秘匿

 どうやらその夜にもう一人お客が来たらしい。そんな物音が聞こえたのだが、女将は次の朝食も私の部屋に留まってお茶を注いでいた。紫の桜模様の着物だった。

「私の方へ付きっきりで良いのでしょうか」

「いいんですよ。もう一人のお客様は朝が遅いようで、十時頃でよいということでしたから」

「まだ三時間ありますね」

「はい。たっぷりです」

「そういえば先日の晩、月夜さんと長らくご一緒しましたが、何ともありませんでしたね」

「そうですか。ほっといたしました」

「丈二さんにも聞いたのですが、一部のお客さんが月夜さんに言い寄って乱暴するので振り切って逃げなければならない、ということではないのですか」

「性的に、ということですか」女将は手を止めて私の顔を見た。意表を突かれた、という反応だった。

「ええ」

「いえ、本人からそういった話は聞いていなかったものですから」

「知らなかったのですか」

「はい。恥ずかしながら、いくら訊いてもそういった話はしてくれなかったもので」

「そういうことなら同性の女将さんの方が話しやすいものだと思いましたが、何か含むところが」

「すると……私がそれを知れば夜の案内をさせてもらえなくなると思ったのではないですか」

「ん? ではあれは月夜さんが進んでやっているのですか」

「そうですよ。あの子はお客様とのお話を楽しんでいるようですね。おとなしい子ですが、ああ見えて案外社交的なようで。あの、丈二の話というのは本当なのでしょうか。いえ、私が確認すればいいのですが、松原様が聞いてそれをもっともらしく感じられたかどうか、お聞きしたくて」

「月夜さんからそう説明された、ということでしたので、丈二さんもご自分で確認されたわけではないですね。ただ、そういう事情であれば――こういう言い方も失礼かもしれませんが――腑に落ちたな、と、私はそう感じました。もしそういった不貞なお客がいるのであれば、歓待を続けることもないのは確かですよ」

「それで松原様は、私がそれを知りながら宿の経営のために押し隠してあの子に案内を続けさせていると、そうお思いになったのですね」

「いえ……、まあそうなのですが、女将さんがご存じないとは思いませんでした」

「もし今のお話が本当ならあの子がお客様を置いてきてしまうわけも理解できますし、続けさせるのは酷ですね。しかし月夜はやはり私には明かそうとしないでしょうし、案内も続けたがるでしょう。難しいところです」

「私も自分で聞いたわけではないですので何とも言えませんが、私の方でも今度機会がある時にそれとなく月夜さんに聞いてみてもいいかもしれませんね。伝聞でも一人のみならず二人が聞いたとなれば、真相はともかくご本人の思いはもう少し正確に察せるのではないでしょうか」

「わざわざすみません」女将は言った。その答えは「お願いします」でもなく「そんなお手間をかけさせられません」でもなかった。他人に詮索されたい問題でもないが放っておいてくれとも言えない。そんな具合だろうか。

「ところで、街道が崩れてから彼女が道案内を始めるまではどうしていたのですか」

「バス停までどう行き来していたのか、ということですか?」

「ええ」

「完全にお客様の自力でした。一番客足が遠のいていた時期ですのでそれでも成り立っていたんです。暗くなってから到着するという方もほとんどありませんでしたよ」

「月夜さんは生まれてからずっとこの城にいるのですか」

「ええ」

「あのバス停より先に行ったことはないということですか」

「山の中ではもう少し遠くまで足を伸ばしたこともあるかもしれませんが」

「お客の案内をしたい、話を聞きたいというのはそういうことなのですね」

「かといって外へ出ていくことが自分のためにならないとも思っているのでしょうね。外界は明るいものです。あの髪、あの瞳が、特異の目、奇異の目で見られるのは必至。隠れて自給的に生きるためにこの城はひとまず最適な場所なのだと思います」

「改めて外界へ行ってみたいと彼女が言ったら、あなたは親としてどう答えますか?」

「それは……仕方がありませんよ。少し寂しいですけど、行かせてやらなければ」

「月夜さんのためにもあなたはこの宿を守っているのですね」

「不便なところですが、そうおっしゃっていただけると幸いです」

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