深海を越えてまた会おう 10


 その晩私は、こんな風に泣いたら翌日の顔が大惨事になると分かっていても泣くことをやめられなかったし、なんなら人生で初めて過呼吸というものを経験した。


嗚咽をしている内に息を吸えば良いのか吐けば良いのかわからなくなって、次第に息苦しくなっていき、息を吸おうとすればするほど余計に苦しくなった。このまま死ぬかもしれないと思った。


でも結局死ねないままに眠り、目を覚まして衣類を身に付けたまま水中に沈んでいるかのごとく重たい身体を引きずって出社した。


「おはようございます」


昨日のことなんか何も堪えていないという風を装いたくて、努めて明るい声を出した。席に付く。まだ関村さんが来ていないことにほっとする。ただただ彼女と顔を合わせることが怖い。いっそのこと体調不良で休んでくれたらいいのにと願っていても、いつもどおり始業のチャイムと同時に出社してくるのだった。


十時になるとすぐに過去の得意先リストを開いて昨日の続きから電話を掛けていく。隣に関村さんがいるということを意識すると尚更口が回らなくなった。早く出て行ってくれ。繰り返し願いながら次々に番号を押していく。


「横井さん、ちょっと良いですか」


電話と電話の、時化た波間で溺れかけているひとが水面に顔を出して息継ぎをするような僅かなタイミングで声を掛けてきたのは大山さんだった。嫌な予感がした。


昨日の初めて割り振られた仕事を果たし終えたという達成感はとうの昔に消え果ていた。大山さんに対してももう少し私の肩を持ってくれてもいいんじゃないかという気持ちさえあった。


「今日も良ければこれをお願いしたいんですけど」


彼女の手にあるのは昨日と同じファイルだった。一回やったこととはいえ、昨日やってみた感じだと一時間半とか二時間弱くらいは掛かるだろう。その間テレアポをしなくて済むと思うと魅力的な申し出に感じるけれど、何にせよ今日は電話を百件しなければいけないことになっている。


大山さんのほうに身体を向けることによって表情を確認することができない関村さんの反応が恐ろしかった。でも新人が頼まれた仕事を断ったりしたらなんて思われるかわからない。


「わかりました。大丈夫です」


結局大山さんからファイルを受け取ってしまった。できるだけ急いで終わらせよう。そしてテレアポに戻ろう。腕まくりをした。


大山さんから頼まれたデータを作成している間に関村さんは特に何も言うことなく、オフィスを出ていった。ほっと胸を撫でおろす。肩に入っていた力も少しだけ抜けた。完成したデータを受け渡しフォルダに入れて報告して、受話器を手に取った。


電話が終わった得意先の名前の横に赤ペンでチェックして、メモに正の字を書いて数えていく。百件なんて気が遠くなりそうだ。


だけどずっと電話を掛け続けていると、担当者に代わってくれるひとが現れた。いつもは電話を取った相手に断られて終わっていた。思いがけない事態に久しぶりに心臓が音を立てる。保留音が耳に流れ込んでいる間に唾を呑みこんだ。


「はい。お電話代わりました。マーケティング課の土田と申しますが」


喉が渇いて視界にチカチカと光が点滅するようだった。


「私、Bアドバタイジングの横井と申します。お世話になっております」

「Bアドバタイジング? ……あー」


得意先リストに記載されている名前とも相違ない。どうやら当時から担当者の変更は無いようだった。当時の案件の内容を思い出してもらえるように伝える。


「ああ、あのときね。覚えてます。お世話になりました」

「いえいえ。こちらこそその節はお世話になりました。本日はその後いかがされているかと思いまして、お電話させていただきました」


まさか話を聞いてくれるパターンが発生するとは想定していなかったので、上手くことばを繋げられない。


「また何か御社のお手伝いができればと思いまして……」

「そうなの? うーん……」

「前回は弊社の紙媒体を利用していただいたようですが、最近ではウェブ媒体の閲覧数も増えておりまして。広くご好評をいただけているような状態です」


具体的な宣伝文句が思いつかず、表面的で浅いことを言っているなと自覚するほどどんどん頭が真っ白になっていった。


「まあ、でも実はもうすぐ新製品のリリースがあって、大きく広告を打ちたいなーなんて話はちょうどしてたところなんだよね」

「そうなんですか! そうでしたらよろしければお話だけでも聞いていただけませんでしょうか。選択肢の一つとでもしていただけたら幸いなのですが」

「そうだね。お話だけ聞かせてもらおうかな。ちょっと今予定を調整しているところだから、改めてこちらからお電話をさせていただけますか。お電話番号とお名前を教えていただけます?」

