幕間 明香の選択

 時は少し遡り、水月すいげつ玉華宮ぎょくかぐう鏡蓮房きょうれんぼうを逃亡した直後のこと。明香めいかは、水月が逃げる時間を稼ぐために、姫装束で室に押し入った浪士と相対していた。

 民衆もこの反乱に協力しているという、大義名分を示すための薊妃の策略なのだろう。浪士は見た目からしてやさぐれて品がなく、とても官吏には見えなかった。紅く見えるものが付着した棍棒や匕首を振り上げ、だみ声で笑いながら明香を睥睨する

 

「ほーう? 逃げずに相対することを選ぶとは悲壮でいいじゃないか、オヒメサマ?」

 

 数多の殺戮に浮かれている彼らの目には、明香の姿が怯えながら立つか弱い姫君に見えたのだろう。しかし、実際のところ明香は震えてすらいなかった。

 それどころか、瞳は冷静沈着。周囲を隈なく確認しながら、浪士達を憐れむ余裕さえあった。

 

 (水月様の願いと予想外の人物の乱入で少々予定が変わってしまったけれど、『彼ら』はこの周囲にも潜んでいるはず。問題ないわ)

 

 胸中で己の考えを纏めた明香は、口元は艶やかに弧を描いたまま、下卑た目をした浪士達に氷のような眼差しを向けた。

 

「私を水月様と見間違えるとは、これだから下賤な者は。……我が主の幸せのため、貴方達には犠牲になってもらいます」

 

 そう呟いた瞬間、鏡蓮房で何かが爆発する音が響いた。明香が、手に隠し持っていた爆竹に火をつけたのだ。突然の爆発音に、それまでへらへら笑っていた浪士達が一斉に殺気立つ。

 

「お前、一体何をしたっ!」

 

 あわや武器が明香の身に牙を剥こうとしたその時、庭の茂みや建物の陰から音もなく現れた人物がいた。きっちりと着込んだ袍に幞頭ほくとう、腰に帯びた剣。玉華宮の武官達である。

 彼らは明香の前に立つと、襲いかかってきた浪士を残らず切り捨てた。その太刀筋は峻烈かつ一切の無駄がない。恐らく浪士達からしてみれば、一体何故自分が死んだのかその命が奪われるまで分からなかったことだろう。

 一息の間に全ての仕事を終えた武官達は、明香に向き直ると背筋を正して跪拝した。

 

「侍女殿、お怪我はございませんか?」

 

 普段は滅多に関わることのないはずの武官に対しているにも関わらず、明香は特に驚いた様子もなく当たり前のように頷く。

 

「私は大丈夫です。計画と違う場所で呼び立てたにも関わらず迅速に来てくださったこと、心より感謝致します」

 

 深々と頭を下げる明香に、武官のひとりが人の良い笑顔で破顔した。

 

「頭をお上げください。我々は合図を受けて参上しただけです。絳睿こうえい様亡き今、生きる目的も復讐する相手すらも分からずにいた我々に手を差し伸べてくださった侍女殿に感謝こそすれど、貴女が頭を下げる必要はありませんよ」

 

 武官の穏やかな言葉に、明香も僅かに笑みを返した。が、声はあくまで冷徹に応じる。

 

「今後とも協力を期待しております。薊妃けいひ様は?」

 

 明香の問いに、武官は肩を落とした。

 

「もう、逃げてしまわれたようです。探してはみたのですが見つからず……。申し訳ありません」

 

 多少落胆はしたが、想定の範囲内だった。元々、協力してもらえた武官はそう多くない。明香は「大丈夫」と頷き、次にして欲しいことを頼んだ。

 

「今後は、先に頼んでおいたことと変わりありません。薊妃様の捜索と、残党の掃討を。私はここに残りますから、もし想定外のことが起きればよろしくお願いします」

「はっ」

 

 一斉に跪拝し駆けていく武官達を、明香は静かに見送った。

 先程話していた通り、彼らは絳睿に忠誠を誓っていた武官達だ。彼らは絳睿が実母である薊妃の計画に反抗を示すために自ら死んだという明香の話を信じ、せめてその計画を破綻させるためにとこちらの計画に賛同してくれている。

