛び起きた。

 勢いで身体に覆いかぶさっていた気に入りの赤い夜着が空を舞って、落ちる。

 視界の隅にいた忌子いみこらんぎょくは大きな黒眼をなおも大きくしてこちらを凝視したのがわかったが、しまったとも思わなかった。というか、取り繕う暇がなかった。

 姫巫女である真珠の最もそばにいることが許される唯一の乙女、藍玉は最近代替わりした忌子でありまだ十にもならぬ幼子だ。

 忌子は侍女であると同時に次代の姫巫女候補でもある。それゆえ、かつて真珠自身があこがれた前姫巫女同様、隙なく思いっきりこれぞ絶世の美少女巫女である! というところを見せつけるためにもここ最近は完璧な猫かぶりをしていたのだが、いかんせんこんな夢をみてしまっては地が出てしまってもしょうがない。

 先代の忌子は真珠の年を越えてからはめっきり口うるさい姉気どりで、やれしとやかにしろだの食いものを頬張るなだのと注意を絶やさなかったが、彼女が亡くなってからは真珠にそんな口を利ける者は誰もいなかった。

 こうなってくるとなりを潜めていた真珠の本性が徐々に開放されつつあり、まずいと思ったのか宮の者たちは早々に次の忌子を決めてしまった。幼子であれば無体なことはすまい、という思惑あってのことだろう。

 宮の者たちの思惑通り、真珠は見事猫かぶりを再開した。新たにあてがわれた忌子が、真珠が初めて宮に拾われてきた時と同じ年齢だったのが彼女に自省を促したのであろう。大口あけて笑ったりもしていなかったし、空腹を覚えれば侍女にお茶を頼んだりして決してその辺の木の実をとって直に口に放りこんだりはしていなかったのだ。実に品行方正極まる神秘的な完璧な姫巫女ぶりだったのである。

 なのに、あんな夢を見るなんて。

 もう一度「冗談じゃない」と喉の奥で呻いて寝台から飛び降りた。真珠は元来寝汚いたちだが、まれにはっきりと目が覚めることがある。つまり、今日のように夢見が悪すぎる時だ。

 最悪だった。

 二年も前に藍玉が誤って食事をぶちまけて猫にたかられ、それを笑った真珠も何故だか猫の大群にたかられるという夢を見た時よりも最悪だ。あの時も確かに夢の中で未来を告げる姫巫女は笑っていたが、今回も同様だからといって笑えるはずもない。

 完全に死にかけていた。

 白の装束を着た少女が倒れていた。月光を反射する銀髪は海のようにあふれ、それを侵食するように赤い血が這う。

 少女はうつ伏せになっているから表情はわからない。でも見なくともわかる。銀髪で白装束を着た超美少女など、この国中を探しても今は真珠しかいない。それが問題だ。

「藍玉」

「はい、姫巫女さま」

 情緒不安定の真珠の様子を見てなお、藍玉はその小さな体に動揺を閉じ込めて微笑して見せる。

 えらい。

 持っている水差しの水面が激しくちゃぷちゃぷいっていても許す。その姿勢を褒め称えよう。そしてこの猫かぶりは昨日限りで終わりだからこのままついてこいよ。

 真珠は内心でそう応援しながら、素知らぬふりで尋ねた。

「猫のこと、覚えているか」

 板張りの冷たい床をぺたぺたと歩いて着衣の乱れを適当に直す。ほとんど身体に布切れが引っかかっているようなありさまだったのが、ようやく着物としての尊厳を思い出して真珠の身体の線を緩くなぞる。

 藍玉はなぜか頬を赤らめて視線をそらしながら、それでも問うた事に心当たりがないのか小首を傾げた。

「猫、でございますか」

「そう。あの、藍玉が膳を落としてしまって」

「あぁ!」

 藍玉は悲鳴のような声を上げる。今度は耳まで真っ赤にした。南天の実もかくや、というほどだ。

「お恥ずかしゅうございますわ」

 縮こまった藍玉から水差しを受け取り、真珠は中身をたらいに注ぐ。水晶を削り出した一級品であるこのたらいは、優美なことを尊び婚姻するまでに銀狼に華美なものを貢がせまくった三代目姫巫女の遺物である。

 婚姻をせがむ銀狼に姫巫女は、蓬莱の玉がどうの、竜の首のなんたらが欲しいだの、無理難題を吹っ掛けたらしい。国を統治する銀狼の鼻っ柱を折ってやった豪気な姫巫女と民の間で面白がられ物語にもなっており、宝玉ほうぎょくひめと呼ばれている。三代目の高笑いが聞こえるような今日への伝わり方である。

 実際の三代目はただのごうつく張りで秘蔵品を触らせるのはたとえ侍女でも許さなかったというが、もはや過去のことである。いまや年月を重ねて真珠で十一代目。もういい加減時効だろうと、真珠が姫巫女として地位を受け継いだ時に宝物庫から使えそうなものはいくつか持ち出したのだ。本来はここに水を張って金魚でも放して眺めるものらしいが、まったく実用的でないので真珠は顔を洗うのに使っている。

 いつか藍玉がもったいない、と呟いていたが、金魚に水晶のほうがよっぽどもったいない。こやつも私のような見目麗しい乙女の顔を毎朝映すほうがどれだけ眼福であるか、そう笑い飛ばすほどには真珠は三代目とは別方向に豪儀だ。

 水面に映る己の美しさに今日も大事なし、と頷いて真珠は冷たい水で顔を洗う。

 藍玉が横から差し出した絹の手ぬぐいで優しく水分を拭いながら、

「あの日、私はお前に何か言ったのだったか?」

「えぇ、姫巫女さまから膳を持ち運ぶのはやめるように、と。確かに。でも膳の用意が遅れて焦れた私が言いつけを守らずにお運びしたのですわ。その結果、あのような失態をいたしました。あの時は大変な失礼を」

 真珠から濡れた手ぬぐいを受け取り、小さい身体をさらに縮めて平伏しそうになるのをさすがに慌てて止める。

「いや、そんな前のことを今さら咎めているのではない。そうでなく、私の夢見が違うことはないのか、と」

「姫巫女さまっ!」

 絶叫して跳ねた藍玉に真珠は眼を見開いて驚く。

 まるで先ほどとは逆だった。

「信じられませんっ! 信じられませんわっ!」

 手ぬぐいを放り出し、藍玉は駆けよって真珠の両手を包み込むように握った。

 白く小さな手だ。とても両手を隙間なく包み込むのには足りないが、その血の通う温かな感触に我知らず小さく息を吐いた。

「神の器であるあなたさまが、万に一つも違えるはずはございません。夢は神が巫女へ見せる未来でございます。私のことを思ってご指示いただいたにもかかわらず、私が申し訳なくも夢を辿ってしまう結果になったのはすべて神の御心ですわ。何人たりとも違えることなどできようはずもございません」

