檸檬色の夜は、思い出さなくていい

檸檬色の夜は、思い出さなくていい①


 我が国ニッポンだけの文化なのかは知らないけれど、この極東の島国には締めラーメンなる文化がある。

 どこぞの誰が、いったいいつの時代から始めたのか。

 塩分濃いめのさかなを散々つまみ、麦や芋やら米やらを原料にしたアルコール飲料をたらふく胃に流し込んだ後、なにを考えているのか僕たちはさらに塩分と糖の塊であるラーメンを食べるのだ。

 これはもはや一種の修行僧だ。

 食欲という名の神の下に召されるための試練といえる。

 文字通り命を捧げる儀式に近い。

 時刻はもう零時前。

 秋というには風が冷たすぎる東北の十一月下旬。

 酒臭い息を吐く名前も知らない女性と、僕は締めのラーメンを啜っているところだった。



「う~ん、やっぱりシメラーは最高よね。このアゴの風味が身に染みるぅ」



 飛魚アゴで出汁を取ったスープに浮かぶ太麺をちゅるりと口の中に運んでは、対面に座る女性は顔を綻ばせている。

 年齢は僕よりも幾らか年上に見えるが、黒の長髪にショッキングピンクのアッシュをいれるという若さ溢れるヘアースタイルのせいで、どの辺りの年代の人なのかよくわからない。

 さすがに二十代は超えていると思うけれど、端正な顔立ちとアイシャドウの濃い派手めなメイクのせいでいまいち何歳くらいなのか推理しきれなかった。


「少年、全然箸が進んでないじゃないか。どうしたの? こんなに美味しいのに。早く食べないと冷めちゃうよ?」

「すいません。その、そこまでお腹が空いてなくて。というかお姉さんはそんなによく食べれますね。あんなに食べたのに」

「えへへっ、もちのろんよ。だってあたし、あの後また盛大に吐いてリセット済みだから」

「うわ。最悪だ。なにも反省してないじゃないですか」

「少年、大人とは、反省を忘れ、言い訳ばかり覚える生き物なのよ」


 わけのわからないことを言いながら、ピンクアッシュのお姉さんは美味しそうに、青海苔の浮いた薄茶の魚介醤油スープをレンゲですくう。

 ちなみに当然、この人は僕の姉ではないし、そもそも知り合いでもなんでもない。

 名前がわからないので、とりあえずお姉さんと呼んでいるだけだ。

 向こうは向こうで、僕の名前を知らないので、ボーイズビーアンビシャスの如く僕のことを少年と呼んでくる。

 日本酒やサワーをチャンポンしながらアホほど飲んでは、見事なまでにリバースを決めまくるスカポンタンなので、この人のことはポン姉さんと呼ぼうと思う。


「でも悪いね。さっきの居酒屋さんに続き、ラーメンまで奢って貰っちゃって。あとで絶対返すから」

「いや、それはいいですけど。本当に大丈夫ですか? 財布を失くすのって、けっこう致命傷だと思うんですけど」

「ノンノンノープロブレム。ここは天下の安全大国ニッポンだよ? あたしの財布なんてすぐに交番に届いて、あっという間に連絡がくるわよ」


 なぜか勝ち誇るかのように、ポン姉さんは指を左右に振る。

 愛国心なんて微塵もなさそうなロックな見た目をしている割には、案外治安の良さを信用しているらしい。

 僕は塩気のある中厚のチャーシューを頬張りながら、ここ最近、初対面の女性の食事姿を見る機会が多くなっているなと思った。


「でも本当に助かったよ。少年がいなかったら今頃あたしは、寒路で自分の吐瀉物まみれになって凍死していたところだね」

「さすがにそこまで酷いことにならないと思いますけど。ここは安全大国ニッポンですから」

「それあたしの言い回しじゃん! まあ、いいけど。というか積極的に使っていいよ」


 あ、いいんだ。

 もっとも、積極的に使うほどクオリティのある言い回しではないんだけれど。


「少年。だけど苦しんでる人を見て、助けてあげたいなって思う人は多くても、実際に行動に移す人は少ないとあたしは思うんだよ」

「そうですか? お姉さんの場合、そんなことはないと思いますけど」

「うん? あたしの場合? なんで?」

「いや、なんでってそれは……」


 ポン姉さんは少女のような純粋な眼差しで、僕の顔を覗き込んでくる。

 桃色の唇がいやに目につくが、僕は理性ある大人なので、距離の近い美人にうひょうひょと喜ぶ少年心は綺麗に隠すことができる。

 わりと小柄で年齢不詳の気があるポン姉さんだけれど、僕は気づいている。

 彼女の左薬指に指輪がしてあることに。

 

