第30話 調子に乗った子猫の末路

 翌日、体育館でありきたりな校長の講話と、生活指導の話を聞いてから、佳弥は教室に戻った。通知表を手渡され、休みへの期待と通知表の結果がないまぜになって興奮状態のクラス中がきゃいきゃいと賑わう。佳弥はすーんと澄まし切った顔で通知表を一渡り眺め、バッグに片付けた。定期テストの結果を知っているのだから、通知表の数値なんてものは想定の範囲内である。今更騒ぐほどの物ではない。


 隣の席では、通知表を手にしたままゴアが沈没している。


「どしたの。」


「見ていいよ。」


ゴアに通知表を渡され、佳弥は遠慮なく開いた。数学はばっちり、佳弥より優秀である。が、英語が致命的、国語も振るわない。英語には赤い線が引かれている。そう言えば、ゴアは英語の再試も受けていたな、と佳弥は思い出す。


「ゴアは語学が苦手だねえ。」


「佳弥、冬休みに英語と古文教えてくれー。休み明けの実力テスト、マジでヤバイ。」


「まあ、いいけど。」


英語と古文なんて、単語と文法を覚えて文章を読む練習するだけじゃないの、と佳弥は思うが、ゴアを見ているとそう簡単でもないらしい。方程式の構造は一目で判るくせに、英文の構造はちんぷんかんぷんなのである。同じような遺伝子でできてる人間なのに、どうしてこう頭の回転方向が違うのか、と佳弥はいつも不思議に思う。佳弥は方程式の方が苦手だ。


「ああ、英語なら、いい先生がいるよ。」


 佳弥は思いついて、眉間に深いしわを寄せた。


「え、誰?っていうか、佳弥はまたどうしてそんな顔してるの。まさか、市川さん?」


「うん。まあまあ、分かりやすく教えてくれる。」


「それなら、そんな苦虫顔しなけりゃいいのに。」


「私には英語の先生は必要ないからね。自分で勉強できるし、兄もいるし。」


 兄に勉強を教わったことは無いが、曲がりなりにも現役大学生である。幸祐に訊くくらいなら、佳弥は兄で間に合わせる。が、ゴアの英語の苦手っぷりを目の当たりにしていると、丁寧な幸祐の講義が合うのではないかと思わないでもない。その辺りの判断は、佳弥は公正である。


「じゃあ、市川さんの連絡先を聞いても良い?」


「知らないんだ、実は。今日バイトだから、ゴアのを伝えとこうか。」


 相変わらず、佳弥はツボ押しアプリでしか連絡を取っていない。この先も、幸祐に個人情報を開示する予定は無い。


 頼んだ、とゴアに言われて、佳弥は頭の片隅に予定を入れこんだ。忘れるといけないから、会ったら最初に言っておこう。


「で、フォンダンショコラは、いつ行く?」


 ゴアに問われて、佳弥は、ああ、と思い出した。そんな若返りスイーツを食べに行くんだったっけ。こうして若イベントを忘れ去るから、老けるのかもしれない。いけない、いけない。明日では急だから、明後日はどうか、と佳弥は提案した。ゴアは形の良いくっきりとした眉を微かにしかめる。


「明後日はイブだよ?佳弥は予定無いの?」


「宿題と、ウォーキング。あとは納戸の大掃除かな。」


「この若年寄め。」


「年寄り言うな。英語と古文、教えてやらんぞ。大体、そう言うゴアはどうなんだね。」


でへへ、とゴアは口元をとろけさせた。


「ちゃんと、彼氏がいますからね。予定がありまーす。」


「さいでっか。そりゃ、よござんすね。」


 佳弥は他人の色恋話にさほど興味関心は無い。ゴアが失恋してくよくよめそめそしていたら何とかしてやりたいと思うかもしれないが、お幸せな生活を送っている間は何も言うことは無い。若人よ、存分に青春を謳歌し給え、と思う。それが、隠居世代から若者への温かい眼差しにどことなく似ていることに、佳弥は自分で気付いてはいない。


 しかし、言われてみれば、世間一般にはクリスマスイブである。若い男女が仲睦まじく手を取り合うことが正義であるという雰囲気の。ということは、いい歳した幸祐も何かあるだろうから、明後日のバイトは休みであろう。明日は祝日で休み、明後日はイブで休み、もしかしたら今日が今年の最後のバイトかもしれない、と佳弥はゴアの脇で思案した。


 飛鳥からは相変わらず音沙汰が無い。中野からも連絡は無い。いくらなんでも、心配になる。例の危ない人影さんは教えてくれる気がゼロのようなので、そろそろ、遅くとも年内には、中野に飛鳥の居所を突き止めて頂きたいものであるが。