 あぁ、まったくその通りだ。

 誇らしげに言う藍玉に真珠は曖昧に笑ったが、その実、頭を掻き毟りたいほどの衝動にかられていた。

 夢は翌日、あるいは近日中に必ず現実になる。なってしまう。

 ならば夢の中で告げられた真珠の死は、まさに現実になるということだ。一切の例外なく。

「もしや姫巫女様、なにかよくない夢でもみられたのでは」

 無意識に呻き声が口から洩れていたのだろうか。

 藍玉が気遣わしげな視線を寄こすが、馬鹿正直に『いやぁ、どうも近日中に私が死ぬらしいよ!』などと真珠が言えるはずもない。

 夢見で教えてもらわなくとも藍玉が泡吹いて倒れる未来が容易に見える。

「まさか」

 言いながら、実は本当にまさかという気分である。

 神の力を身に宿す姫巫女は不老不死になる。もっとも力が充実する年齢で肉体年齢が止まり、どれだけ血を流そうが肉体を失おうが、必ず回復し死ぬことはない。

 姫巫女が命を失う手段はただ一つ。

 己の唯一つの運命である、銀狼を選ぶことだ。

 その条件を自分自身が満たすとは、真珠にはとても思えない。

 この百五十年、それだけ金銀財宝を貢がれようが、美男が手紙を送ってこようが、真珠は心動かされることはなかった。そしてこれからもないであろう。

 真珠には何をさておいても生きて、宮を守らねばならない。

 そう、約束した。

「……姫巫女様」

 視線を床に落として微動だにしなくなった真珠を気遣うようにそっと呼びかけられて、肩をはね上げて驚く。藍玉はその様に驚きも笑いもしなかった。握ったままの両手に力を入れて、密やかに告白する。

「私はどこまでも姫巫女様のお味方でございます」

 思いつめた様な瞳で覗き込む藍玉に、真珠は思わず微笑んだ。

 忌子は生涯を姫巫女に捧げることを誓う。まるで生まれた雛が親鳥を慕うように。

 真珠自身も覚えのある感情だ。そしてそれはいまだに捨てきれていない。だから、目の前の藍玉の献身は痛いほどわかった。

 真珠は藍玉に安心しなさいと言うかわりに、額を手のひらにも満たぬ小さな藍玉の額にぶつけた。藍玉は初めて子供らしくくすぐったそうに身をよじって声を上げた。

 この幼子には笑顔がよく似合う。

 記帳の隙間から冬の冷たい空気とともに陽の光が入って、ゆるく寝所を照らしている。

 なにも変わらない、真珠の世界。そうだ、変えてはならない。

 姫巫女としての単調な日常を、この宮という箱庭を真珠はこの上なく愛さねばならないのだから。

 それが壊されると言うのならば。

「……返り討ちにしてくれる」

 真珠を殺す、銀狼という甘い毒を。



「くそが。冗談じゃないぞ」

 血の滴る刀身を振り払って、とうは悪態をついた。

 姓を山城といい、三方を山に囲まれたこくを継ぐ家の者である。天然の要塞に囲まれた肥沃な大地を誇るこの国を圧倒的な武で名高い山城が治めるため、三方さんぽうしが転じて三好みよし殿どのと呼ばれることもある。透輝はその山城の当主であり、たった今、神域と呼ばれる場所で人を殺した。死体はすぐ足元に転がっている。

 呆れたのは瑠璃るりである。

「この局面でそれいいますかね、あんた」

 通常はおよそ人が訪れようのない場所で、というかもはや獣道すら消えかかっている山の中で、ふらりと迷い込みまして、などという見えすいた言い訳が通らぬ場所だ。もっとも、兵を向けてはならぬ場所に僅かの手勢とともに山城の当主が自ら乗り込み、人を殺している時点ですでになんの言い訳も戯言にすぎないことにはなっているのだが。

 槙島まきしま瑠璃るり

 山城に代々仕える一族のなかでももっとも古いと言われる槙島家の嫡男であるこの男は、目に見えてだるそうな様子を隠さなかった。

 特に瑠璃は透輝にとっては乳兄弟でもある。もはや一心同体も同じだが、実は最近まで臣従するかどうか腹が決まっていなかったという。半年前、『あんたに仕えることにしましたよ』と改めて言われた時、平静を装うことに長けた透輝ですらさすがに激しく狼狽したものだ。

 透輝が当主として立ったのは二年前であり、瑠璃が臣従を表明するその間の一年半はずっと透輝のやりようを主君足るかどうか見定めていたというのだから、常人とは違う神経のありようなのであろう。人格的にどうなのかと思うことはあれど、こと戦となると目の色を変える節がある男を、乳兄弟という以上に透輝は信頼している。 

 その男にとって、こうしてこそこそとネズミのようなまねをすることは性に合わないのだ。しかし、それを言うなら透輝こそが、である。

 情けないと言わんばかりに眉尻を下げてみせたのだった。

「言いたくもなる。たかが弟殿の女の話だぞ」

 馬鹿らしい。

 吐き捨てるように、というよりも半ばため息であった。往生際が悪いと言われようが、乗り気ではないのは紛れもない事実であった。

 腹違いの弟であるつきの女の不始末を、なぜ自分がやらねばならんのだ、と未だに思っている。

 瑠璃なぞは『そんなに弟殿はかわいいですか』とからかってくるのだが、逆だ。

 自分でもどうかと思うが、透輝は半分血のつながった弟が大嫌いであった。

 どこが、と言われると上手く説明ができない。ただ、あの如才のなさ、多弁であり愛想のいいところ、男にしておくには惜しいほどの美貌、そういったすべてがどうも相容れない。

 単なる相性の問題であろうと、透輝は惟月を意識から外すことにしていた。一度嫌い抜いてしまうととことんまで観察し、そうして自らの手で灰にするまで許すことができない。この男特有の人に対する妙な情熱、といってもいい。己の性根を理解しているから、透輝は必要以上に惟月に近寄ろうとしなかった。誰だって血の繋がる弟をいたずらに殺めてしまうような事態は面白くなかろう。

 そう思い、放置していたのが悪かった。

 人の心をつかむのがうまいあの弟は、いつの間にやら当主であった透輝の立場をそっくり奪おうとしていた。あの微笑の下にそんな野心を隠していると思ってもみなかった透輝は仰天したが、瑠璃に言わせれば迂闊すぎる、ということらしかった。

 いや、実際、惟月は野心を口にはしていない。彼の取り巻きがそのような形で動いている、というだけのことなのだ。惟月自身は謀反を疑わせるような行動を何ひとつ起こしていない。

 この度の女の話以外は。

 しかしこれとて、透輝はこじつけの嫌疑だと思っている。馬鹿らしいと一蹴したものの、瑠璃を筆頭とした家臣があまりにせき立てるので重い腰を上げてやったのだ。

 本当に宮をぐるりと囲むように兵がいるのには驚いたものの、いい加減にせいよと一喝してやれば散るだろう。

 それがどうだ。いざ対峙してみると惟月に与する者たちはみな頑なだった。惟月という主に心酔しているのではない。透輝という主には絶対に従わぬという強い気概がみてとれたのである。であれば、殺すしかない。そうして思った通りに目の前の男もばっさりとやってしまったのだが、そうしたことによっていやがおうにも幕が切っておとされてしまった。