 フリン、ダメ、ゼッタイ。


 既婚者にときめくことは、少なくとも一夫多妻制を認めていないここ日本ではなるべく避けるべきことだった。


「……とにかく、お姉さんなら、本心はともかく、助けてくれる人はいくらでもいたと思いますよ」

「そうかなぁ? あたしは少年が特別だと思うんだけど」

「僕はいたって普通ですよ。普通のナイスガイです」

「あははっ! なにそれつまんない! ナイスガイとか古臭いね!」


 大爆笑しながらポン姉さんは、つまらないと僕を罵ってくる。

 明らかに年上の美人から古いと言われると、どことなく心に冷たい風が吹いた。


「そもそもお姉さんは、この街の人じゃないですよね? 観光ですか?」

「んえ? なんでここに来たのかとか、話してなかったっけ?」

「まったく話してないです。泥酔状態でしたので」

「あ、そうだったっけ。あたし、酔いが醒めるのも早いけど、酔うのも早いんだよね」


 ポン姉さんは笑窪をつくりながら、えへへと可愛らしく目を細める。

 なので色々全部もう許した。

 年上の美人さんに古めの少年は勝てないのだ。


 このどこか憎めないポン姉さんとの出会いを語るには、話しを数時間前に戻すことになる。

 バイト終わりの僕は、いつものように人寂しさから梟崎ふくろうざき先輩に飲みに行こうと駄々をこねたのだけれど、この日は課題があるとかなんとか言って誘いに乗ってくれなかった。

 基本的に暇を持て余していて、寂しがりの僕は次に鵜住居うのすまいさんに連絡でもとろうかと思ったが、さすがに夜分にいきなり女子にメッセージを送るのは、長らく日陰で生きてきた僕には到底できないことだった。

 仕方なく、僕は駅前の黄色い牛丼チェーン店で夕食を済まし、そのまま帰路のつくことにした。

 あまり人混みの得意でない僕は、土曜日ということもあり人混みでわしゃわしゃとしているメインストリートから脇道に逸れるべく、通り抜けのできる神社をぬけて家に帰ろうとした。

 

 するとその時だった。


 ぼぉえぼぉえと汚らしい鳴き声を上げながら、罰当たりにも手水舎ちょうずやの水を柄杓ひしゃくを使ってがぶ飲みする女性の姿を見つけたのは。

 最初は、独特の気配を漂わせ、秋暮れとは思えない薄着の女性を妖の類かなにかと思ったけれど、おそるおそる観察してみるとどうやら違うらしかった。

 独特の気配はただのアルコール臭で、キャミソールのようなありえない薄着ではあったが、近くには脱ぎ散らかされたコートが転がっていた。

 口元には固形物の混ざった黄色い汁がこびり付いていて、僕はその正体に見当をつける。

 これはただの酔っ払いだと。


『大丈夫ですか?』


 きちんと一応ここで言っておくけれど、僕はべつにその女性が胸の膨らみが豊かで魅力的な外見をしていたから声をかけたわけじゃないよ。

 本当だよ。

 下心なんてなかったよ。

 無添加百パーセントの親切心で声をかけたんだよ。


『財布を失くした。お酒ください』


 そして僕の純度マックスの親切心に返されたのは、常軌を逸した繋がりのない二つの言葉だった。

 この時、僕はやはり妖怪サケクレイチモンナシに出会ってしまったのではないかと疑った。

 しかし現在このように、目の前でこれ以上の幸せはないとばかりにアゴ出汁中華そばを掻き込むように、どうやら一応人間だったみたいだ。

 服を着直すのを手伝った後、なぜか一軒居酒屋で飲み直しに付き合わされ、こうして現在はキムチカルビ丼の大盛りを食べた後の僕には厳しい、締めのラーメンまで一緒に食べることになったのだった。


「あたしはね、この街に人探しに来たの」


 せっかく飲み直しとしてホッピーと男梅サワーと日本酒を奢ったのに、結局あの後また胃のアルコール洗浄を行ったらしいポン姉さんは、ここでやっと自らの目的を語る。


「あ、一応確認しておくけど、少年、君には恋人いる?」

「え、なんですか、いきなり」

「いるの?」

「そんなこと訊いて、ど、どうするつもりですか?」

「ふーん。いないのか。なら君じゃないね。あたしの探してる人は」


 なんて失礼な名探偵なんだ。

 僕がロンリネスを持て余した孤高の存在だということは、すぐに見抜かれてしまった。


「さてと、じゃあ、あたしはそろそろ行くね」

「え? 急ですね。僕、まだ食べ終えてないんですけど」

「ん? 少年はゆっくりまだ食べてなよ」

「どういうことですか? ここに戻ってくるんですか?」


 いつの間にやら僕の奢りの中華そば大盛りを完食したポン姉さんは、すくっと立ち上がるとどこかに行こうとする。

 どんな人を探しているのかとか、財布が見つかるまでのお金はどうするつもりなのかとか、僕にどうやってこの後借りたお金を返すつもりなのかとか、特に最後をメインに気になることが沢山あるのに、ポン姉さんは一人先に席を立つ。


「あ、違うよ。店を出るわけじゃないよ。すぐ戻ってくる」


 しかし、僕の心配は杞憂に過ぎなかったようで、大人の余裕溢れる表情でポン姉さんは微笑んだ。


「ちょっくらまた、吐いてくるだけだよ!」


 爽やかな笑顔で、勢いのよいサムズアップ。

 なんて奢りがいのない人なんだ。

 僕はこんな大人にだけは絶対にならないと心に深く誓った。





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