 しかし、明香には武官達に言っていない真実がある。敬愛する水月にも、最後まで隠すと決めたこと。

 

 ――絳睿を殺したのは、他ならぬ明香自身なのだ。

 

 明香が、彼女自身の意志で殺した。水月が慕っている異母兄あにと理解した上で、彼女のためと思って手を汚した。敬愛する主に、少しでも光ある未来が来るようにと。

 全ての始まりは、絳睿が死ぬ二年よりも更に少し前。彼が、鏡蓮房を頻繁に訪れていた頃に遡る。

 あの頃絳睿が水月のもとによく通っていたのは、彼らがとても親しくしていたからでもあるが、もうひとつ別の理由があった。薊妃を止める絳睿の計画に、明香と夕香せきかが協力していたからだ。

 自分が琳王の息子ではないこと、薊妃が愛する人の復讐をするために王族を抹殺し自分を王位につけたいと望んでいることを知った絳睿は、最初説得によって母を止めるつもりだった。

 その頃絳睿は、薊妃を説得のみで止められるという勝算が十分にあると思っていた。彼は水月に気づかれないよう明香と夕香を密かに呼び寄せ、生真面目な声で己の考えを語った。


『私は努力を重ね、今や王太子も目前と言われている。出生の秘密さえ隠せば、父上や兄弟姉妹を殺さずとも母上の望みを叶えることができる。水月も護ってやることができるのだ』


 少し離れたところで机案つくえに向かって書き物をしている水月を愛しげな眼差しで見遣り、絳睿は言葉を続ける。


『それに、叔父上が亡くなったのは臣下の讒言によるものとの調べもついている。腐敗した官吏には私も癖々していたところだ。私が王になった暁には、緩くなった臣下の轡を引き締め、母上が望むのならば処刑もしよう』


 未来を語る若き皇子の瞳は熱く燃えている。苛烈極まりない発言ではあるが、彼なら躊躇うことなく実行することだろう。その冷淡ともいえる判断力と圧倒的なカリスマが、絳睿が次期王と囁かれる所以だった。

 絳睿は明香と夕香に向き直り、「貴女方にもそう悪い話ではないでしょう」と微笑んだ。


『聞くところによると、官吏や宦官は水月に対しても手酷く虐めているという話ではないか。私にとってもそれはとても許し難い。貴女方の大切な主を救うためにも、どうか私に協力してはくれないだろうか』


 一介の侍女に深々と頭を下げた絳睿に対し、明香と夕香は二つ返事で了承した。

 この時は、明香も彼の考えが良いと思っていた。絳睿の明晰さも人望も宮中で知らぬ者がいないほどだったし、水月への愛情も疑いない。彼ならきっと水月を後宮の地獄から救ってくれるだろうと考え、そのためなら協力は惜しまないと約束した。

 薊妃の説得は難航した。しかし、その時はまだ絳睿も明香達もそれほど焦りを覚えていなかった。最初から一朝一夕でできるものとは思っていなかったからだ。色々試しながらじっくりと話してみようと絳睿は笑い、明香と夕香も彼の相談に乗りつつ気長に待つ構えでいた。

 或いは、あの頃が一番幸せな時期だったのかもしれない。絳睿が鏡蓮房を訪れる回数は必然的に増え、理由を知らない水月も異母兄が頻繁に会いに来てくれることを純粋に喜んだ。進展もないが問題もない、あまりに穏やかな日々が暫く続いた。

 だが、いくら説得をしても薊妃の思いは揺るがなかった。彼女の心は、愛する人が理不尽に処刑された時から止まっているのだ。今まで薊妃が生きてきたのは、全て復讐のため。あまりに強い信念を覆すことは、いくら実の息子の説得だったとしても難しかった。

 年が明ける頃には、徐々に絳睿も焦りを見せるようになった。無理もない。ほぼ自室に引きこもり、息子にも何をするつもりなのか明かさない薊妃。母でありながら努めて絳睿に関わろうとせず、彼の言葉を聞こうとしない日々が続けば不満が募るのも当然だろう。