 面倒なことになった。

 その徒労感からの「冗談じゃない」という言だった。

「あんたね、それがたかが弟殿、たかが女でないからこんなことになってんでしょうが」

 まさしく瑠璃の言う通りだ。

 円環えんかんひめ巫女みこと呼ばれる者がこの山にすんでいる。

 戦乱の続くこの地を平定した山城の一族は、巫女と交わることで神の祝福を受けたとされる。巫女が崇めるのは戦神である天狼である。それにあやかって、巫女と契った山城の当主は銀狼と名乗ることを許された。山城の者たちはみな刃の色を映したごとき銀眼を持っており、銀狼と名乗るのはその瞳の色に由来する。

 姫巫女は天狼の使いであり、神の意志を体現する存在でもある。彼女の存在こそが、山城の当主を銀狼たらしめる、という。

 逆言えば、姫巫女がそうと言わなければ山城の当主であろうと銀狼を名乗ることは許されない。天狼の承認がないからだ。姫巫女を娶ることのできなかった山城の当主は銀狼でなく、偽狼ぎろうと揶揄されたというが、その偽狼とやらがここ五代は続いている。透輝で六代目だ。これほど天狼の意思が不在であれば、もはや神などいないことが普通になる。いまや山城の治世の根拠は根を張っていて、天の威を借る必要はない。

 が、惟月。

 透輝こそが山城であるにも関わらず、その透輝をさしおいて姫巫女と通じようとしている。当主の座を狙っているのは明白である。

 そう喚いて大事であると告げるのはいずれも化石のような老人どもで、現代においてそんな神話に意味があるとも思えない。起こる内乱あるいは隣国との小競り合いを圧倒的な武で治めてきた透輝にとって、いるかいないかわからぬ神をもてはやすのは馬鹿らしいの一言に尽きる。

 ゆえにこの期に及んでもなお、透輝にとって事態はさほど逼迫しておらず、ただただ面倒なことになったという印象しかない。

「まぁ、妙なことになった、とは思っているが」

 姫巫女との婚姻が山城にとって大きな意味を持っていたのは、今は昔である。瑠璃あたりはそれを十分承知で交戦を主張している。常に戦で身を立てることを考えている男であるから、少し暴れてやろうという腹以外ない。口では一大事だ、と戦の正統性を嘯くが、内心では透輝の困惑を理解している。

「確かに今さら姫巫女がどうのって話を本当に信じているってのは、まったく妙な話だけど。そもそもどこからそんな埃かぶった話を引っ張り出してきたのやら」

 俺たちのじいさんのじいさん、そのまたじいさんくらいの話じゃないですか。

 瑠璃があきれて足下の死体をごろりと転がした。彼はなにもまちがっていないというふうに死んでいる。

 殉死、という言葉がよく似合う。透輝たちが与太話だと切って捨てる話に大義を見出しているのだ。

 それがひどく癇に障る。

「でも、俺はあの弟殿が知らず姫巫女と恋仲になると言うのも信じられない話だけどね。いっそのこと、その姫巫女とやらがばあさんだったら面白いんですけど。あの賢しらぶったお坊ちゃんがどんな顔で妻問いをするのかみてみたいものですよ」

 二人きりの気安さで、瑠璃は己の一応の大義名分も忘れ揶揄した物言いをする。

「お前、とことん惟月のことが嫌いだな」

「俺は俺の才を安く売る趣味はないんでね」

 つまりは逆に透輝をその器であると褒めているのだが、言葉が悪いせいか素直に受け取ることは難しい。透輝はやれやれと肩をすくめた。

「あとどれくらいいる」

「それが妙な話なんですがね」

 瑠璃が声を落とす。

「もともとただの脅しですからせいぜい五十人かそこらのはずですが、俺たちが倒したのは今の一人」

 それもこの一人は何かから逃げてきた、といった風だった。

「残りは俺のが何人かやっていますが、それにしたって半数もない」

「逃げられた、と?」

「逃げられてはいないです。死んでいるんですよ」

 死体がころがっているのだ、と瑠璃はこともなげにいった。

 瑠璃がここへ連れてきた郎党は十名。暗殺に長けた者たちで、ちょいとばかり特殊であった。それでも、こんな死体はみたことがないという。

「どうやったんだか知りませんがね、血の跡がない。だのに、死んでいるんです。俺たちのやりようとはまったくもって違う技ですね、あれは。面倒な話ですよ」

「その死体はいくつだ」

「ざっと二十名弱」

「ほぼ半数だな」

「あやかしの類なのかもしれませんね」

 透輝がその手の話を嫌っていることを知って、瑠璃は時々わざとこういうことを言う。

「くだらん」

 鼻を鳴らした途端、

「三好殿とお見受けいたします」

 唐突に響くが姿が見えない。平坦な女の声であった。

「ほら、やっぱりあやかしですよ」

 こわいこわい。そうはやし立てる瑠璃だが、立ち姿に隙はない。どこから声の主が現れようともしとめることのできるようになっている。

「山犬(やまいぬ)と申します」

 偽名丸出しのふざけた名乗りもあったものだ。

 剣呑な瞳を向ける先に、許しを請うがごとく姿が現れた。

「このような姿をさらすことをお許しください」

 一人の黒装束の女であった。

 深い傷を負い、息が荒い。あらゆる箇所から流れる血を拭わぬまま、顔だけは右手で覆い決して見られまいと隠す様が奇妙であった。

「他にもいるようだけど?」

 瑠璃が透輝の前に立って油断なく闖入者を見下ろしている。得物に手をかけ、隙あらば殺す構えだ。

「本来であれば我らすべての存在を明らかにし、お願い申しあげるところですが、お許しください。我らは人前に姿を晒すようにはできてはおりません」

 明らかな偽名の上に、姿も素性も明かすことができないという。斬ってくれと言わんばかりである。案の定、気の短い瑠璃は臨戦態勢だ。

「言っている意味がわからないんだけど、あんたさぁ」

 抜き打ちに斬って捨てる気配を察して、さすがに透輝は肩に手をかけ制止する。

「もういい、瑠璃。よくわからんが事情があるのだろう。それに、時間がなさそうだ」

 目の前の女は瀕死である、といっていい。

 そして場合によってはこちらに殺されることもやむを得ないという覚悟もあるのだろう。話だけなら聞いてやってもいい、と思ったのは単純に同情だけではない。こういう種類の人間が、どういう『お願い』をするのか、単純に興味があった。

 透輝の悪趣味な興味がよくわかったのだろう。呆れた瑠璃は大人しく身を引いた。柄から手が離れるのを確認して、山犬と名乗った女は膝をついて頭を下げた。

「お心遣い痛みいります。実は三好殿にお願いがございます。どうか、あの者を殺してくださいませ。姫巫女さまに拝謁するまえに」

「あの者とは」

「ご存じのはずです。恐れ多くも神域に断りもなく侵入する賊のことでございます」

 ちらりと見上げた手の隙間からのぞく瞳が透輝を射る。何の疑いもなく、いのちのすべてを放り出すような決意が宿っていた。

 こういう目をするやつは、危ない。そして、これを統率するものはもっと危ない。経験則から透輝は悟っていた。

 それは瑠璃も同様だ。瞬時に『殺すか』と目配せするのを、透輝は小さく首を振って止めた。

 妙な術を使っている。あげく、惟月と通じている姫巫女を救って欲しいなどと、見えすいた罠である。言われるままにいざ賊を討たんと姫巫女のもとへ向かえば、賜るのは死であろう。そもそも、その賊と通じているはずなのだから。それは透輝にもよく理解できていた。

