1-05『好都合男と今日も風が語りかけてくる屋上』2

 屋上までのルートを辿る最中、戦略的撤退を優先したことで、美海姉から屋上登校者の事情を聞きそびれたことを思い出した。

 結局、天文部云々はなんだったのだろう。


 まあ、それも必要なら本人から聞き出せばいいこと。

 別に教室ちゃんと行けだのなんだのと、先輩面して説教しに行くわけではないのだ。

 俺なんぞに偉そうなことを言う権利はあるまい。冬泉はあくまで例外だ。


「そういや、来るの初めてかもな、この辺」


 陽はまだ高い位置にある。屋上へ続く階段は校舎の外れで、部活動や居残りをする生徒たちの喧騒は遠いところに感じられる。

 慣れ親しんだ学校なのに、新鮮な気分だ。


 俺でさえそうなのだ。

 冬泉なんかは、きっと教室の光景にだって未だ慣れちゃいないのだろう。


 あの引きこもりにとって、学校空間は《日常》ではない。

 そして、そうなる日がいつか訪れると無垢に信じられるほど、俺も冬泉を知らないわけではなかった。

 何より、それが必ずしも絶対的にいいことだとは、俺も考えているわけじゃない。

 高校なんて義務教育ですらないのだ。

 一応ギリギリ冬泉も、卒業することだけは考えているのだと思うが、逆を言えば、卒業さえできればどうでもいいのだとも思う。


 さて、翻って俺はどうか。

 毎日きちんと通っている俺だって、本質的には冬泉と、目的が同じなのかもしれない。


「……しかし、屋上は俺にも非日常だな」


 扉の前まで来て、俺は呟く。ちょっと緊張しているのかもしれない。

 別段、そんなに友人を作るのが得意なタイプでもないのだ。その辺りは俺より、たぶん奈々那のほうが得意なはず。

 話したこともない後輩に、第一声で何を言えばいいのやら。


 もっとも、本当にいるのかもわからない。

 ここまで来て不在なら間抜けだ。俺は屋上へと続くドアノブに手をかけて、ゆっくりとそいつを捻る。鍵がかかっていれば不在確定だが、果たして。


 ――屋上へ続く扉は開いていた。


 押し開けて中へ。いや、この場合は外へ、だろうか。

 初めて屋上に足を踏み入れた。


 空が、視界の先いっぱいまで広がっていくような感覚があった。天気はいいが、大きな雲も出ている、そんな空だからこその開放感に、俺は知らず目を細める。

 意外に、屋上は広い。最初に感じたのはそんな印象で。


「…………」


 扉の真正面。手すりのところに肘をついて、向こう側を見ている少女がそこにはいた。

 まず確認できるのは肩ほどの黒髪。なんとなく赤みがかっているようで、あるいは何か手を入れているのだろう。少し硬そうだが、それがどこか格好いい。

 屋上という空間も相まって、絵になっているのだと思う。


 なんとなく声をかけるのが躊躇われてしまい、俺は足音を殺しながら歩いた。この画の中に異物として入り込むことが、なんだか酷く冒涜的に思われたのだ。


 背の低い少女だった。

 さすがに場所が場所だから、彼女が件の一年生天文部員で、まず間違いないだろう。

 何を見ているのか。空を見上げるわけでも、かといって校庭を見下ろしているわけでもなく、視線は水平のまま、まっすぐ遥かへ向いていた。


 何を言おう?

 せめて最低限の作戦くらいは考えておくべきだった。屋上だし、いっそ天気の話題から入ってみようか。

 ありがちすぎて逆に新鮮な気が――いやなんだそれ。


 気づけば俺は、少女のすぐ真後ろにまで辿り着いていた。

 そして、そのとき彼女が口を開いた。




「はあ、めっちゃヒマ……高校ぜんぜん楽しくないです。友達もできませんし……」




「…………(絶句)」


 あ。なんか、なんだろ。なんかぜんぜんイメージ違ったなあ。

 知らず、ものすごい聞いちゃいけないタイプの独り言を、聞いてしまった感じがある。


「病む……これは病みますよ……、はあ。人生が寂しいなあ……」


 やめてやめてやめてやめてやめて本当にやめて。


 こんな絵になる風景の中で、そんな悲しい台詞は聞きたくなかったよ。

 さきほどとは違う意味で言葉を失う俺。何か非常に申し訳ない気持ちが湧いてくる。


 と、そのときだった。

 屋上を、一陣の風が強く吹き抜ける。正面から背後へ抜けていくような突風。体が動くほどではないけれど、ぶわっと風の音が響く。髪が揺れた。

 そんな俺の目の前で、少女は片手で目元を隠すみたいにして。


「……ああ。今日はとても、いい風が吹きますね……」


 あ、うんそう。そういうのでいい。そういう雰囲気ならいい絵になってる。

 妙に独り言の多い少女はさらに言葉を続けて。


「まるで風が、わたしに語りかけてきているみたいじゃないですか……」

「…………」やっぱ思ってたのとちょっと違うかもしんない。

「ふふ、なんですか? こんな屋上で何をしているのか、ですか? ……何をしているんでしょうね、わたし……。自分でも、そんなことわかりはしないのです。ふふふ……」


 ど、どうしよう……この子ったらいきなり、風と会話し始めちゃったよ……。


 待ってほしい。こんなに追い詰められているなんて聞いていない。

 いや本当にどうしよう。どうしたらいい?

