月鏡

 私はもやもやとした気分だった。女将の話を信じるなら月夜は怪異に類するものであり、丈二さんの話を信じるなら至って年頃の少女だった。結局は自分で接して確かめる他あるまい。だが一つ確かめておきたいこともあった。

 夕食後、私は女将と丈二さんが厨房に詰める機を見計らって番台の電話に取りついた。

 松田はすぐに出た。

「ああ、先輩、宿はどうです。月はよく見えますか」

「月は綺麗だがね」

「その感じ、頼み事ですね」

「うん。過去十年から十五年分、この近辺の行方不明、あるいは変死体が上がったりしていないか洗ってみてくれないか」

「ややや、まさか怪談ですか。怪談付きの古城ほどおいしいネタはないですよ」

「私が怪談の餌食になっても君はおいしいだろうよ」

「いや、そんなことは」

「とにかく頼むよ」


 夜、月夜の部屋の前に行くと中からかすかに話し声が聞こえた。丈二さんだろうか。私が声をかけるとその声は止んで月夜だけが出てきた。例によって遮光グラスをかけて笠を被っていたが、袖裾は下ろし、長靴ではなく下駄を履いた。着物は藍色に菊の染め付け、角帯は同じものであった。

 流れる雲が時折月を隠した。半月と満月の合間の月であった。

「日和ではありませんね」私は言った。「じきに晴れるかもしれません。まずご案内だけでもよろしければお連れします」

「ええ、そうですね。お願いします」

 月夜はまた肩に手を置くよう私に促して城を上っていった。二の丸より奥に明かりはなく、月が翳ると自分の足元さえ見えなくなった。

 それでも月夜は下駄を響かせてすたすたと歩いていく。私も不思議と舗装の悪さを気にせず歩くことができた。昼間より時間をかけず天守に行き着いたような感覚すらあった。

 月夜は下駄のまま天守の床に上がった。

「床がささくれていますので履物がないと危ないのです。どうかご勘弁を」

 棚のような急階段を登り、三階が最上階であった。私は息が上がっていた。

「ここだけは床を磨いていますので靴を脱いでいただいても構いません」

 確かに床が光っていた。月光が差すとよくわかる。

「そういうことなら脱いだ方が良さそうですね」

「下階も同じようにしたいのですけど、ここも二三日に一度は磨かなければ保てませんし、宿の周りの方を優先しなければなりませんので、わたしだけでは手が回らないのです」

 月夜も夜の間は外の仕事を掛け持ちしている、ということらしい。

 私はいささか手探りに回り縁に出て空模様を確かめた。雲は先程よりむしろ厚くなっていた。

「あそこに古月湖があるのですが」月夜は横に来て指差した。

「よく見えませんね」

「やはり今夜はいい月が望めないかもしれません。戻られますか」

「もう少し待ってみましょう」

 月夜は正座してポーチから大きな水筒を取り出し、湯呑に緑茶を注いだ。

「ありがとうございます。ああ、もし普段の仕事があるなら私に構わずやってください。別にここで一晩明かしてもいいですから」

「いえ、それは失礼にあたります。でもお言葉に甘えて、ここの床を拭かせていただこうかと」

「はい。全然構いませんよ」

 月夜はポーチから襷を取り出し、口も使って器用に袖を縛り、「水を汲んできます」と階段を下りていった。

 その間に月は分厚い雲に隠され、辺りも濃密な暗闇に包まれていった。


 

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