 手のこんだ芝居だろうか。

 だとしても、この思惑にはまってやってもいいと思った。

 ネズミのように相手の出方をうかがってこそこそ動くのは性に合わないと嫌気がさしていたところである。瑠璃を短気で血気盛んすぎると内心で呆れることの多い透輝であるが、その実誰よりも己自身がその性質を有しているのだった。

 自分の命が関わっている決断を下すとき、透輝はいつも体の表面が熱くなっているのがわかる。が、通う血は恐ろしいほど冷たいのだ。

 そうしたときは必ず大胆な決断をし、いままで賭けに勝ってきた。今回とて例外ではないはずだ。

「いいだろう」

 仮に死ぬような目にあったとしても、それはそれでおもしろいじゃないか。

「賊とやらを討ってやる」

「ちょっと、陛下」

 あんなに安易に引き受けていいのかとわめく瑠璃に、透輝はにやりと笑ってみせたが、さすがに口には出せなかった。

 どうやら俺が殺さねばならんのはあの娘のほうらしいぞ、とは。

 家臣にああいう目をさせる主。生かしておくにはあまりに危険すぎるのだ。

 であれば、これから十分に障害になりうる。惟月と本当に手を組んでいるのならば面倒以外のなにものでもないし、これからそうなりそうな女であるのなら、どさくさにまぎれて斬ってしまえばいい。

 今さら神を恐れるようなことはない。

 惟月の逢引の様子をうかがうよりも、ことがずっと単純になったことに、透輝は自然と笑っていたのだった。


  

 放たれた矢が、正しく柔らかい肉に吸い込まれていく。

 姫巫女が狩りをするときはいつもそうだ。

 選ばれた得物は例外なく、抵抗なく、そうであるというように死んでいく。世界はすべて決められたもので、それは真珠自身も例外でない。

 うさぎの小さな悲鳴が山に落ちて、真珠は同時に息を吐いた。獲物を狩るときはいつも呼吸を忘れてしまう。起こることのすべては定められているというのに、真珠はなにかの拍子でずれやしないかと望んでいるのだった。その緊張感が息を詰めさせる。しかし、今回もそんな予想外のことは起こらなかった。僅かな失望とともにうさぎの息が絶える瞬間、真珠は息をすることをようやく思い出す。

 いつものことだった。

「やせたうさぎくらいしかいないか」

「姫巫女さま、この季節だよ」

「そうだよ、贅沢だよ」

 幼い双子の少年が真珠の足もとにまとわりついて囃したてる。

 真珠が獲物を狩るまでは静かだったのに終わるとこのざまである。

 小さな身体の中を駆け回る生命力を持て余しているのか、雪がうっすらと積もるなか飛び跳ねて踊る。

 彼らは宮のある山に古くから住まう一族だ。平地とこの宮の橋渡しをする存在でもある。宮にはそれなりの人数が住んでいるが、いずれも女ばかりで山を下り生活に必要なものを調達するのは骨が折れる。それを補うために彼らは宮から離れた山の裾野あたりに住んでおり、折りを見て用はないかと訪ねてくる。

 宮は神域同様であるから、外の者との関わりを基本的には禁じているが、例外もある。その少ない例外のなかに彼らもいた。

 いまだくっついて離れない双子を軽く蹴っ飛ばして、

「おい、こんなに騒いだら得物が逃げるだろうが」

 叱ると、双子が不満の声を漏らすよりも前に別のところから言葉が飛んできた。

「姫巫女さまっ」

 甲高い声に真珠がしまったと振り向けば藍玉だ。

 意外と早かったな、と内心で冷や汗をかく。足元は無謀にも草履で、途中で滑って転んだのかところどころ濡れている上に泥汚れがひどかった。忌子は巫女と同じく純白の装束を許されている。それがまったく台無しだった。なにか前衛的な模様でも織り込まれているのか、と勘違いするくらいだ。

 その愉快な姿に堪え切れず双子が噴き出すと、藍玉はさして年も変わらない二人を睨みつけて黙らす。

 次期姫巫女に相応しい貫禄である。

 他人事のように感心していると、今度は真珠に矛先が向かってきた。

「姫巫女さま、先代の忌子も狩りはほどほどにせよと申したはずです。目を離したすきに宮からこんなところまで! ずいぶんと探したのですよ」

 しばらく大人しくしていたのだからこれくらいのことは許されてしかるべきだろうと真珠は肩を竦めた。

「双子にねだられてね」

「恐れ多くも姫巫女さまに猟師の真似事をせよと、その二人が言ったのですか」

 今にも手打ちにしてくれると言わんばかりの剣幕で再び双子を睨みつける。情けなくも同い年の少女に縮みあがって口を開けたり閉めたりしている。言葉がでないらしい。

「もちろん、その二人が言うわけがないだろう。ただ、じいさまが少し寝込んでいるらしくてな」

 双子のじいさまはいつも宮に御用聞きにくるから藍玉にも馴染みの人物である。具合が悪いと聞けば、さすがに視線の厳しさを改めた。

「まぁ、知りませんでした」

「そんなわけで、ひとつ肉でもたべれば元気が出るのじゃないかと。あと狩りは神事への練習にもなるし」

 真珠の言い訳じみた言葉に騙される藍玉ではない。

「姫巫女さまがそうと決めれば矢はそのように飛んでいくものですから、今さら練習なぞ不要でしょう。そもそも神事のためとはいえ、こんなに頻繁に狩りをする姫巫女さまなどきいたことがありません」

 その通りである。

 姫巫女が銀狼を選び嫁すとき、神にささげる供物を自らの手で得る必要がある。その供物に永遠を約束された器である姫巫女自身を重ねて、天狼へ返上するのだ。そうして初めて、姫巫女は銀狼に嫁すに十分な人並みな肉体を得る。そのたった一度の神事である狩りをこれほどまでに熱心に励んだ者は過去、真珠以外にはいない。

 神にささげる儀式であるから、当然神の意思が介在している。姫巫女を通して獲物を手に入れるのだから、矢が外れようもない。もちろん、弓の使い方くらいは知っていないとどうにもならないのでそればかりは練習するが、実践でこうもやる必要はないわけだ。

 真珠の場合は趣味と実益を兼ねている。

 宮の奥で手習いや香を嗅ぐことよりも、山を駆けまわっていたほうが性に合っている。目についた適当な木の実を食べつつ、この弓で昼ごはんを調達したりもする。多く狩った場合は宮の者たちに振舞うことすらある。