 絳睿は目に見えて機嫌の悪い日が増え、明香や夕香への相談も愚痴めいたものが増えていった。丁度その頃、水月が意識して異母兄と顔を合わせないようにしていたのも拍車をかけたのかもしれない。絳睿が少しずつ焦燥と孤独感を強めていき、同時に鏡蓮房全体が緊張に包まれていったある日、その事件は起きた。


『明香っ! 水月は無事なのか?!』


 血相を変えて鏡蓮房に飛び込んでくる絳睿。明香は、寝台に腰掛けている主が彼に見えるよう壁際に控えた。


『口には含みましたが、幸いすぐに吐き出しましたので命に別状はございません』


 明香の言葉を聞き、顔色は良くないものの意識ははっきりしている様子の水月を確認して、絳睿はようやく肩の力を抜いた。


『良かった……』


 深々と安堵の息を吐く絳睿を、明香は訝しげな目で見遣った。どうして彼がここに来たのか謎だった。

 絳睿が酷く取り乱していた理由は分かる。水月の食事に毒が混入していたからだ。明香も何回かこのような経験があったとはいえ、流石に水月が口に含むまで気付かなかったことには肝が冷えた。

 明香が疑問を抱いたのは、この毒殺未遂事件を絳睿がどうして知ったのかということだ。いくら彼でも、鏡蓮房内部のことを全て知るのは不可能であるはず。

 そのことについて、絳睿は「信頼できる臣下に聞いた」と言ったが詳細を語ろうとはしなかった。ただ、彼が酷く怒っているのは目に見えて明らかだった。

 絳睿は、最初からこの毒殺未遂の犯人を自分の母である薊妃の仕業と決めつけていた。怒りに我を忘れ普段の冷静さを欠いていることは明白だったが、彼は明香と夕香の言葉を聞き入れようとしなかった。日々孤独感を強めていた彼は、毎日の相談に意味を見い出せずにいたのだ。

 絳睿は薊妃ならこのような悪辣なこともするだろうと断言し、長く続けた説得に無謀さを感じたと語った。同時に対話によって活路を探すことに見切りをつけ、より確実かつ簡単な手段――すなわち、薊妃を殺害するための計画を立て始めた。

 対話で説得しようとしていた時と違い、薊妃殺害計画はとんとん拍子で進んだ。恐らくとうの昔に疲れ果てていた絳睿が、密かに計画案をあたためていたのだろう。殺害方法は毒殺。毒の入手はいつの間にか絳睿がしていた。明香を呼び寄せた彼は、毒が入っている壺を手渡しながら言った。


『これを混ぜて、母上が好きな茶菓子を作ってほしい』


 罪は自分だけが犯す。殺人が露見しても決して明香にたどり着くようなへまはしないと断言した上で、絳睿はいつかのように深々と頭を下げた。

 明香は、今回は流石に二つ返事という訳にはいかなかった。数日待ってもらえるように頼み、己の考えを纏めた後、改めて壺を受け取った。

 更に数日後、連日茹だるような暑さが続く真夏日に、明香は毒入りの冷菓子を作った。そもそも冷たい食べ物が高価とされる時代。普段は惜しむような高級品をふんだんに使った菓子は、宮廷料理と比べても遜色ない。後宮端の空き部屋で待っていた絳睿も、明香のもってきた菓子に驚き、惜しみない賛辞を述べた。

 明香は照れたように頬を掻きながら、開けてみせた菓子入り箱とは別の包みを差し出した。


『実は、絳睿様にも味見して頂きたいと思って別に用意したんです』


 絳睿は渡された菓子を素直に喜んだ。「味をみてほしいから今ここで食べて欲しい」という言葉にも躊躇いなく従った。自分が渡した毒がその菓子に含まれているなど、少しも疑わずに。

 驚愕し目を見開いたまま苦しむ彼を、明香は無表情に見下ろした。即効性の毒は速やかに絳睿の身体の生命活動を停止させた。彼が全く動く様子を見せなくなってから、部屋の外にその死体を遺棄したのだ。