 これ、さすがにそろそろ声かけたほうがいいよね、たぶん。なんか申し訳ないし。


 ということで俺は意を決し、少女の背中に声をかける。


「――あの」

「いやっひゃあ――っ!?」


 少女は飛び上がって驚いていた。

 めちゃめちゃ驚いていた。そんなところで飛び跳ねたら危ないよ?


「うぇなになになになんですか敵襲ですかごめんなさひぃっ!?」


 びっくりしすぎて涙目になった後輩が、こちらに振り返って震えている。

 その目が俺の姿を捕らえ、瞬間「ふにゃ人がいるぅ!」と反射的に俺から距離を取ろうとして「あ痛た背中をぶつけましたっ!?」手すりに背中を激突させ、痛みに呻いて蹲った。

 こちらからツッコむ隙もない。

 初手からアクセル全開で面白いな、この子……。


 そんな少女と、俺の目がまっすぐにぶつかり合う。

 同じ学校の生徒であることは、着ている制服で一目瞭然だろう。いや、そもそも学校の屋上に、関係者以外が来る可能性は低いだろうが。


「――ふ」


 と。

 少女は言った。


「まあ、なんちゃってなわけなのですけれど」

「それは無理があるでしょうよ」


 この期に及んでの悪足掻きであった。メンタル強いな、おい……。


「このわたしは当然、あなたの接近を察知して振り向いたわけなのですけれど」


 俺は言う。


「や、なんかごめんね。驚かせるつもりはなかったんだ」

「いえぜんぜん驚いてないんですよね、これが。びっくりですね」

「びっくりしたんだね……」

「ああん言葉の綾!」

「いや、まあいきなり声をかけた俺も不用意だったよ。驚いても仕方ないって」

「いや驚いてませんし。わたしを驚かせたら大したものなのですけれど」

「大したものって。褒められると照れるなあ」

「……じゃあもういいです……」


 ああ、折れちゃった……。ごめんね……。

 でもなんか、乗ってあげたら負けな気がしたもんで。


「あー、えっと。俺は、二年の佐野伊吹って言うんだけど」


 とりあえず自己紹介から入ってみた。

 人間関係の始まりといえば、やはり名前の交換からだろう。


 少女は言う。


「はあ、そうですか。せんぱいなのですね。これはご丁寧にどうも」

「あ、はい」

「ところでいきなり名を名乗ったのは、だからわたしにも空気を読んで名乗り返せと半ば強制する悪辣な作戦ということなのでしょうか?」


 うっわ面倒臭っ。


「今『うっわ面倒臭っ』という顔をしましたね」

「なんでそこだけ鋭いんだよ」

「したんですか……」

「しかも落ち込んじゃうの? 冗談だよ。いや別に名乗りたくないならいいけど」

「名というものは、その人間のある種、本質を表すものです。古来では相手の真名を知ることで、呪詛にかけるという儀式もあったようです。逆を言えば名を秘めることで防御になるということでもありました」

「……はあ」

「まあそうでなくとも個人情報の塊ですからね。そうそう簡単に、わたしの名前を聞けると思われては困るというものです。この高度情報化社会では当然の警戒でしょう」

「ああ、うん。わかりました」

「ご理解いただけて何よりです。せんぱいは話のわかる不審者さんですね」

「お褒めいただき――ねえ待って今、不審者とか言った?」

「え。だってわたし、せんぱいのことまだ名前しか知りませんし」

「名前は個人情報の塊だってくだり、どこ行ったの?」

「状況とは、常にたゆたい、移ろいゆくものなのですよ……」

「あ、そう……」

「……」

「……」

「わたしはあかがねりんといいます」

「結局、名乗りたかったんじゃねえかよ!」

「同じ学校のせんぱい相手に名前を隠す意味もないかなって……」

「そうだね!」


 のっけから飛ばしてくる後輩だった。めちゃくちゃ面倒臭い。

 この短時間でバリバリ性格を掴ませてくる辺り、なかなか高濃度なキャラをしている。


 はあ……まあいい。

 自分がこの子と仲よくなれるのかわからなすぎて、自信が虚数値を叩き出してしまっているが、とりあえず接触には成功したと言える。


「どうかされました?」


 きょとん、と首を傾げる銅後輩。

 どうかしているのは銅後輩のほうだと思うのだが。


「そんなに慌てふためいて。せっかくの屋上、せっかくのいいお天気です。こんな日は、空を吹き抜ける爽やかな風に揺らされつつ、雲の動きを見るのが風流というもの。あまり若いときから生き急ぐものではありませんよ。我々が思うより世界は穏やかに進みます」


