第9話 大坂夏の陣、前夜

 今回の和議の条件は豊臣方にとって一方的なものである。

 一、召し抱えた牢人を全て放逐すること

 一、武器弾薬の新たな購入を禁止すること

 一、城の惣(外)堀を埋め立てること


 対する徳川方は、包囲を解き軍勢を国許に返すというただ一点だった。

 これは大砲に怯えた淀の方が早期の和議を望んだためとも、大坂方にはすでにまともな交渉を出来る人材がいなくなったからとも思われた。


 だが豊臣秀頼と淀の方はこの状況を待ち望んでいた。

 すでに、洛北に位置する京の守護である比叡山は焼け落ちた。そして浄土宗の総本山、石山本願寺が拠点としたこの大坂を血に染めることで、天魔の都とすることが出来るのだ。


 ☆


 徳川家康は野戦を得意としている。

 城攻めも決して不得手ではないが、守備側の十倍の兵力を必要とするといわれる攻城戦は味方の被害ばかり大きくなるものだ。あえてそれを行う必要を家康は認めていなかった。


 豊臣方を騙す事になろうとも迷いは無かった。外堀に留まらず、すべての堀を埋め、それどころか本丸を攻撃する際に支障となる周辺の屋敷まで取り壊させた。

 明かに和議に対する違反行為である。


「構わぬ。やつらとて同じよ」

 家康の言う通り大坂方も牢人を城内に留め置き、新たな武器弾薬、兵糧の補給に余念がない。

 どちらも本気で和議など考えてはいなかった。


「とりあえず、駿府の湯に入って英気を養うとしようぞ」

 大笑し、悠々と東海道を下っていく。



 遠くからそれを見送っているのは奥州伊達家の家臣、片倉小十郎重長だった。

 難しい顔で、大きく息をついた。

 主君、伊達政宗から命じられた家康暗殺は、ついに果たす事が出来なかった。家康を取り巻く護衛の数は彼の想像を遥かに超えていたからだ。

 親衛隊としての母衣ほろ衆はもちろんだが、今や日本中の優れた忍びはすべて家康に雇われていると言ってもよかった。

 とてもではないが彼一人の手に負える相手ではない。


 戦闘の混乱に乗じようとしたが、その戦闘自体が前線での小競り合いに終わってしまった。ただひとつ真田丸周辺では『征夷大将軍』徳川秀忠が撃退されて以降、加賀の前田利常、越前の松平忠直などの軍勢が相次いで攻撃をかけ激戦となったが、それも家康の本陣に動揺を与えるものではなかった。

「まあよい。またすぐに戦さは始まる」

 諦めて、小十郎は騎乗した。

「ひとまず奥州へ還るぞ」


 ☆


 大坂城本丸の地下に造られた一室がある。周囲の壁を石で組み上げた広大な空間だ。その中に入ったものは強烈な腐臭と血臭におぞ気を振るうだろう。そして繰り広げられている光景にも。

 部屋の中央にうず高く積まれた、数えきれないほどのむくろから流れ出した血にまみれ、大勢の男女が一糸まとわずまぐわわっているのだ。その目は一様に赤い光を帯び、その尖った犬歯は相手の肉を食い千切らんばかりに深く突き刺さっている。しかしその傷口から血が流れだすことは無かった。

 穿たれた穴からは一瞬だけ黒い瘴気が立ち上り、すぐに掻き消えた。


 豊臣方の勇将として知られる後藤又兵衛、薄田すすきだ兼相かねすけの姿もあった。秀頼の側近たちも多くがその中に混じっている。

 彼らは永遠に満たされぬ獣欲に突き動かされるまま、互いを貪っていた。


 ☆


 真田幸村は本丸周辺の空き家になった屋敷に手勢を入れている。

 幸村が縁側で佐助と茶を飲んでいると、ロザリオを首にかけた男が訪れた。

 明石全登というこの男は、かつて備前宇喜多家の重臣だったが、関ケ原の合戦で牢人となった。敬虔なキリシタンで、禁教を推し進める徳川家に抵抗するために大坂へ入城したのだ。彼もまた真田、後藤と並ぶ大坂方の有力武将のひとりだった。


「これは全登ジュストどの。お茶でもいかがでしょう」

「いただきます」

 そう言って明石全登は縁側に腰を下ろした。本名は全登と書いて「たけのり」と読むが、洗礼を受けてからは「ジュスト」をその読みに宛てている。


「ああ、これは……失礼」

 じっと幸村の目を覗き込んでいた全登は、怪訝そうな幸村に気づき慌てて非礼を詫びた。一口、茶をすする。

「どうやら真田どのは大丈夫なご様子。安堵いたしました」

 それは幸村にも心当たりがあった。

「後藤どの、ですか」


 全登は首を横に振った。

「後藤どのだけではありません。すでに城内の多くの将兵が人ならぬ物に変化へんげしておるようです。原因は恐らく……」

 秀頼公とお方さまにあります、と。全登は声を潜めた。

 幸村も小さく頷いた。


「主の教えを守るために弾圧者と戦うつもりが、あのような魔族の手先にされたのでは、死んでも死に切れません」

 苦悩の表情を浮かべる全登に幸村はかける言葉がなかった。彼もまた同じ思いだったからだ。

「家康を討ち、この世に真田の武名を遺す。それが望みだったが……」

 果たしてそれは後の世のためになるのだろうか。


 ☆


 片倉小十郎は馬上、路傍に立つ娘に目をとめた。

 国許に戻る軍勢を見物に集まった群衆の中に、見覚えがある顔があったのだ。その娘は小十郎と視線が合ったが、今度は目を逸らすことはなかった。

 この前は小姓の格好をしていたな、と彼はすぐに思い出した。

(真田どのの娘だったのか)

 声を掛けるべきか迷ったが、小さく会釈をしたのみで、馬を進めた。


 縁があれば、また会う事もあるだろう。そう思いながら、伊達家の軍勢を率い奥州へと帰還の途についた。



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