 絳睿が生前行った隠蔽の手際は、本当に見事なものだった。宮中のほぼ全ての者は、皇子毒殺の犯人が明香だったなど思いつきもしなかっただろう。彼女の犯行に気付いたのは、母親である夕香だけだった。

 夕香はもちろん驚いた。常に何かに怯えている様子の娘を捕まえ、何故そんなことをしたのかと問い詰めた。

 明香は酷く長い時間口を閉ざしていたが、やがて涙声で母親に言った。


「だって母様、このままでは水月様が殺されてしまいます。ならばいっそ、私は薊妃様を使って水月様を琳姫りんきでなくしてしまいたい」


 明香は水月を心の底から敬愛していたが、玉華宮は嫌いだった。絳睿が心配していた以上に、水月にとって後宮とはまさしく地獄だったのだ。毎日ボロボロになりながら、それでも親しい人に変わらない笑顔を向ける幼い主を抱き締めて、どうして彼女がこんな目に合わなければならないのかとずっと考えていた。

 絳睿は水月を思いやる様子を見せながら、長く続く母親との膠着状態に焦り、殆ど我を忘れている状態だった。そんな彼が、もし本当に薊妃を殺してしまったらどうなるだろう。

 確かに、薊妃による王族虐殺の危機は去るかもしれない。しかし絳睿が母を殺したことを知られたら、彼は処刑されるか冷宮に押し込められ二度と王にはなれない。玉華宮に水月の味方はいなくなり、彼女の日常は更に地獄になるかもしれないのだ。

 たとえ偶さかが重なり、絳睿の罪が誰にも知られることなく彼が王になったとしても、水月の未来は安泰とはいえない。絳睿は己の出生のためか、その過去のためか、異母妹いもうとに酷く執着している。彼は真面目で利発で人望もあるが、今回の一連の事件でも分かるように精神面で脆い部分があった。王となり重責を抱えるようになった絳睿は、その危うい精神バランスを支えるために必ず水月を手元に置きたがるだろう。年頃の、しかも訳ありの異母妹を優遇して手放そうとしない王に臣下は嫌気がさし、その鬱憤の矛先は水月に向くのに違いない。そうでなくても水月は聡い。自分のせいで異母兄があること無いこと噂されていることに必ず気づく。もしそんなことになれば、彼女が己の不甲斐なさに絶望し自ら命を絶ってしまう可能性もあった。

 玉華宮にいては、水月がどう足掻いたところで絶望が待つ。そんなの明香は耐えられない。もう、二度とのような思いはしたくない。それならば、ここで希望を見出すことができないのならば、水月に琳の姫であることを辞めさせてもっと広い世界に連れ出してあげた方がずっといい。そう、明香は母親に訴えたのだ。

 泣きじゃくる明香を抱き締めた夕香は、すぐに協力すると言ってくれた。かつて、大切な主を失ったのは夕香も同じ。……否、少女だった頃から蓮妃れんひに仕えていた彼女の方がずっと深い傷を抱えていた。もう二度と、唯ひとりと決めた主を失わないために。水月だけは必ず幸せに生きていけるように。今度は二人で彼女を護ろうと言ってくれた。

 それから二年の月日をかけ、この計画を練ったのだ。息子を失った薊妃が反乱を起こすようにそそのかしながら、同時に少しずつ味方を増やして。水月を騙してでも、他のあらゆる人に偽りを騙ってでも、ただ大切な主の幸せだけを願って。綿密な計画と確固たる決意をもって、この日を待ち続けたのだ。

 武官が散った後の玉華宮は、ただ夜の静けさだけが支配していた。中空にぽっかりと浮かぶ十六夜月は、罪に汚れた明香を見下ろして嘲笑っている。

 殺人を犯し、沢山の人に嘘を吐いてきた。いつか罰を受ける日が来ることは解っている。それでも、明香の心は揺るがない。水月が逃げたであろう北門の方に目を向けた彼女は、瞳に強い決意を宿したままいつものように明るく微笑んでみせた。まるで、すぐ傍にいる愛しい主に語るように呟く。


「これが、私の最善の選択みちです。水月様がお怒りになるのは承知の上。それでも私は、貴女が幸せに生きることさえできるのならばそれでいいのですから」


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