Ⅺ
「ショパンのワルツ、オーパス三十四の二は追憶のワルツ」
老先生もミヨシくんも、同じことを言いました。
鍵盤を前に座る私と、後ろで見守る老先生と、折り紙をするミヨシくんが、三角を描く形で教室に存在しました。
その光景は、晩夏の追憶の頁に、閉じ込められています。
「技術的に注意する点は特に、ありませんが気持ち、ゆっくり揺らせて。この曲に関しては、燃え上がる覇気を封印して、過ぎ去った時間を惜しむように淋しく……どうぞ」
ワルツ、オーパス三十四の二は、雛鳥への鎮魂のワルツになりました。
月曜日の夕暮れのピアノ教室に、彼は居ました。
小さなピアノ教室で、レッスンの順番を待つあいだ、折り紙をしていたのです。
か細い指は器用に動き、菊を折ります。
「ミヨシくん、お待たせ」
先生の声で少年は指を止め、顔を上げます。彼がミヨシくんでした。
彼の名前を知ったのは、半年前の夕暮れのピアノ教室でした。
半年で終わってしまいました。
あまりにも早い幕切れです。
私は、もっと透明な日々の思い出が欲しかったのに。
ピアノの音を聴きながら眠ったミヨシくんが、目醒めることは、ありませんでした。霊媒師の預言で帰宅した老先生が、深く椅子の
ピアノ教室は閉鎖になった後、移転するという知らせが封書で届きました。消印は、
出勤後、真っ直ぐ家に帰るのが日課になっていました。透明な日々の追想に浸る一曲を弾き、新曲の練習に取り組みます。誰に与えられたわけでもない、自分が与えた楽曲は、ドビュッシーのアラベスク一番。晩年のミヨシくんが弾いていた曲です。
これは、あくまでも予感ですが、老先生は近々、ミヨシくんと過ごした雑居ビルの最上階に、戻って来られるような気がするのです。再会の日のために、私はレッスンを欠かしません。
仮に再会が叶わないとしても、いいのです。何をも生まない透明な愛に、自分を永久不変に閉じ込めて、ミヨシくんへの想いを花氷の如く結晶させて、穏やかになれるのですから。
私の指は、過ぎた日に触れた彼の、雛鳥のような
周囲から見れば、不健全で、不幸せな愛の形かもしれません。
しかし、この変わりゆく時代に、永久不変の透明な想いを持ち続けることができるのだとしたら、
私は、幸せな女の子なのです。
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