 そんな長台詞を、こちらを見たまま欄干にもたれかかって、両肘を手すりに乗せながら宣う銅後輩。

 なぜ無闇に格好つけているのか、これがわからない。


「――ふ」


 あといい笑顔してるけど別に決まってない。

 なんだかなあ。俺は言う。


「君……あー、その。銅後輩」

「なんです、佐野せんぱい?」


 こちらを見る銅後輩。その外見は、こう言うのもなんだが、かなり整っている。不敵な笑みを浮かべたその表情が、本当に絵になるほど美形だからだろう。赤の入った肩ほどの黒髪も、何やらヴィジュアルな感じで正直、格好いい。

 黙ってさえいれば、それこそモデルなりなんなりやれそうな感じではあった。


「なんで屋上にいるんだ? こんなところで、ひとりで何やってんの」


 そんな銅後輩に俺は訊ねた。


「ふ」


 ふ、と銅後輩は笑う。

 この笑い、もしかして絶対に挟まないとダメなのん?


「わたしはなぜここに在るのか、ですか……」

「あれ。俺、そんな言い方したかな」

「なかなかに深い問いですね」

「そうかな……。した側はそうでもないと思ってんだけど……」

「ですがどうでしょう。わたしは逆に問います。佐野せんぱい。どうして佐野せんぱいは今、ここにいるのですか?」

「いや、まあ、なんとなくかな……」

「いいえ。むしろこう問うべきかもしれませんね。果たして佐野せんぱい、あなたは今、本当にこの場所に存在しているのですか? それを、いったい誰に証明できますか」

「どうかなあ……。俺かなあ?」

「なるほど。コギト・エルゴ・スム――そういうわけですね」

「ごめん、何言ってんのかぜんぜんわかんない」

「ふ。すみません、これは少し意地悪な質問だったかもしれませんね。まあ要するに己の存在を、たったひと言で表現するなんてナンセンス。わたしはそういうことを――」

「で、なんでここにいるの?」

「どうしてそんないじわるな質問ばっかりするんですかあ……?」


 誤魔化しきれなくなって、ちょっと半泣きになっている銅ちゃんであった。


 ……結構かわいいな、この子……。

 なんだか、キュンときちゃった。

 冬泉のところまで連れていって、いっしょにご飯とか食べさせてあげたい……。


「……うぅう。佐野せんぱいは酷いせんぱいです……。不審者ではなく不埒者です……」

「いや、不埒者って」

「なんで屋上にいるかなんて、そんなの……そんなの、ほかに学校に居場所がないからに決まってるじゃないですか……。わざわざ確認しなくたっていいじゃないですかあ……」


 ものすごく悲しいことを言う銅後輩であった。


「あ……いやその、ごめん。別にそういう意味で訊いたんじゃなかったんだけど……」

「ぬぇえっ!? わたしをたばかりたてまつりはべり!?」

「なんて?」

「え、で、でもっ! 佐野せんぱいだって、こんなふうにひとりで屋上に来るんですし、学校ではぼっちで友達いなくてクラスに馴染めなくて逃げてきた陰キャなんじゃ……」

「いや、ぼくは結構、友達いるつもりなんだけど」

「そんな裏切り聞いてないですっ!?」


 そんな期待をされていたことも聞いていないのだが。

 なぜだろう。俺が悪い気分になってくる。


「くぅ、騙しましたね……もしや仲間ができたのかと喜んだわたしの純情が今必殺の破壊光線……! 一大スペクタルのスペクトルでギザギザハートの八つ裂き光輪です……」

「別に騙してない……。あと何言ってんの?」

「あぁあ……。せっかく天文部に入ったことでわたしの憩いの地ができたのに……気分は村を焼かれたエルフ。職を失いアイドルデビューでプロデューサーとの熱愛発覚!」


 日本語が相当わかりにくい、というか日本語の概念を超越して銅語みたいになっているが、それでもだいたい言いたいことは理解できたと思う。


 要するに。


「要するにクラスに馴染めないから逃げてきた、ってことか」

「ふ」


 と、銅後輩は薄く笑って。

 言った。




「――果たして、人間とは友達がいなければ生きていけないんでしょうか?」

「格好つけてもらってるとこ悪いけど、ぜんぜん格好ついてないからね今?」




 そういう後輩であるらしかった。

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