 ゴアとフォンダンショコラの予定を立てて、佳弥は家に帰った。残り物で適当に昼食を済ませて、冬休みの宿題をこつこつと進める。実に穏やかな日常である。日々、かくあるべし。変な黒い影に追われるなんていう事件は、無くてよろしい。


 ちょっと勉強に疲れたので、佳弥は立ち上がって蹴りの練習を始めた。正しいやり方かどうか分からないが、毎日大きく脚を振り上げていると、とりあえず股関節が柔らかくなる。腰痛予防にも良い効果があるのではないか、と考えている。


「若いうちから、フンッ、腰痛を、フンッ、防ぎましょう、フンッ。」


「佳弥、またそれやってるのか。」


ホカホカと湯気を立てるカップを持った兄が、こくんと首を傾げて通り過ぎる。兄はどことなく、小鳥っぽい。


「お兄ちゃん、練習させてよ。」


「ええー、例の急所必殺技でしょ。絶対、嫌だよー。」


兄はすたこらさっさと自室に逃げていった。ちぇっ、と佳弥はつまらなく思う。


 そうこうしているとスマホに幸祐からの連絡が入ってきた。佳弥はスマホを手にしたまま、具体性を帯びた仮想敵に対して最後にもう一度鋭く蹴りをかます。


「渋谷さんの孫は、やっぱり変。会ったら話すよ。今日は六時半でどう?」


 佳弥は、了解、とだけ返す。これでやり取りは終わり。いつものことである。が、今日は少しだけ続きが返ってきた。


「危ないから、変身しないで待ってるように。あと、一人でどっか行かないこと。」


ぷう、と佳弥は僅かにむくれた。どうも、昨日の一件があるせいか、信用されていない気がする。いっつも、バイトの最中にふらふら一人でどっかに行っちゃうのはアンタではないか、と甚だ不満である。が、一理あるので、再度了解と返事をする。佳弥が二度も返事をするのは珍事である。


 佳弥は出かける前に、ミルクティーを淹れておやつにした。悔しいことに、どう頑張っても幸祐の淹れてくれた味に敵わないので、気に入らない。淹れ方を聞くのはもっと気に食わない。腹いせに、歯が欠けるほど硬い津島名物くつわをガリボリと噛み砕いた。今度人影に襲われた ら、噛み千切ってやる。


 ダッフルコートを羽織ってマフラーをぐるぐる巻き、佳弥はオフィス街の一角に出掛けた。変身するな、と言われたので、十六歳のままで幸祐を待つ。


 十八時過ぎでは、オフィスビルはどこも煌々と照明をつけているから、辺りは明るい。飲み会に行くと思しき、年齢性別の入り混じった、互いにそれほど親密ではなさそうな一団が時折通り過ぎる。自分もいつかああなるのかな、と佳弥はぼんやり考える。はっきり言って、面倒くさい。仕事はするが、それ以上のお義理の付き合いなんて、金と時間の無駄である。その宴会に出費する分積み立てたら、かなり老後の生活が潤うのではないだろうか。一回に四千円として、忘年会と歓送迎会の二回が催されるとして、年に八千円の浪費。二十二歳から六十歳まで三十八年勤めるとしたら、いくらだ?佳弥は暗算は苦手である。


「八千かける三十八…ええと…」


「三十万とんで四千。」


 斜め上から答えが降ってきて、佳弥は驚いて跳び退った。寒そうに手をコートのポケットに突っ込んで、幸祐が立っていた。


「いつも思うけど、そんなに驚かなくても良いじゃん。」


「いつもいつも、突然現れるからでしょう。」


 佳弥は幸祐に向かってぶうたれた。


「で、三十万四千って、何の数字?」


「世の愚かなサラリーマンが勤続の間に無駄に消費する飲食費です。」


佳弥はさらっと説明した。しながら、三十万ってでかいな、としみじみ感じ入る。これはおろそかにはできない。老後の数カ月の生活費になるではないか。行きたくもない飲み会に捨ててしまうのは勿体ない。


「なるほどな。けどさ、佳弥ちゃん。そういうお金って、意外と削れないぞ。何というか、行かざるを得ない雰囲気なんだよな。まあ、勤めてみれば分かると思うけど。」


「市川さんは意志の力が足りないんです。」


「そうかあ?でも、確かに佳弥ちゃんなら言うこと言いそうだよな。」


幸祐はそう言って面白そうに笑った。当たり前だ、言うべきことを言わずして何のための口か、と佳弥は不満に思う。


 おっと、それどころではなかった。佳弥はゴアの件を思い出した。


「ゴアちゃんに英語?うん、良いよ。」


あっさりと幸祐が了承したので、佳弥はゴアの連絡先を幸祐に教えた。たぷたぷ、とスマホを操作しつつ、幸祐が首を傾げる。


「佳弥ちゃんは?」


「今のところ、不要です。」


「それはそれとして、いい加減、メアドくらい教えてくれても良いじゃん。」


「何故?必要な理由を具体的に述べてください。」


「俺が知りたいから。」


理由になっていない、と佳弥は一蹴した。えー、と盛大に文句を言う幸祐を放っておいて、佳弥はその件は終わったことにした。幸祐とゴアは無事やり取りできたようなので、これ以上関わる必要は無い。