「それよりも姫巫女さまの祝福をお与えになったほうがいいのでは? 姫巫女さまの舞は当代一、いえ歴代の姫巫女さまのなかでも並ぶ者なしとも言われておりますわ。宮の中でも舞姫さま、と呼ぶ者もいるくらいですもの」

 藍玉が不思議そうに小首をかしげる。

 確かに、それも一つの手ではある。

 真珠は体内に天狼の力のかけらを宿している。天狼は生と死を司り、真珠はその力を舞にのせて行使することができる。なので、藍玉が言うように舞うことで生命力を与えることは可能だ。これを祝福としてありがたがる者たちはいる。宮に入ることを許される女人に限り、求められれば舞ってみせる。今回はじいさま相手で男子禁制の原則からは外れるが、知らぬ顔でもないので多少のお目こぼしは許されるだろう。

 だが。

「私はそれほどたいした舞手ではない。そもそも、ひとは命を戴いて血を巡らせる。普通は、な。私の力は人の営みの外だからね。よく食べてよく眠って治るならそれが一番だ」

 神の力なんてものはおまけのようなもので、人が持つ本来の生きるという力にかなうものではない。

 真珠の言った意味がまだよくわからないようで、納得しがたい顔をしている藍玉に、いたずらっぽく言ってやる。

「それにこれも巫女の祝福だ。姫巫女が射たありがたい獣だ。値千金だぞ」

「確かに姫巫女さま印の肉だと言って売ればいい商売になりそうですね」

「なるほど、いい考えだね!」

 よし、そうと決まれば商売の段取りを、と今にも真珠の冗談を具体化しそうな双子を藍玉は大喝した。

「いい加減になさいませっ」

 固まる双子を尻目に、藍玉は真珠に詰め寄って弓を取り上げた。

「それよりも姫巫女さま、そろそろお時間でございます」

「時間? なんの」

 うさぎを双子に渡してさっさと行けと目配せしてやる。

 藍玉は一瞬何かを言いたそうにしていたが、脱兎のごとく走り去る双子をそれ以上視線で追うことはしなかった。

 代わりに弓を持たない方の手で真珠の手を引っ張った。

「おい、藍玉」

「お客様がいらしております」

 この宮に訪ねてくる客など祝福を欲しがる女人しかいない。

 しかし、藍玉がこれほど急いで探しにやってくるとはよほど身分の高い女人であるらしいと真珠はぼんやりと考えた。

「さてどれくらいの寄進をしてくれるのやら」

 思わず呟いた真珠の本音を、藍玉は聞き咎める。

「信仰をお金に換算するなど、あってはならぬことですよ!」

 実に正しいお言葉だが、事実これで宮の者たちが食べているのだからいいだろうと曖昧に笑った。

 藍玉はしばし真珠を見つめて、ややあって肩を落とした。これ以上言っても無駄だと悟ったのだろう。自儘に振舞い始めた真珠に困惑しているが、決して嫌悪はしていない。

「とにかく、一度身を清めましょう。狩りとて巫女の習いではございますが、さすがに血の匂いをさせてみなさまをお迎えするわけにはまいりません」

 急かされて真珠は適当に返事をしながら歩を進める。冬の初めでまださほど雪も深くない。それどころか今年の冬は例年に比べて暖かく、ここ最近は一足飛びにやってきた春のような日差しのせいもあって一度降った雪がもう溶け始めている。逆に足を取られそうで慎重に歩きたいところだが、藍玉はどこにそんな力がというほどに手を引っ張るものだから早足にならざるを得ない。

 すっ転んで藍玉のように愉快な柄の着物で宮に帰るのはご免こうむりたいな、と考えながら戻ったが、近づくにつれて違和感を覚えた。

 いつになく、空気が騒がしい。

「誰が来ているんだ」

 宮が見えてようやく手を放した藍玉に問う。

 答えを返したのは突如として視界に入りこんだ侍女だった。

「姫巫女さま、宮へお戻りくださいませ」

 慌てて駆け寄る侍女に真珠は眉をひそめる。彼らはいつも影のように仕え、決して向こうからは話しかけてこない。しきたりでは巫女が気安く言葉をやり取りできるのは忌子だけときまっている。

 無論、彼女たち自身がそれを知らぬわけではあるまい。

 なにかあったのか。

 問う前に男が目の前に踊り出してきた。とっさに藍玉が真珠を庇うように立ちふさがる。

 侍女も真珠の足もとに身を投げ出して男を睨みつける。

 唐突な男の登場よりも、彼女たちの狼狽の仕方に真珠はあっけにとられる。が、そんな狼狽を一瞬で無表情の仮面に隠して、

「何者か」

 冷徹に聞こえるように声を低くする。

 男は鎧武者であった。その場で平伏する。

「姫巫女様に奏上したきことありまして、不浄の身ながらまかり越しましてございます」

 通常、この宮には女しか近寄れない。姫巫女に目通りしたくば女の身代わりをたてることが定石だ。男は巫女の身を穢すといわれているのだった。

 真珠はそのしきたりの由来を信じていないのでじいさまにも双子にも会うが、それにしたって鎧武者が目の前に現れることには多少の不快は覚える。

 しかし、奏上したきことなどと、面倒事のにおいしかしない。

「無礼は承知の上でございます」

 なにとぞ。

 さらに額を地にこすりつける武者に真珠は眉根を寄せて先を促した。

「なんだ」

 武者は低く返事をして恐ろしいことを簡潔に口にした。

「山城がこの宮に兵を差し向けております」

 今、何と言ったのだ。

 呆然と開けた真珠の口から、武者が確かに言った言葉がこぼれ出る。

「挙兵?」

 姫巫女の威厳というものを取り繕う暇などなかった。

 あんまりにも性質が悪すぎて、吐き捨てる。

「この宮を落とそうなぞ、冗談でも笑えんな」

「姫巫女さま、惟月様に祝福を与えたように、兵どもにもお与えください。さすれば神の使徒としてあの不心得者を打ってみせましょう」

 もう去れ、と手ぶりで追い払おうとしたが、武者はなおも顔を上げずに勝手なことをつらつら述べる。

 まてまてまて。

 何を言い出しているんだ。

 真珠は瞬間、目に見えて狼狽した。

 惟月というのは確か、当代の山城の弟であったはず、と真珠は頭の中で関係図を引っ張り出す。

 惟月がもっぱら兄である透輝より優秀であるという噂は聞き及んでいたが、当主の座を奪おうとしているとは思いもよらなかった。それでもって自分がその後押しをしていることになっているのか。祝福がどうのと言われるのはつまり、そういうことである。

 簒奪者に巻き込まれるとか冗談じゃない。ていうか、兵とかいったか? こいつらもつれてきてるのか、兵を! なにを人の家で勝手に全面戦争をしようとしてるのだ!

