第三話 生きるために

 紅蓮の炎が夜の闇を照らし、玉華宮ぎょくかぐう全体に広がっていく。崩れ落ちる柱、梁。貴婦人が戯れれば一服の絵のようと謳われた後宮の庭も、焼き尽くされて最早見る陰もない。

 徐々に冷え込む秋の夜を熱波で包み、そうして後世まで変革のきっかけになったと伝えられる琳国反逆の狼煙は唐突に上がった。


「これは革命である! 民に目を向けない無能な王族を廃し、琳国に新たな時代の風を!」


 鎧を着込み、武具を携えた逆臣の奴が叫びとともに一斉に玉華宮後宮に雪崩込む。激しい剣戟。断続的に聞こえる悲鳴は妃や皇子、皇女のものだろう。

 重い鎧の金属音が、荒くれだった足音が次第に鏡蓮房きょうれんぼうにも近づいていることに気づいた明香めいかは、未だ事の理解が追いつかず呆然としている主の肩を揺すった。


水月すいげつ様、このままではここも危険です! すぐに逃げましょう!」

「逃げる……」


 呟いた水月は明香に頷こうとして、はっと顔を上げた。脳裏に父の姿が浮かぶ。


「待って! お父様はどうなったの……。せめて、ご無事を確認しないと」

「その必要は、ございません……」


 そう背後から声を掛けてきたのは、どこから現れたのか一人の年若い近衛兵だった。全身傷だらけで、鎧もしとどに血に塗れている。慌てて怪我の具合を見ようとする水月を制し、彼は荒く息をしながら言った。


「王は……既にお亡くなりになりました。敵に室にいたところを囲まれ、我らも占の警告通り気を張っていたのですが、仲間はひとり残らず殺されてしまい……」

「そんな!!」


 にわかには信じ難い言葉に、水月は両手で口を抑えて絶句した。膝を折ってしゃがみこんでしまった彼女に、近衛兵は震える腕で何かを差し出す。それは、簡素な装飾を施された巻物だった。


「これは……?」


 首を傾げながらも、水月は両手で受け取る。黒地に光に透かさないと分からないほどうっすらとだが蓮を象った文様が見える。真紅よりもなお赤い深緋こきひの留め紐は、王の衣類にしか使われない特別な生地。恐らく、王が他人に伝えることなく密かに用意していたものだということか。

 近衛兵は項垂れた姿のまま、自嘲の笑みを零した。


「生き残った私を見た王は、敵の刃を背に、鏃を肩口に、槍先を脚に受け倒れながら、私にその巻物の場所を伝え止めを刺すように頼みました。既に助かる傷ではないと知った私は泣く泣く刃を下ろし、骸を隠して願いの通りこの巻物を皇女様にお届けしに参ったのです」


 水月は両手に持った巻物を暫く見つめると、そっと胸元に抱いた。ついに、何もして差し上げることができないまま亡くなってしまった父。会ったところで声も掛けてもらえず、娘の自分では慰めにもならないのかと気落ちしていたが、彼は水月にひとつの巻物を残してくれた。これは「月映し」への事務的な感謝か、亡き母への想いか。それとも、父は自分も娘として愛してくれていたのだろうか。

 本当は、今すぐにでも開いて中を見てみたい。けれど、それが叶わないことは分かっていた。悲鳴は少しずつ少なくなり、後宮中を土足で駆け回る足音は次第に大きくなっていく。明香に簡単な傷の手当を受けていた近衛兵も、鋭い視線を扉に向け抑えた声を出した。


「皇女様、このままではここも危険です。すぐにお逃げくださ」


 その時、鏡蓮房の扉が蹴破られ壊される音が響いた。


「おい、部屋に篭って何もしない腰抜けのオヒメサマよ。お前がそこにいるのは分かっている。さっさと出てこい!」


 敵のだみ声に全員が総毛立つ。水月は背後の庭を意識した。今彼らは扉の方から来たが、姿が見えないだけで既に囲まれてしまっているだろう。どのように逃げたら良いものか。

 考えている間も、逆賊はずけずけと鏡蓮房に押し寄せてくる。明香が運んできてくれた夕食の器が壊れる音が、文箱や化粧道具を収めた棚が倒れる音が響く。


(このままでは、殺される)


 水月はそう考えて、ごくりと唾を飲み込んだ。琳王から届けられた巻物を握る手に力を込める。今はいけない。今、死ぬわけには。せめてこの巻物の中を、父がこれを水月に届けた真意を知るまでは、むざむざと殺されるわけにはいかなかった。

 けれど、どうしたらいいものか。焦る水月の横、明香は落ち着き払った様子で主の手を引いて立たせ、青みががった黒に輝く長い髪を丁寧に纏め、素色の羃篱べきりで全身をすっぽりと覆った。続いて、自ら水月の襦裙じゅくんを纏い始める。