「あっ、はい」


慌ててクリアファイルに挟んでおいた内線・外線番号一覧を引っ張り出し、自社の電話番号を伝える。


「ありがとうございます。ではまたこちらからお電話させていただきます」


そう言われて電話は終了した。これは一体どう受け取れば良いのだろうとしばし放心状態になった。あっちから電話が掛かってこなければそれで終わりだ。よく考えれば上手い断り文句だったのかもしれない。だけどここまでちゃんと話をして、押すことが出来たのは初めてだ。新しいステージに一歩足を踏み入れたような気がして、鳥肌が立っていた。


結局今日も百件は達成できなかったけれど、関村さんが帰ってくるなり意気揚々と報告をした。


彼女は眉根を下げて、「どうかなぁ」と呟いた。その瞬間、頭から冷水を浴びせられたような気がして冷静になった。少しぐらい褒めてもらえるのではないかという期待が穴の空いた風船みたいに急激に萎んでいく。


「だってさぁ、こっちから改めて電話します、なんて電話が来なかったら終わりだよ?」

「……確かにそうですよね。すみません」

「それなら明日電話掛け直すので、都合の良い時間教えてくださいとか言っておかないと」

「はい。そうですね」

「でも広告打ちたいって言ってたんだよね。わかりました。これは明日あたしが連絡してみるわ」


意図を汲めず、黒縁の眼鏡を掛けた関村さんの横顔を呆けたように眺めた。私がきっかけを作ったのにという思いと、せっかく道が開きかけているのだから彼女に委ねて上手くいかせてほしいという思いの両方がせめぎ合って渦を巻いた。その日はテレアポの件数について言及されることはなかった。


 そろそろ過去の得意先リストも最終ページに近づき、やっとこのテレアポ地獄を抜け出す希望が出てきた。番号をプッシュする音もリズミカルになる。トータルで何百件もの会社に電話を掛けたけれど、話を聞いてくれそうな可能性があるのは先日のOA機器販売の会社だけだった。それでもこれでようやく関村さんに同行して現場に出られると勝手に思い込んでいた。


関村さんは全ての社名の横に赤いチェックが入った数冊のファイルを順にペラペラと捲った。


「すごい。本当に全部に電話したんだね」


片方の唇の端を少しだけ持ち上げたその薄い笑みには、どこか見下すような、馬鹿にするような雰囲気があって、どんな攻撃が来ても良いように私は膝の上で作った拳に力を込めた。


「でもこれだけ電話して話ができたのってあの一社だけだもんね。それはまだちょっと足りてないよね。自分でもわかってると思うけど。どう? テレアポやってみて勉強できた?」

「そうですね。どういう話し方をしたら相手が聞こうとしてくれるのか、考えて話すようになりました」

「うん。それから?」

「それから……」


いつの間にか関村さんは右足を上にして足を組み、腕組みをしてこっちを見ていた。ほぼ同じ高さに目線があるはずなのに、見下ろされているというか、見えない力で両肩をぐっと押さえつけられているような心地がして、自分がどんどん縮んでいくようだ。


「度胸が付きました。最初は電話を掛けること自体が怖くて躊躇っていたけれど、今は迷わずに掛けられるようになりました」


ふーん、と気のないような相槌は、だけど格好の獲物を前にして攻撃したいという欲求を必死に抑えた結果であるようにも聞こえた。


「それだけじゃあ、まだ足りないよね。実際、一件しか話ができていないわけだし。もうちょっと練習を続けたほうが良いかもね。もうしばらく続けてみて」

「え、でももうリストが無いんですが」

「リストならいくらでもあるよ」


何を言っているんだ、このひとは。


今までは毎日テレアポをさせるのは、実際に外回りを始める前に度胸を付けさせるためだと思っていた。むしろそう思いたかったのかもしれない。彼女なりに新人の成長を願って課しているのだと。けれどこの瞬間、はっきりとわかってしまった。


最初から彼女は右も左もわからない、絶対に自分に歯向かってこない人間を痛めつけたかったのだ。悔しさと怒りと悲しみが身体のなかで勢いよくぶつかって反応し、何故か震えみたいな笑いが込み上げてきた。


私の感情が入り乱れている間にも彼女はまるでなにも関係のないような顔をして、パソコンを操作して紙の束を持ってきた。楽しさなんてどこにもないのに、口元が勝手に笑んでいく。


「ありがとうございます」


そう言うのが精いっぱいだった。


「ほとんど新規ばっかりだから今までより当たりがキツいかもしれないけど、それも勉強だと思って。ね。あ、あとそれから社内業務も知っておいたほうが良いと思って、大山さんたちに仕事を教えてくれるように頼んでおいたから。そっちもよろしくね」

「はい」


あくまでもあなたのことを思って言っているんだからね、という態度が癪だった。


今更そんなことを言われなくともあなたがいない場面で既に大山さんから頼まれた仕事をやっていたんだから。

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