 頭の中で罵倒しながら、それでもややあって平静を取り戻したのは在位百五十年の年の功だ。

「私は惟月なる者は知らぬ。祝福を与えただと? この宮には女しか入れぬのは知っているだろう。私が祝福を与えるのは後にも先にも女たちだけだ」

 早口に言い放つ。

 この男が何を勘違いしているかしらないが、こんなところを他の誰かに見られでもしたら面倒なことになるのは必定である。真珠がただ狩りをして遊んでいただけで、その帰りにこの男にからまれただけだと言っても誰も信じてはくれまい。

 勢いついでに唾でも吐きかけてやろうかと睨みつけると、武者は顔を上げて悲壮感すら滲ませて断言した。

「いいえ、あなた様はお与えになりました。当代の銀狼として惟月様に祝福を。お隠しにならなくとも私にはわかっております」

 なにをわかっているというのだ、なにを!

 とうとう真珠は我慢できずに叫んだ。

「夢を見るなら寝ている時に見ろ!」

 付き合っていられない。真珠は眼前に立ちふさがるすべての者に命じた。

「さがれ。不快だ」

 犬でも追い払うかのように手を振ると、真珠の前で武者を睨みつけていた藍玉が倒れ込んだ。いや、平伏した。

 眉根を寄せていぶかしむ。

「藍玉?」

「……姫巫女さま、事実でございます」

 臓腑の底から絞り出された苦しげな声で紡がれる言葉の意味がわからず、本気で首を傾げた。

「は?」

「私が、お連れ申しあげました」

 今度ははっきりと、言葉の一つ一つを区切るように、藍玉は言った。

 連れてきた。惟月を、藍玉が。

 意味がゆっくりと脳に浸透していくにつれて、真珠はぽかんとあけた口がどんどん大きくなった。

「覚えておりましょうか、先日ここへ来た貴人でございます」

 この宮に来る客は少ない。身分の高い女人であればそうそう外出ができるわけでもないから、その一言だけですぐに思い当たった。

「あのしゃべることのできない女か!」

 嵌められた。思わず舌打ちがでる。あまりに蓮っ葉な真珠の振舞いにぎょっとした武者ではあるが、無論咎めようもない。

 生まれつき声を出すことができず、そのため人目を避けるようにして育てられた姫だ、との触れこみだった。この様な格好でご容赦いただきたいと、白い薄布のようなものをかぶっていたことを思い出す。

 もっとも真珠も御簾ごしなので、そんなものをかぶらなくとも顔の造作などさほどわからなかったであろう。舞を始めればなおのこと、人の顔など見ている余裕はない。

 あれが、惟月。

 疑いもせずにいつものように舞った自分に腹が立つ真珠であるが、もっとも許しがたいのは藍玉だ。

「藍玉、何を考えている。みすみす宮を政変に巻き込む気か」

「しかし、あの鬼(おに)若子(わこ)はあまりにございます」

 藍玉は平伏したまま言った。その声は涙に濡れている。

「だからといって」

 当代の山城が常軌を逸していることは真珠もきいている。逆らうものをためらいなく粛清し、父までも手にかけてその座を手に入れた、と。その冷酷無比なやりようを恐れられ、鬼のような若君、鬼若子と忌み嫌われている。聡明な腹違いの弟はその兄の暴虐に怯えて居を点々とし、信頼する家臣とともにその喉笛を狙っているということも、噂から縁遠い宮にでさえ耳に入ってきている。

 だから真珠は距離を置いていたのだ。争うならば勝手にどうぞという具合であるが、万が一にも巻き込まれてはたまらない。真珠は金輪際、銀狼を選ぶ気はないのだ。余計な思惑を持った男どもに道具扱いされるのはごめんだった。

 藍玉はそんな恐ろしい鬼若子に真珠が嫁ぐ可能性があると恐怖したのであろう。姫巫女は時が来れば銀狼を選ぶものだときまっているのだから、その不安は無理もない。まして彼女は真珠が決して婚姻なぞしてたまるかという決意を知るはずもない。幼い心を痛めた結果、こんな大胆なことに及んだのだ。

「お叱りごもっともでございます。しかし、姫巫女さまのお幸せは私の幸せでございます。どうか、想う方と添い遂げてくださいませ。鬼と呼ばれるあの銀狼ではなく」

「ちょっとまて。何の話だ」

 なにか含むところのある藍玉の言い様に、真珠は眉間の皺を深くする。藍玉は一段、声を低くした。

「私にまでお隠しにならなくとも結構でございます。姫巫女さま、殿下と恋仲なのでしょう」

「どこでそんな勘違いがあった!」

 思わず真珠は頭を抱えて叫ぶ。が、それがただの取り繕いだと思われたのであろう。藍玉は目に涙をいっぱいためながら、

「どうぞあとはこの藍玉にお任せくださいませ」

 何を任せるというのだ。

 大喝したいのを真珠は必死で理性をもって押しとどめる。もはやここで何を言っても仕方がない。藍玉は乱心しているのではないか。

 ともかく、宮の者たちにはあとで言い含めるとして、今はこの場をなんとか治めることの方が先決である。真珠は頭の中でそう決断を下す。

 なにとぞ、なにとぞ。

 藍玉との対話の間もそう喚いて真珠の純白の装束の裾をつかむ武者を、冷たく見下ろす。

「放せ、無礼者」

 一言でもって切って捨てる。冷や水を浴びせたに等しい。

「宮の者がいかにお前たちに加担しようとも、円環の姫巫女たる私は惟月などという知らぬ男に加勢をした覚えはない。妙な噂が立つ前にここを去れ」

「姫巫女様」

 なおもすがる男を蹴飛ばして叫ぶ。

「おい、山犬を呼べ」

 宮を守る女だけの兵を呼んでくるように侍女に告げると、転がるように駆けだした。だが、事態は待ってはくれなかった。山犬が到着して肝心の彼女たちに命を下す前に、武者の刀が真珠の喉元に狙いを定めていたのだ。

