○月☆日・雨のち雨』

 看護師さんは廊下に出ると私の手を放しました。そして息を吸い込むと、大きな声で叫びました。

「村町さん、村町さん。至急、廊下へ出てきて下さい!」

 それはまるで病院中に響き渡るほどの声量で、私は驚いて耳を塞ぎました。


 看護師さんの呼び掛けで、病室のドアが次々に開きました。

 部屋から老若男女が廊下に出てきます。ナースステーションからも、看護師さんやら先生やらが続々と姿を現して、私たちの前に整列しました。

「村町さん、村町さん、村町さんは手を挙げて下さい!」

 看護師さんの号令通りに、病室から出てきた患者さんたちが手を挙げます。——その数、十数人程はおりました。みんながみんな、何の迷いもなく自分が『村町』であると手を挙げたのです。

「村町さん、村町さん、村町さんは、手を下ろして下さい!」

 まるで軍隊宜しく、看護師さんの合図でみんなが一斉に揃った動作で手を下ろします。


 一部始終を見ながら私は呆気にとられて立ち尽くしてしまいました。

 そんな私に、看護師さんは責めるような口調で言いました。

「貴方は、どうして手を挙げなかったの?」

「えっ?」

——言葉の意味が分かりません。

「村町さんは手を挙げて」

 看護師さんが号令を掛けると、再び廊下にいるみんながバッと手を挙げました。

「村町さんは手を下ろして」

 看護師さんが号令を掛けると、やはりみんなは素早く反応して手を下ろすのです。

「貴方はどうして手を挙げないの? ……村町さん、村町さん。村町さん。村町さん?」

 看護師さんがゆっくりと近付いてきました。

 私はその気迫に押されて後退りました。

「貴方は村町さんじゃ、なかったのかしら? 偽者だ。偽者だ。偽者の村町さんなの?」

 看護師さんがブツブツと呟きます。

 みんなも、私の周りを囲うようにゆっくりと近付いてきました。

 ゆっくりと後退っていた私でしたが壁際にまで追い込まれ、とうとう逃げ道がなくなってしまいました。

「ち、違います! 私も村町です!」

 私は訴えました。——でも、私の声は、誰の耳にも届きません。

「偽者だ。偽者、偽者……」

 ブツブツと、まるで呪詛でも唱えるかのように看護師さんが繰り返し呟きました。


 私はもう怖くなって、ここに居ることが出来なくなってしまいました。

 立ち塞がっている人達を押し退けて、私は自分の病室の中へと逃げ込みます。

 扉を閉めると、看護師さんも医師も他の患者さんたちも病室の中までは追って来ませんでした。


 私はベッドの中に潜り込み、布団を頭まで被って丸くなります。

——眠れ、眠れ!

 そう心の中で何度も念じました。夢の世界に逃げ込んで、全てを忘れたかったのです。

 ところが、恐怖体験をして脳が興奮していたのでしょう。心音が高鳴るばかりで、ちっとも眠りに付くことは出来ません。


 そうこうしていると枕元のスピーカーからノイズが聴こえてきました。

 次いで、そこから声が聞こえてきました。

『村町さん、村町さん。至急、屋上まで来てください』

 それは、先程の看護師さんの声でありました。

 それで放送はプツリと切れてしまいましたが、またすぐに次の放送が入りました。

『村町さん、村町さん。至急、窓の外まで来てください』

 私は恐怖で身動きがとれませんでした。

 布団の中で、ただただ震えているだけでした。

『村町さん、村町さん。至急、ベッドの下まで来てください』

 それでも放送は止まりません。

『村町さん、村町さん。村町さん……』

 まるで壊れたラジオのように、スピーカーから何度も私の名前を呼ぶ声がしたのです。


 どれ程の時間が経過したことでしょう。

 放送が終わり、あの恐ろしい看護師さんの声も廊下の騒がしい物音もなくなって、辺りはしぃんと静まり返りました。

 私は周囲の様子を探るために、布団から顔を出しました。

 もう日が落ちてしまっているのか、部屋の中は薄暗くなっています。

——ふと視線を感じました。

 それは窓からでありました。私は何気なく、窓の外に視線を向けました。

——窓の外から村町さんたちが、じぃっとこちらを見詰めています。

 いいえ、窓一面に、村町さんの顔、顔、顔——。


 ここは何階だったでしょうか——。

 窓の外に張り付くのも、相当に苦労がいるはずです。それなのに、彼らは表情の一つも変えずに窓に張り付きながらギョロギョロと目玉を動かしていたのです。

 私は恐怖で驚きのあまりベッドから転げ落ちてしまいました。

 そして、床に倒れた私は、ベッドの下に居た人物と目が合います。

「村町さん、村町さん」

——看護師さんです。

 コードが繋がっていないマイクを口元に当てながら、看護師さんは呟きました。

「村町さん、村町さん。お眠り下さい」

 恐怖が最高潮に達した私はそのまま意識を失ってしまいました。

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