「明香……?」


 嫌な予感に突き動かされるように、恐る恐る何をしているのか聞く。すると明香は布袋で包んだ龍琴りゅうきんを水月に手渡し、にっこりと優しい笑みを浮かべた。


「お逃げください、水月様。ここは私が引き受けますから」


 逃げる時間を稼ぐため、身代わりになる。そう堂々と言った明香の腕に水月は縋り、何度も首を振った。


「嫌! お願い、明香も一緒に……。そうじゃないと、私どうすれば」


 今までどんなに辛いことがあっても耐えることができたのは、ひとえに明香のおかげだった。明香と夕香せきかがいたから、母も兄もいなくなってもこの場所で生きていくことができた。しかし夕香がいなくなり、明香もいなくなってしまったら、本当にどうしたらいいのか分からない。

 必死で引き止めようとする水月。しかし、明香はいとも簡単にその手を振り払った。次いで主の身体をそっと抱きしめる。驚く水月の耳元に口を寄せて囁いた。


。……これは母からの頼みです。時が来たらこうするよう、母から申しつかっていたのです。ですから、どうかこのままお逃げください」

「夕香が……?」


 思わぬ名前に水月は驚く。問い返す言葉に、しかし明香はそれ以上答えなかった。腕を解き、二人のやり取りを黙って聞いていた近衛兵に声をかける。


「そこの貴方、水月様が逃げられるよう誘導をお願いできますか」

「承知しました。皇女様を、必ず安全なところまでお連れ致します」


 男が一礼する。彼に呼びかけられても、水月は動くことができなかった。後ろ髪を引かれる思いで明香を見つめる。そんな彼女の背中に、明香はそっと触れた。


「またお会いしましょう、水月様。どこにいても、私は貴女様の無事を祈っていますから」


               *


 どのくらい走っただろう。鏡蓮房から出て四半刻あまりで、水月と近衛兵は玉華宮の城壁にたどり着いた。周囲を入念に確認した近衛兵が、生垣に隠れた壁の隙間を指し示す。


「ここから城外に出られます。さあ、参りましょう」

「待って」


 再び先導しようとした彼を、水月が引き止めた。振り向いた彼に淡く微笑む。


「ここからは私ひとりで行きます。貴方は戻りなさい」


 近衛兵は何を言われたのか分からないという顔をした。次いで、慌てて首を振る。


「まだ危険です。もう少し安全な場所まで」

「大丈夫。それより頼みたいことがあるの」


 近衛兵の言葉を遮り、水月は彼の瞳を覗き込んだ。十六の娘のものとは思えない眼力に、一瞬近衛兵がたじろぐ。水月は、羃篱の内に隠した琳王からの巻物にそっと触れた。


「さっき、お父様のご遺体を隠したと言ったでしょう。どうかそのご遺体が悪く扱われないよう守って。そして騒ぎが落ち着いたら、ご遺髪でも装飾品でもいいから鏡蓮房の池に沈めて欲しいの。……お母様が亡くなった、あの池に」


 近衛兵は本来、水月ではなく王を守るのが仕事。それを全うして欲しいと彼女は語る。水月としても父の遺体が手荒に扱われるのは避けたかったし、せめて最期は母のもとで眠って欲しかった。

 近衛兵は暫し躊躇うような素振りを見せたが、不承不承頷いた。


「……皇女様のご意向に従います」

「ありがとう」


 水月は心から感謝の言葉を述べた。思えば、彼は宮中で滅多に皇女として扱われない水月にも丁寧に接してくれた。きっと素直で心の真っ直ぐな人なのだろう。どうか無事生きて欲しいと願う。

 立ち去ろうとする彼に、水月はもう一言だけ問いかけた。


「良かったら、貴方の名前を教えてくれない? また、再会した時のために」


 生きて再び会う約束を、明香だけでなく貴方とも。その気持ちに、彼が気づいたのかは分からない。ただはっと顔を上げ、次いで王族に対する丁寧な拱手をした。


「私は温志林おんしりんと申します、水月様。……貴女様は腰抜けなどではございません。無事に逃げられることを、心から祈っております」

「貴方も。また会いましょう!」


 水月の言葉に、志林は再び礼を返した。まだ複雑そうな表情をしていたが、きゅっと口元を引き結び、ついに夜闇の向こうに駆けていく。

 その後ろ姿を見送り、水月も再び城壁の向こうを見た。背負った龍琴と、抱えた巻物を意識する。


(ここからは、私ひとりで)


 今まで、水月の傍にはいつも誰かがいた。どんなに苦しい時でも、兄が、夕香が、明香が彼女を支えてくれた。彼らを不幸にすることに怯えながらも、水月は一緒にいてくれる人がいたからこそ今まで生きてこれたのだった。

 しかし今、水月の傍には誰もいない。肉親は皆死に、生家は燃え、故郷といえどそこに水月の居場所はどこにもない。


(それでも、私は生きなければ)


 何故なら、水月の命は託されたものだから。父に活路を見出され、夕香が明香にその思いを託し、明香と志林が生きてと願ったものだから。

 だから、水月はまだ死ねない。せめてどこかに逃げ延び、父が遺した思いを知り、明香が教えてくれた書付を読むまでは死ぬわけにはいけない。

 夜はまだ明けない。背後では、まだ玉華宮が赤々と燃えている。それを見るなと自分に叫び、裙の裾を乱しながら、水月はただ前へ前へと駆けた。ただ、生きるために。


 ――この逃亡が、運命の始まりとはまだ知らずに。

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