「続たびねこ綺譚」

はしねこ

 猫のケンカは、押し出しの強い顔がものをいうんだそうだ。だからか、僕は我が相棒のチビ黒猫トントンがケンカしているところを見たことがない。何しろチビすぎるから、どう渡り合ったってかないっこないのだ。ケンカを売る側も、売るだけばかばかしくもなるだろう。


 逆に、他の猫がケンカしているところにも、気にせずのこのこ近づいていく。すると、そんな姿を見た猫たちは、冷や水をぶっかけられてケンカをやめてしまう。トントンは、猫界における争い事を、和解に持ち込む希有な才能の持ち主であるらしい。


 仲裁というのは、なかなかどうして面倒な作業で、好きこのんでやる人はあまりいない。人間のケンカの理由が、だいぶ複雑になっている昨今となればなおさらだ。殴り合いで解決することは、むしろ珍しくなり、まぁまぁまぁと引き離せばそれで済む、というわけにはいかないのだ。


 だけど、自らの正義をかざしとげをさらして争うとき、人はどこかで、仲裁者が来ることを心の隅で信じているような気がする。すぐれた仲裁者の到来を心から待ちわびることは、争いの苦痛すらも見失わせる、至福の時間であるのかもしれない。


 ―――でも、仲裁者は、必ず来てくれるとは限らない。ときとして、行方を見失ったままひたすら続く争いは、とても悲しい。




 そこは、山懐に抱かれ、川を挟んで形成された、それなりに歴史のある町だった。


 川は西から東に、けっこうな勢いで泡を立てながらだばだばと流れ、その北岸に街道が通り、一帯は宿場となり賑わっている。


 橋を渡って南岸には、領主の屋敷が築かれている。わずかな平地は、三方を険しい山に囲まれた、いわゆる天然の砦となっており、橋が唯一の入り口だ。乱世の時代、敵に攻め込まれにくいように、そういうふうにしたんだそうだ。


 つまるところこの町は、政治の中心は南岸、経済の中心は北岸。これが大きな鉄橋一本で結ばれている。ありがちな話だが、川に断絶されたふたつの集落の仲はあまりよくなく、小さな歴史の中で、川を挟んで幾度かの抗争を起こしてきていた。


 それにしても、鉄橋である。数年前、建て替えられたそうだ。都会だと最近増えてきたようだが、こんな田舎の風情を残す町にはまだまだ珍しい代物である。むしろ田舎の風情にさっぱり似合ってなくて、不格好にすら見える。


 れんがを積んだ丸くて太い橋脚が、川の中から突き立ち、その上に、H字鋼を組み合わせて造られたと思われる、ばかばかしく巨大な橋桁が連なっている。その橋桁の上に鉄板を貼り、さらに薄くセメントを敷いて、滑りもせず歩きやすい路面を実現していた。


 これだけの技術がここにあるとも思えないから、どこぞの産業の発達した都市で作ったものを、海を渡り川を上ってはるばる運んできて、組み上げたのだろう。鍛造にも運搬にも建築にも、いくらかかったんだか見当もつかない。


 「すごい橋ですね」


 宿の主人にそう言うと、


 「ふん、ミナミの連中が、わしらから搾った税金で造ったのさ」


 なるほど。……造って必ずしもよかったというわけでもないらしい。確かに、この素晴らしい橋の恩恵にあずかれるのは、南岸に住む人たちだけだ。政治家なんて、およそそんなものか。


 で、宿の主人の言葉が敬語でなかったことからも知れるとおり、僕の路銀はすっかり尽き、ここで下働きとして厄介になっていた。


 ほんとうは客だったのだけれど、宿代を払おうとしたら財布からは小銭しか出てこなかった、というのが真実だ。そこまですかんぴんとは思いもよらなかった僕のだらしない苦笑がしゃくに障ったか、それとも肩でなーおと鳴いたトントンがいけ好かなかったか、ともかく主人ときたら連日こき使うこき使う。ふたことめには「このタダ飯野郎が!」と怒号が飛んでくるありさまだった。


