深海を越えてまた会おう

青井あるこ

深海を越えてまた会おう 01

木曜日の午前十一時半。


空港へと向かう私鉄は、わざわざ指定席を取ったことを後悔するほどに空いている。二列シートの窓側に座り、必要以上に物を詰め込んだせいで重たいリュックサックを隣に置く。勢いよく飛び去っていく景色を見るでもなく見ていた。


毎日の通勤で使う駅を通り過ぎるときに、今頃仕事はどうなっているのだろうとぼんやり考えて、でもすぐに頭のなかから追い出した。今日、私はちゃんと有休を取ったのだから、誰にも後ろめたさを感じる必要はないはずだ。


ふう、とため息の音が人の少ない車内でやけに大きく響いた。


金網の向こうに見える桜並木は、もう半分以上淡いピンクが濃い緑に食われている。今年は三月の上旬まで雪が降るくらいに寒かったのに、下旬になって急激に暖かくなったせいで桜が一気に開花し、そのまま駆け足で一週間にも満たないうちに散ってしまった。


ちょうど期末の忙しさで残業が続き、通勤の満員電車のなかから線路脇の並木を眺めるほかにはまともにお花見の時間を取ることさえもできなかった。


残念だなあと思う。

そして大人になるってこういうことなのかとも思う。


少しずつ移ろっていく季節や道端に健気に咲く小さな花にいちいち気を留める暇もなく、毎日が高速で進んでいく。こうやって日々をなんとなくこなしているうちに、いつか大切な感情を抱く脳の機能さえ止まってしまうような気がして、ときどき怖くなる。


大人になるって、例えばこんな些細な感傷を誰にも打ち明けられなくなることでもあるのかもしれない。


昨日の夜あんまり眠れなかったせいか、頭がずーんと重く、考え事は曖昧なまま水中に落とした白い絵の具みたいにどこかへ消えていく。気がつけば電車は海の上を走っていた。細かい光が水面で揺れていて綺麗だ。せめて今日は天気が良くてよかった。風速が二十メートルを超えると、飛行機が飛ばなくなってしまう可能性がある。


空港に直接乗り入れた電車を降りて、左側へ。自動で進んでいくスロープに乗る。


私の前にはアジア系のエアライン会社の制服を着た男性が二人、会話をしている。


スマホでちらりと時間を確認して、国際線ターミナルの端の待合スペースへと向かった。様々な会社のチェックインカウンターの前には大きなスーツケースを持ったビジネスマンや大学生風の女の子たち、奥様グループたちの列ができている。みんな、どこへ行くのだろう。行く当てのある彼らが少し羨ましい。


韓国のエアライン会社のカウンター越しでも、すぐに彼女がわかった。


最後に会ったときには明るい茶色だったショートボブが、今は黒と緑になっている。そんなところも彼女らしくて、口元に笑みが滲む。改めてすきだなと思う。


彼女は多くの人に囲まれていた。まるで来日してファンに囲まれる海外セレブみたいだった。肩を組んで写真を撮る男の子。目元にハンカチを当てている女の子。その誰も彼もに彼女は笑顔を向けていた。


今日で会うのは最後だから会社まで休んで見送りに来たけれど、あの輪のなかに入る勇気はない。彼女に友だちが多いのは知っていた。そんなところも好きだったし憧れていた。だけどほんの少し寂しくて、ほんの少しだけ来なければよかったと後悔した。前にも後ろにも進めずに立ち尽くしていると、彼女がふとこちらを向いて、目が合った。


あ、と口が丸く開かれる。そして彼女を中心にして展開されていた大きな円に、ちょっとごめん、とでもいう風に片手を上げて、そしてするりと出てきた。パタパタという音が聞こえそうな走り方だった。


「萌木子(ももこ)、来てくれたんや」

「うん。やっぱりお見送りしたくて」

「仕事は?」

「休んできた」

「そっか。……ありがとう」


そう言って彼女、沙希ちゃんは少しだけ眉を落として微笑んだ。


「すごいね、向こう」

「うん。こんな大袈裟にするつもりなかったんやけどね」

「沙希ちゃんって感じがする。大学の友だち?」

「大学の友だちが多いかな。サークルの後輩もいるし。あ、あと同期も……、もう、元か。元同期も来とるよ。佐藤」

「えっ、佐藤くん来てるの。すっごく久しぶりかも」

「やろ」


ほら、と沙希ちゃんはさっきまでいた円のほうを振り向く。確かによく見てみると見知った顔が見えて、目が合う前に視線を外した。

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