「ご無礼を」

 無礼だと? それどころの問題じゃないだろうが。

 震える声でのふざけた謝罪ののち、藍玉の悲鳴が響く。

「お話が違います! 姫巫女さまには指一本触れないお約束です」

「藍玉殿、そのような悠長なことを言っている場合ではない。兵を向けられているのですぞ」

 それはお前たちのまいた種だろう。

 いっそ馬鹿馬鹿しくなって真珠は口の端を釣りあげた。

「お前、誰に切っ先を向けているのか理解しているか」

 言いながら、そうかあの夢はここにつながるのかと納得した。

 血の海に横たわる自身の姿。

「だいたいにして、お前の主は姿を見せぬがどうした。女を装って私の舞を見るだけの腰ぬけか?」

「無礼は承知ですが、姫巫女様には我々に従っていただきます。惟月様の妻になっていただきたい」

「馬鹿も休み休み言えよ。なぜ、私が腰ぬけの夫を持たねばならんのだ。おまけに簒奪者ときた。神に命じられているならともかく、お前ごときが私に命じるか、笑わせるな」

「黙ってください」

「だから、誰に向かってものを言っているのだ、お前は。幼い藍玉しか抱きこめぬ小物め。それでは主の器も知れるな」

 どうあってもあそこへつながると言うのなら言いたいことは言わせてもらう。やけになっているというよりは、高揚していた。

「これ以上しゃべらないでください。手元が狂います」

 言いながら、怯えているのは男の方だった。真珠は口の端を上げたまま、切っ先に首を突き出す。つぷっと皮膚が破れる音がして、血が流れる。

 藍玉の二度目の悲鳴が耳奥で反響した。

「やってみるがいい。お前の上等な主でもお前たちが厭うあんまりな鬼若子も、誰も私を従わせることなどできはしない」

 そうだ。天狼すらも。

『お前、私のようにはなれないわよ』

 夢の言葉が脳内に響く。そんなこと、あるものか。言いきってやる。あの美しい姫巫女がかつてそう言いたかったように。

「私は私以外には従わぬ」

 真珠の不敵な宣言に答えたのは、半ば覚悟した向けられている刃ではなかった。見知らぬ男の、揶揄する声だった。

「あんまりだ、というのはこういうことか」

 知らぬ声が響くと同時に影が現れた。

 黒一色の装束を身にまとった男は真珠が何か言う前に刀を抜いて、そして収めた。

 瞬間、刀を向けていた武者が、緩慢にその身を横たえる。解放された首が急に思う存分むき出しになったような気がして真珠はぞっとした。もっとぞっとしたのは武者の首がまるで椿の花のようにあっけなく落ちて血の海に沈んでいるところだった。落ちる様は潔く作り物めいていたが、切り口からのぞく赤い肉と黄色い脂肪、純白の骨が現実の色を訴えていた。

 まるで太刀筋がみえなかったどころか、目の前の男がどこから現れたのかすらわからなかった。

 男はごく平静だった。足元に転がる斬ったばかりの武者に見向きもせず、かわりに真珠をじっと見つめていた。路傍の石ころを蹴ったとて、もっと足元を気にするだろう。

 人を斬り殺すことに慣れきっているのか。

 見つめてくる瞳をそらすような愚は犯さない。

 野生の狼のようだ。

 真珠はその男の姿を見た瞬間、あの美しい獣を思い浮かべた。

 浴びる血の色を隠すため、黒い衣服しか身にまとわぬと言われている鬼若子は、その恐ろしげな噂にそぐわない、涼やかな風のような男であった。

 衣服こそは黒でいかめしいが、まっすぐな黒髪を横にながし、現れた双眸は紛れもなく美しい銀であった。顔つきそのものは繊細といってもいい。この銀の瞳と黒衣さえなければ歌人といっても通るだろう。

 が、真珠が一目見て言葉を失ったのは見惚れていたからではない。

 姫巫女さまっ

 瞬間、叫びだそうとするのをこらえられたのは奇跡であった。こみあげる懐かしさとは別の、なにか身体の奥深いところから湧きだす激情とも思しき熱の波が、真珠の身体を駆け巡った。どうしようもない衝撃に僅かによろめく。感情とはちがう。本能とも呼ぶべき衝動のままに目の前の男に駆けよってしまいたいと思っている。

 馬鹿な。

 説明のつかない突如として湧きあがる衝動を嘲笑おうと、真珠はまったく関係のないことを言った。

「藍玉、血の匂いを落とす必要はなかったな。これではどのみちおなじことだった」

 くだらない言葉を笑う元気のある者は誰もいない。一人はただの屍であるし、藍玉は腰を抜かしている。目の前の不心得者ですらその端正な顔を僅かにゆがめただけだった。

「あんたの主は随分と肝が据わっているようだ」

「姫巫女様、ご無事でなによりでございました」

 身を投げ出すように足元に這いつくばる山犬を真珠は見下ろす。

「他の者は」

「みな、無事でございます」

「お前がその様子なら、他の者は命だけは、という状況か。まったく、やってくれるな。お前の弟君は」

 さらりと男の正体を示してやると、男は肯定する代わりに言った。

「返す言葉もないな」

「山犬ともども助太刀いただいたことに感謝すべきだろうが、もとからお前たちのまいた種だ。それに思いっきり我らが巻き込まれているわけだが、なにか言うことはあるか。そういえばお前、まだ私に名乗りもしていないな」

 思いっきり胸をそらすが、男の背丈はなお高い。十五で背丈が止まってしまった真珠では到底追いつけない。しかし、結果ではなく何事も心意気と言うものが大事である。

「山城家が当主、透輝だ。姫巫女の御前で失礼した」

 軽く頭を下げる様がまったく悪びれていない。

「私は当代の巫女、真珠である。山城の、許す」

 こちらもふてぶてしさを前面に押し出して許しを与える。

 山城の当主、ということは真珠の見立て通り、この男が恐れられている鬼若子である。

「お許しをいただけて有難い限りだが、御前を血で汚したことを謝罪はしても、姫巫女殿をこの度の反乱に巻き込んだとは思わない」

「なんだ、私が疑われているのか」

 固い表情を揶揄するように、真珠は軽やかに言い放った。透輝はその軽やかさにつられたのか、引き結んだ口の端を僅かに上げた。

「言葉をいくら弄しても意味がないので単刀直入に聞く。巫女は我が愚弟に祝福を与えたのか」

「仮にそうであったならどうするのだ」

「殺すしかない。すべて」

 凶悪に微笑んだ男は実に簡潔な答えを返した。

 足元に怯えた藍玉がすがりついてくる。透輝はいたいけな幼女にちらりと視線をやっただけで、すぐに真珠に目を向けた。

「もはやこれ以上、くだらぬことで家中を乱している場合ではない。世界に国はここだけではないのだから」

「言葉通りであれば同感だな」

「今一度問うが、祝福を与えたのか」

「与えていない、といってもこの期に及んで信用してはくれぬのだろう?」

 事実として、惟月はもう真珠という存在を大義名分として利用している。兵を連れているのだから、いま真珠の口から「否」を聞き出したところで、結果は変わるまい。あとは、真珠がいかにうまく殺されるか、という話になってくる。そうでなければ、目の前の男は宣言通り宮に火をつけすべてを殺しつくしかねない。

 だったら、ここは真珠自身を差し出すべきだ。身体は、目の前の男の者になりたがっている。あの夢の意味がようやくわかった。

 姫巫女の死。それは文字通りの意味でなく、婚姻による姫巫女の位の返上を指していたのだ。

 誰に言われずとも、昂ぶる身体でわかる。真珠はたった今、伴侶となるべき銀狼を見つけてしまった。だが。

 じょおぉぉぉだんじゃない。ご免こうむる。

 かつて恋いこがれた姫巫女の面影を残す男を目の前にして、内心で大いに舌をだしてやる。差し出してたまるものか。かといって、宮の者たちもろとも死んでやることもご免である。