 だからか、今年の祭りの、山車を曳くメンバーに、よそ者だからってんで僕は入れてもらえなかった。


 そう、祭りが近かった。年に一度の、勇壮で知られるケンカ祭りだ。山車を曳く男たちが、体から湯気をたてながら、橋の上で北と南からぶつかり合う。毎年ケガ人続出だそうだ……頼まれたって僕は出なかったと思う。逆に、せっかくだからその日までは働いていこうという心づもりができた。




 で、ある夕刻、太陽が西へ傾いたころあい、僕はなぜだか暇になった。夕食の準備が始まってはいるが、お膳の上げ下げにはまだ早い。けれど穴があいたように時間が余ったのだった。僕は、トントンを連れて、外をぶらつくことにした。かといってあまり遠くへも行けないので、僕は宿からほど近い、かの鉄橋へと向かってみた。


 それにしても、鉄橋である。橋というのは、冷やかしたり味わったりするものじゃないのだろうけど、そうしたくもなるほどの威容だった。土手を上って、広々とした橋の上を、ちっぽけな僕とトントンは、とぼとぼと南へ歩んでみた。


 と、川面を、ふっと大きな黒い何かが横切ったような気がして、僕は橋の東側の欄干から、下流方向を見下ろした。……鳥かぬえかと思ったら、自分の影がゆらゆらと川面に揺れていたのだった。並んで、大蛇の鎌首のように伸び上がるのは、トントンの尻尾だ。


 はっと振り返ると、空は夕焼けだった。空をはすに横切ってたなびくいわし雲に、にじむ赤・緋・茜・紫。いくら色の名前を並べたところで言い尽くせぬ、神々しいグラデーションが、空と、飛沫をたてる川面に映し出される。大地と混ざると、偉大なる太陽は、こんなにも憂いを含むのだ。


 役人は仕事じまいの時刻だからだろう、往来は多く、人々の顔も朱に染められていた。家へ帰る人、宿へ向かう人。せかせかと、長い影をしたがえながら歩いてゆく。僕にはこんなに綺麗でも、この町の人にはいつもの光景なのだろうか。いや、そんなことはない。夕焼けはほとんどどこの空でも見られるけれど、美しい夕焼けは年に数回、旅回ってみてもこれは万国共通だ。


 鉄橋のようなすごさを見慣れると、こういうすごさも見慣れたつもりになってしまうのだろうか。綺麗ですよ、見ていきなさいよ、と声をかけたかったが、そうやって見向きもせず通り過ぎてゆく朱色の人たちの存在がなおせつなく、僕は口をつぐんで、暗くなってゆく空をじっと眺めていた。


 と、僕と同じように、夕焼けをぼうっと眺めている人がいた。ヘルメットをかぶり、ごわごわした作業服を着て、軍手をはめている。工夫という風貌だが、それにしては腰が曲がっており、ヘルメットからのぞく髪の毛も白髪混じりで、力強さはない。顔色も、なんだかひどく悪く見えた。