「さっさとツボ押ししちゃいましょう。」


 そして、早く帰ろう。寒いし。佳弥が言うと、幸祐は不承不承頷いた。


 変身しなくても見えるものかどうか分からないが、念のために変身前に辺りをよくよく注意して見渡しておく。昨日のマーラ・ルブラの手先がいたのでは、仕事にならない。歩道はコート姿の男女が寒さに身を縮めながら足早に行き交うばかりである。立ち止まって佳弥と幸祐に恨みがましい眼差しを向けている人はいない。


 大丈夫そうだな、と呟いた幸祐の横で、佳弥はおやと声を上げた。昨日居酒屋で見かけた、かなり禿げたおじさんが歩いている。一人ではない。仕立ての良いコートを着た顎の細い男性が、消えることのない笑みを浮かべながら並んで何事か話している。


「市川さん、あの人って、建築関係の業者さんでしたっけ。」


 佳弥は幸祐に指し示して尋ねた。幸祐はうーんと首をひねる。


「はっきりとは覚えてないけど、そうかも。何度か、渋谷さんのところに来たな。あの作り笑いに見覚えがある。」


幸祐でも、あの貼り付いた笑顔は却って印象に残っているらしい。営業スマイルも過ぎると鼻に突くものなのかもしれない。


「隣の、は…いえ、頭の寒そうなおじさんは、昨日渋谷さんと宴会にいた人ですよ。おそらく、何かの工事の発注側の人。」


禿げ、などと、繊細な特徴を直接に表現するのは良くない。佳弥は何とかぼかした。


「確かに、頭寒そうだなあ。帽子でもかぶれば良いのにな。」


「そうじゃなくて。」


「うん、佳弥ちゃんの言わんとするところは分かるけどさ、俺たちはツボ押しのバイトであって、探偵じゃないんだぞ。アプリだって、ツボ押しのために使うものだろ。別の用途で支給されてるわけじゃない。」


 幸祐の正論に、それはそうだが、と佳弥はもごもご答えた。基本的にガキっぽい態度のくせに、時折妙に分別臭いから、やり辛い。しかし、そうだ、基本は子どもなのだ。男の子の心をくすぐるキーワードを混ぜたら、どうなるだろうか。佳弥は慎重に言葉を選んだ。


「でも、弱きを助け、悪をくじく正義の味方になれますよ。勇者みたいな。」


 光る剣もあるし。そう言うと、幸祐がぴくっと動いた。心を動かされたらしい。単純だなあ、と佳弥は呆れるよりもむしろその純朴さに感心する。多分、実年齢による大人成分と、生来のガキ成分が拮抗しているのだろう。そして、概ね後者が勝つ。


「ええと、そうだなあ、これも世のため人のため、ツボ押しみたいなもんか。」


「そうとも言えるでしょう。」


「だけど、やっぱり、変身すると危ない気がするから、このままでちょっとだけ付いて行ってみようか。」


大人成分が少しだけ残ったらしい。十五歳相手に、二十七歳が随分頑張るじゃないか。佳弥は穏やかに頷いて見せた。あの二人は佳弥と幸祐のことを殆ど知らないに等しい。変身しないで後ろを歩いたって、さほど怪しまれないだろう。


 佳弥と幸祐は、やや速足でおじさん二人を追いかけた。とりわけ仲良しな二人組には思えないが、延々談笑しながら歩いている。


「何を話しているのか、この距離だと聞こえませんね。」


「でも、佳弥ちゃん、これ以上近付くのはなあ。」


 ここまで来て何を言うか、と佳弥は思う。中途半端はいけない。やらないなら初めから後を付けない方が良い。やるからには、多少なりとも収穫が無くては、虎穴に入った意味が無い。佳弥はとことこと少し歩調を速めた。


「おーい、佳弥ちゃん、待ってよ。」


慌てて幸祐も横に並ぶ。並ばなくても良いのに、と佳弥が自動的に考えた時、後ろから再び名前を呼ばれた気がした。


「おーい、佳弥ちゃん。」


はっきりと聞こえて、佳弥は立ち止まって振り返った。見知った顔の人も、佳弥に呼びかけていそうな素振りの人もいない。というか、佳弥をちゃん付けで呼ぶ人間は、世の中には幸祐くらいしかいない。その幸祐は右手前にいる。気のせいか、と思った瞬間、どこからか黒いものが勢いよくしゅるしゅると伸びてきた。


「わっ、市川さ」


と言ったところで、佳弥の視界も意識も真っ暗闇の中に放り込まれた。

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