 真珠は唐突に大笑した。

 乱心したか、と透輝が胡乱な視線を送ってくるにも構わず、ひとしきり笑った。そうしてのち、言った。

「気にいった。お前を選んでやる」

 言葉の意味を正確に把握したのはこの場において、藍玉のみであった。

「姫巫女様、なんということをっ」

 悲鳴を上げ、すがりつく。

「ご乱心遊ばされましたか。まさかかような者と婚姻などと」

「私の決定だ、くつがえらぬ」

 藍玉。

 いまだ張り付いたままの足もとへ呼ぶと、ばつが悪そうに俯いたまま小さく呟いた。

「……作法に則って扱っていただければこちらからは否やはございません」

 ここまで聞いて慌てたのは透輝である。

「おい、婚姻とかいったか? 何の話だ」

 その片眉をあげていらだちを示す様がかつての姫巫女そのもので、自然、真珠は微笑んでいた。とたん、透輝はいぶかしげな顔をした。

「なにがおかしい」

「いや、すまない。お前を笑ったわけではないのだ」

「なにか勘違いしていないか。あんたに決定権はない。あんたの生死も宮の存亡も俺が握っている」

「お前、透輝とかいったか」

 やれやれ。真珠はわざと大仰に息をついて見せた。

「私のことを知らんのか。円環の姫巫女ぞ。寝物語に母上は語って聞かせなんだか」

「あいにく、鬼に母などおらんのでな。いずれにしろ戯言だ。円環の姫巫女が天狼の意志を伝えて繁栄をもたらすなど、頭から信じているのは馬鹿な我が弟殿か、あんたみたいな神が見えると嘯く法螺吹きだけさ」

 己の優位を確信しているからこそ、真珠の泰然とした態度が不審でならないのだろう。強い言葉を使うのは立場をわからせたいからだ。しかし、それを言うならこちらも同じことだった。

「神とはどこに宿るか知っているか」

 一歩、真珠は歩を進める。血の川をわたるように。

「善なる心? 美しき行い? それとも無垢なる魂か。どれも違う。習慣にこそ宿るのさ。生まれ落ちてから己が確立するまでずっと、浴びるように姫巫女という価値観をたたき込まれる。それはのりのようにべったり張り付いて洗えども洗えども容易にはとれない。では問題だ。そういうふうにして育った民がざっとここらあたりにひしめきあっているのだが、お前のその少ない手勢でどう主導権を握る気だ? よもや、ここがお前たちの言語で言うところの、敵陣のど真ん中であることを忘れたわけではあるまい?」

「あんた……」

 透輝もそのあたりの危険性を考えていなかったわけではあるまい。それを引き換えにしてでも焦っているのか、あるいはどうとでもなると思っているのか。

 お前がうっかり作ろうとしている敵はさほど甘いものではないと真珠は教えてやる。

 忌々しそうに口をゆがめる透輝に、真珠はさらに言った。

「武人とただの民草では兵力が違うなどと、詭弁を労してくれるなよ。同じ人間だ。一騎当千などいう言葉はそれこそ寝言よ。仮にお前たちがここを制圧し私を殺したとしても、そこからが我らの本領発揮だ。この山のすべて、麓の村々の住人は死をも恐れぬ兵となるだろうよ」

 人は己の根幹に関わるものを傷つけられる時、命を担保にして刃をとることがある。まして、ここいらの民が信奉する天狼は戦神だ。魂に刷り込まれた闘争の血は身分を問わない。

「で、教えてほしいのだが、ここまで言ってもお前が主導権を握っていると本当に思っているのか、心から?」

「なるほどな。ただのお姫様じゃないようだ」

 軽い口調とは裏腹に、透輝の言葉はわずかばかりの苦さが滲んでいた。若者らしい虚勢の張り方だ。

 在位百五十年を越える真珠が笑う。

「侮るなよ。私がお前の六倍ほども生きているといっても信じないだろうがな」

「なにが望みだ」

 揶揄を無視して、透輝はずばりきく。真珠はわざとあっけらかんと答えた。

「望み? 私がお前を選んだという意味を、まだわかっていないようだな。ただの女が惚れた腫れたなどというのとはわけが違うぞ。私が望んでいるのではない。天が命じているのだ」

 自分で言っておいて、真珠は内心で苦笑した。理屈もなにもあったもんじゃない。

 透輝から向けられる視線は理解できないものを見るそれだった。否定はしない。なにかにまるごと自分を預けてしまうことができるのは、本性に理性で制御できないなにかをはらんでいるからこそである。

「とはいえ、理解しろとは言わん。神を信じないのはお前の勝手だ。そもそも、気軽に考えたらいいのだ。私は宮の安堵を望み、お前はお前でこの美少女姫巫女の威光を存分に使えばいい。お前が不信心なのは結構だが、周りはそうはいくまい。円環の姫巫女という存在は十二分に有効なはずだ。つかいどころはいくらでもあろう」

 すべてはただの取引だ。しょうがなく、宮のために私は私を人質として差し出すのだ。

 猛烈に欲しいと暴れまわる本能に、理性がそう嘯く。

 透輝を欲しがるのは天狼の意思だ、間違いなく。けれどもそれを真珠の心が受け入れるかは、また別問題である。

 天狼のお望みのままに、この男に嫁してやる。

 しかし、自分の全てを開け渡すつもりもなければ姫巫女としての未来を諦めたわけでもない。ここから、存分に抵抗してやる。

 真珠の内心の決意を、透輝は知る由もない。考え込む素振りをした。

「つまり、宮への安堵の対価として己を差し出す、ということか」

「お前がこの国の安堵を天狼から得るかわりにな」

「どうにも都合がよすぎやしませんかね」

 遮ったのは派手な着物を肩にかけた、えらく整った顔立ちの男だった。瑠璃、と透輝がその名を呼んだことで、仲間かと真珠は合点する。

 先ほどまで姿は見えていなかったのにどこから現れたものか。それにずいぶんと血の匂いがする。そのくせ着ているものに血の一滴もついていないのが恐ろしい。

「あんた、また首突っ込むんじゃないでしょうね。ここでやっておいたほうがことは簡単でしょうが」

 殺気を隠そうとしない瑠璃に、何のこだわりもないように真珠は頷いてみせた。

「そうだな、簡単に戦になる。泥沼のだ。それも面白かろうよ」

 肩をすくめて言う真珠を透輝は睨みつける。真珠は決して目をそらすことはなかった。はたして、根負けしたのは透輝のほうであった。

「あんた、神に仕えさせるには惜しいな」

「どういう意味だ」

「俺の手元にほしい、ということだよ」

「ちょっと、陛下っ」

 合意を得られた、ということか。

 透輝の言い方に唖然として、ややあってから真珠は破顔した。

「なら一つ忠告しておこうか」

「なんだ」

「見ての通り、私は美しい」

「……は?」 

 ぽかんと口を開けたままの透輝に、真珠は一つ大きく頷いた。

「見惚れるくらいは許すが、己の本分を忘れて美しい私に心底惚れるなよ、と言っているのだ。身の内に裏切り者を抱えたお前に、私に溺れる時間があるとも思えんが念のための忠告というやつだ。せいぜい理性を働かせて美しい私を汚さぬよう、努めるのだな」

 透輝は僅かに顔をひきつらせていた。とんでもない女だな、と呟いたのが真珠の耳に届く。

「あんた、ちょっとおもしろすぎやしないか」

 ため息と同時に吐いた言葉は紛れもなく呆れの色が濃い。真珠は鼻で笑い飛ばした。

「性分だな。立ってしまった波風には全力で乗っかっていくことに決めているのさ、私はな」

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