 故郷にいた頃、近所のおじいさんがすっかりボケてしまい、体が動きもしないのに毎日うろうろしていた。そんな姿に似ていたが、瞳には意志があった。


 少し距離をおいて並びながら、ふたりして夕焼けを眺めていた。


 「……いい夕焼けでしたね」


 見ごろが過ぎ、僕は老人に言った。


 「まったくじゃ。じゃが、見とったのはわしとあんただけじゃ」


 老人は僕の方を見ずに言った。ひとりごとのようだった。


 「こんな谷あいの、空が狭い町でも、橋の上ならよぅ見えるのにの。誰も、見ようとせん」


 老人は、がん、と後ろ向きにかかとで欄干を蹴っ飛ばした。


 「まったく、こんなもの造らんだらよかったわい」


 「え?」


 僕は耳を震わせた。


 「……それじゃ、もしかしてこの橋は、あなたが?」


 「そうじゃそうじゃわしが作った。わしがここで、組上げの現場監督をしたんじゃ。あの年は毎日いい天気でな。工事もはかどった。いい夕焼けもよく見られた」


 「へぇ……」


 感心してみせると、老人は嬉しくなったのか、僕の方を向いてくれた。舌の滑りも、急に良くなった。


 「もう何年経つかな。わしはこんな大きな仕事を任されて有頂天じゃった。大わらわとはよくもいったもので、本当に子どものように、カントクカントクと呼ばれながら、あっちに指示を出し、こっちに作業を手伝い、そっちで檄を飛ばして、それで毎日が過ぎていった。朝は下流の朝日を見て働き、昼は青い空を見上げて働き、夕暮れにまた上流の真っ赤な夕焼けを見て働き、あとは食って寝る。遊びたい盛りの若い連中は愚痴ばかりこぼしよったが、わしはそれで満足しておったんじゃ」


 「でも、カントク」


 僕もそう呼ぶことにした。


 「その甲斐あって、こんなすごい橋ができたんじゃないか。なんで、『作らなかったらよかった』なんて言うのさ」


 「すごくない、すごくない」


 カントクはゆっくりと首を横に振った。


 「適材適所、ともいうわな。最高の技術、盛る情熱の向かうべきところと、社会のあるべき姿とは、相容れるとはかぎらん。いやいやその見境というものは、才幹あってもなかなかつかないもんじゃよ。だがわしはただ、自分のできる限り最高のものを造りたかった。そうでなきゃ現場監督はつとまらんのだ。……じゃがな、橋は、渡っていただかなきゃ橋にならんのじゃよ」


 「でも、こんなに多くの人が渡っているよ」


 「渡ることと歩くこととは違うんじゃよ、お兄さん。……それにあの祭りじゃ」


 「勇壮で知られる、あの?」


 「勇壮なもんかい」


 カントクはこんなことを言った。


 「わしが建て替える前は、この橋は幅が細く、木造で、欄干すらなかった。だからこのケンカ祭りも、ぎしぎしいう危なっかしい橋の上で、選ばれた何人かがぶつかりあい、どっちが誰を川に突き落とすかという祭りだった。川の中で頭を冷やし、あるいは川の中でじたばたしているのを見れば、誰もがはっはと笑い、すぐに仲直りもできようものだった。わしの鉄橋は、その麗しい流れを断ち切ってしまったんじゃ。町中の男が総出で載っても耐えられる丈夫さ、広さ、安全のための欄干。最高の技術、正しい情熱の向かう先にある橋は、この町、この祭りのためには、不要だったんじゃよ。だが今さら、欄干ははずせんわ」


 カントクは顔を上げ、遠くを見やった。どこか悲しそうだった。


 「橋はなぁ……橋は人と人がゆきかうために作られるのじゃ……いさかうためのものではないのじゃ……心の通わない橋は、ダメになっていくばかりじゃよ。さびしぃのぉ」


 と、トントンが僕の肩から下りて、カントクの足下にじゃれて、なーぅと鳴いた。一変してカントクは頬を緩め、ほっほぉと笑った。


 「おぅおぅ、こんな弱音を吐いてはいかんかね。じゃがまぁ、わしも老いぼれじゃ、堪忍してくれぃ」


 カントクは、しゃがんでトントンを抱き上げると、僕に返してくれた。トントンを間に、触れ合ったカントクの手はごつくてぬくもって、確かにそれは、情熱を宿してきた何かだった。


 「今日はよい出会いじゃった。元気でな、若いの」


 カントクは、後ろ手を組み、老いて丸まった背を揺らしながら、てくてくと南へ去った。


 夕焼けは、やがて宵闇へと変わり、僕らの影も、次第に溶けていった。




 やがて祭りの日がやってきた。


 よく晴れた日だった。わずかなすじ雲だけが空にかかっていた。朝から賑やかな笛や太鼓の音が青い空に鳴り響き、近所の子供たちが作ったぼんぼりがずらりと道沿いに掲げられた。


 はじめは、二台の山車が、北の集落、南の集落、それぞれを練り歩く。北の集落の山車の動きを追ってみた。五、六人でも十分動きそうな山車を、数十人がかりで曳いていくので、ときどきやけに勢いがつく。けれどそのたびに、いよいよとき来たれり、という興奮が沸き立っていくのが、僕にも伝わってきた。それは、とても巡幸って感じじゃあなかったけれど。


 人ごみはいやがるかと思っていたら、わりとおとなしく肩に乗っているトントンを連れながら、ときおりにゃんにゃんだにゃんにゃんと喜ぶ子どもらの相手をしたりして、山車を追って数時間。歩くのも疲れてきたお昼過ぎ、山車はようやく橋のたもとにたどり着いた。僕はその後ろについて橋に向かおうとしたけれど、僕(というかトントン)についてきた子どもらは、母親に手を引かれた。


 「なんで?」


 子供らは一様に不満顔をしたが、


 「あんなもの、子どもの見るもんじゃありません」


 母親はそう言ってずるずる子供たちを引っ張り、帰っていった。


 彼らと別れ、さていよいよ山車を追いかけようと思ったそのとき、耳元でどぉんと太鼓が鳴った。後続のお囃子の一行が通り過ぎたのだ。僕は驚くだけで済んだのだが、トントンはそうはいかない。ふみっとひと声鳴くと、ぽぅんと飛び降り、祭りでごった返す人波の足下もするするりとくぐり抜けると、土手を駆け上がっていった。


 これ幸い。僕はトントンを追いかけて土手を上った。ケンカ騒ぎを見るべく、土手にずらりと並んだ人々の間をかきわけ、そのまま土手を下った。思った通り、川原は、斜め下から橋全体を見渡せ、ケンカ祭りを眺めるには、土手の上とともにかなりの立地といえた。


 ござで陣取り、酒肴を準備して、まだかまだかと待ちかまえる見物人もたくさんいて、それなりに混雑していたが、もとが広い場所なので、トントンを追うには差し障りない。どうにかトントンを捕まえ、腕に抱えて、僕も橋を見上げた。


 北の集落の山車が土手を上ってきた。橋の北側に構えた頃、南の集落の山車も南岸に姿を現した。ふたつの集落の山車と、総勢ざっと五〇名に及ぶ曳き手。双方が、ゆっくりと橋を進み、その中央、橋脚の真上付近、高く昇った日の下で、対峙した。おうおうおぅと、お互いをはやし立てる大声が飛び交った。


 ……ここで、僕の立っている川原が、小さくざわついた。あれ誰だろう、何しているんだろうと、何人かの見物人が、橋の下を指差している。


 指の先を見ると、川に突き立つ橋脚、その基部にある要石の上に、誰か立っている。作業着姿で、ヘルメットをかぶった老人……カントクだ! 巨大なハンマーのようなものを持って、じっとしている。……舟も見当たらないのに、あんな重そうなものを持って、どうやってあそこまで渡ったんだろう。だけど、カントクは確かにそこにいた。


 いっぽうで、橋の上で、いよいよケンカが始まった。町中が一気にどよめいた。橋の下にいる誰かのことなんて、みなたちまち意識の外に追いやってしまった。それだけの迫力はあったのだ。


 はじめは、男たちが、かけ声に合わせて山車同士をぶつけ合わせた。壊れるのもかまわず、えいやえいやと山車は激突した。やがて勢いがつきすぎて、山車が転倒してしまうと、今度は曳き手同士がにらみ合いを始めた。曳き手の人数が多かったのは、ここから先のためだ。


 曳き手の男たちは、南北それぞれの一団で一列に肩を組み、橋の真ん中で向かい合った。そして、よいやさぁ! と鬨をあげたかと思うと、双方相手に突進し、頭突き合いを始めたではないか。川原まで響く、ぼがぢんという鈍い音。これでふらふらになる者、なお血気盛んになる者、スクラムは崩れ、続いて個別に殴り合いや体当たりが始まった。『ケンカ』なんて、三文字で片づけてよいのか定かでない激しい行状だった。


 大半がノックアウトされ、あるいは、力尽きてぐったりとしたところで、北側の男衆の何人かが、山車を立て直し、再び、動かし始めた。いちおう、自分たちの山車を相手側の岸まで渡した方が、その年の『勝ち』ということになっているらしい。そのための手段を、もう、選ばなくなっているのだ。川原からはあまりよく見えないが、たぶん流血や骨折もあったんだろう。


 北の山車が再び動き出す。ゆっくりと曳かれ、倒れたままの南の山車の脇を、すり抜けていこうとする。南の者もどうにか食い下がってこれを止めようとする。だが、大勢は決していた。誰かが、勝鬨のつもりだったか、猛烈な雄叫びをあげた。


 川原にその声が響きわたったとき……そのとき、カントクが、ハンマーを振り上げた。そして、橋脚の要石に、ひとつのくさびを打ち込んだ。かしぃーーーん、と、高く鋭い音がした。


 橋というものが、どれくらいのどのような重さに耐える設計で建造されるものか、僕は知らない。カントクにそれがわかっていたのかどうかも。しかし、普通、ひびひとつで壊れるようなものではないはずだ。


 けれど、その一発だけで、歪んだ重みがかかったのか、石造りの橋脚には、びしびしと連鎖的にひびが入り始めた。橋桁はびりびりと振動を始め、二、三度ぐらぐらと揺れた。


 橋の上の動きがやんだ。誰もがその異変を感じとったのだ。だが動きを止めたところでどうなるものでもない。前触れは、それで終わりだった。


 橋脚がぐずりとつぶれた。中にシロアリがごっそり巣くった枯れ木、いや、それ以上にもろく。


 橋脚をかたちづくっていた石材がぼとぼとと川に落ち込み、水しぶきを立てた。続いて橋脚に力をかけていた二本の橋桁が、その支えを失って川に落ち込んだ。橋の上に乗っていた人も壊れた山車も、それでできた長い急坂にあらがえず、次々にごろごろと落ちてしまい、どぶんどどどぶんと小さな水柱を続々と立てた。


 さらに坂となった橋桁は両方とも、落ち込んだ勢いでぼきりと折れ曲がってしまい、じりじりと川の中に引き込まれ、やがて再び大きな水しぶきを立てて続けざまに落ち、そのまま流れをさえぎる置物になった。


 橋は、載っていた人々、行われていたケンカ祭りとともに、完全に落ちてしまったのだ。


 そして、この一連の激しい水しぶきの後、カントクの姿は要石の上から消えていた。




 夜まで続くはずだった祭りは、むろんその場で取りやめになった。人々は騒ぎ取り乱しながらも、川に落ちた人の救護活動に追われた。


 泳ぎの達者な人が水の中へ飛び込み、あるいは落ちた中でも元気な人が、おぼれかかったりケガをした人を次々と川岸へ引き上げた。あるいは、暖めるための火を焚いたり、壊れた橋の破片をどけたり、そんなこんなで夜まで、みなが土手から水辺に下りてどたばたしていた。僕には、北も南も関係なく助けたり助けられたりする、町の人々のそんな姿の方が、よっぽど祭りにはふさわしいように見えた。


 僕も、しばらくはトントンを放り出して、たんかのかつぎ手となった。状況を察したか、トントンは素直にどこかに行ってくれた。川から引き上げられた人を、次々と病院へ運んでいれば、カントクも見つかるだろうかと少し期待したけれど、僕のたんかの上には載らなかった。


 川の中にはもう誰もいない、とか、みんな助けたぞ、とか、そんな声がようやく飛び交ったときには、もうすっかり日が傾き、夕暮れの薄闇となっていた。


 誰もが、ふっと息をついて、黙した。そんな雰囲気は、ときとして、感染するものだ。川原は今までずぅっと騒がしかったのに、一瞬だけ、すべての人が黙り、しぃんと静まり返った。だばだばと、川の音だけが聞こえた。


 その瞬間に、にぃやぉ、と、上流の方向の土手から、高く澄んだ猫の声が響いた。トントンだ。その精いっぱいの鳴き声は、むろん小さな小さなものだったけれど、この場にはひどく異質な響きとして、なぜだか川面をすぅっと伝わり、人々の耳にせつなく届いた。


 聞いた誰もが、ふぅっと視線を上げた。


 あぁ。


 空は、こないだよりもはるかに美しいグラデーションに染め上げられていた。


 川原全体が、ざわざわした。明るい声色の、ざわざわ、だった。


 見続けた人も、しばらく見たあと名残惜しげにまた何やかやの作業に戻った人もいた。土手に座り込んだ人も、ちらと見ただけで全然関心を持たずおしゃべりを再開した人もいた。


 それらすべての反応を、噛みしめるかのようにゆっくりと、優しく町を包んだ夕焼けは夜のとばりの中に消えていった。




 川に落ちた祭りの参加者は、みな救い出されたわけだが、たったひとり、必死の捜索にもかかわらず、多くが目撃した、『橋を破壊した凶悪犯である老人』の行方だけは、どうしても知れなかった。上から石材がしこたま落ちてきたのだ、頭を打ち砕かれて即死だったろうともいわれたが、遺体は上がらなかった。だから、誰にも真相はわからない。


 僕はいちおう、それは義務だと思ったから、この事件を引き起こしたのはカントクなのだと、捜査を進める町の自警団長に証言した。だが、一笑に付された。


 鉄橋を完成させた工事会社は、はるか遠い都市にあり、カントクもそこから来てそこへ帰っていった。二度と町を訪れたことはない、という。


 風の噂では、すでにかなりの高齢だった彼は、別のプロジェクトを担当することなく、鉄橋を最後の仕事として引退した。今では少しばかり病を患い、床に臥せっているという。そんなカントクが、今さらこの町に来るはずもないし、来たら来たでひとりでいるはずはないし、まして鉄橋を破壊するような荒事に手を染めるはずはないという。


 僕の出会ったカントク、そして橋を壊したカントクがいったい誰だったのか、結局、僕が町を去るその日まで、判明することはなかった。たぶんこれからもずぅっと、謎のまんまなんだろう。


 この大事件による死者は、奇跡的にひとりもいなかった。いや、それが奇跡であったのかどうかといわれると、僕にはそうでなかったような気がしてならない。




 数日後、僕は給料を受け取ると、さっさと宿に別れを告げた。


 最後にもう一度だけ、鉄橋跡に寄ってみた。宿を辞したのは真昼だったので、夕焼けを見ることはできなかったけれど。


 北と南の行き来は、今は古い渡し船を引っぱり出してきて、どうにかやっているらしい。そして、橋の残骸を取り除く作業と、再建工事のための測量作業も、同時進行ですでに始まっていた。その場には、もちろんあのカントクはいなかったけれど、作業員が図面やら器材やらを手にして何人も立っていて、中でもいちばん偉そうな、黒々とひげづらのおっさんが、下っ端を怒鳴りつけている姿があった。


 きっとカントクもそんなだったんだろうと、様子を眺めていたら、何を思ったか、トントンが肩から下りて、新たなる黒ひげカントクに駈け寄り、足下でじゃれて鳴いた。


 すると、黒ひげカントクは、面構えには不似合いな悲鳴をあげ、跳ねのいた。


 「う、うわぁ! おれぁ猫はダメなんだよぉ!」


 さっきまで怒鳴り怒鳴られていたのもどこへやら、土手の上は、作業員一同の笑いに包まれた。さてさて、一同に弱点を知られてしまった黒ひげカントクの今後の威厳やいかに。


 川の中にわずかに残る、日と水に焼けた赤茶けた橋脚の土台が、流れに濡れて、なんだか満足げにきらきらと光っていた。

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