傍にいられるなら、犬でいい【6】


 来るだろうと恐れていた日は、それから僅か数日後に訪れた。

 淡いイエローのワンピースを着た彼女はやはり綺麗で、手入れの行き届いた髪がキラキラしていた。


「わざわざ店休日に来てあげたの。今度は、邪魔だからって追い出さないでちょうだい」


 裏門から入ってきた彼女は、今度は浦部さんを連れていた。


「力任せに追い出すことも、無理よ」


 彼女の後ろに護衛よろしく立つ浦部さんは、苦い顔をした眞人さんに深々と頭を下げた。


「すみません、四宮さん」

「本当に、迷惑なんですよ。あれだけ言っても分かってもらえませんでしたね、浦部さん」

「謝ることないわよ、浦部。眞人だって、いずれはあなたに感謝するわよ」


 ふふ、と自信ありげに笑う小紅さんの言葉に、眞人さんの後ろにいた梅之介が「頭悪」と呟く。

 それは幸いにも彼女の耳には届かなかったらしい。玄関の上り框に立つ眞人さんを見上げて、「話があるの。場所を作って」と言った。


「帰れと言っている」

「嫌よ。帰らないわ。私の性格、よく知っているでしょう?」


 眞人さんがため息をついた。


「外から店に回ってくれ。開いてる」

「分かった。行きましょ、浦部」


 彼女は裾をひらりと舞わせて、門を出て行った。


「いいのかよ、眞人」

「浦部さんがいるし、妙な流れにはならない、と思う。とりあえず話をしてみる。無理だと判断したら、『華蔵』に連絡をするよ」


 重たい足取りで店側に向かっていた眞人さんがくるりと振り返る。


「お前たちは」

「ついていく」

「おともします」


 すでに背後に控えていたわたしたちが言うと、眞人さんは小さく笑った。


「それは、頼もしい」


 それからわたしたちは三人そろって、小紅さんの待つ店内へと向かったのだった。


「……あらあら。仲がいいのね」


 店の隅のテーブル席に腰かけた小紅さんが、眞人さんの後ろにいるわたしと梅之介を見て笑った。


「三人で共同生活を送ってるんですってね。楽しそうね」

「俺はもう、話すことはない。お前の用件を早く言え」


 小紅さんの正面に座った眞人さんが言う。乱暴な口調に眉根を寄せた小紅さんだったが、気を取り直したように笑顔を作った。


「あなたを連れ戻しにきてあげた、のよ。それでね、私を追いだしたこの人たちが邪魔なのかしら、と思って調べたの」


 彼女はトートバッグの中から、大きな封筒を取り出した。中から書類を取りだし、机に置く。


「調査結果をみて笑っちゃった。三人で、傷の舐めあいっこをしてたのね」

「どういう意味だよ?」


 彼女は明らかにわたしたちを小ばかにした口調だった。梅之助が短く問うけれど、彼女はそれに答えずにわたしに視線を向けた。頭のてっぺんから値踏みするようにじっくりと見つめ、くすりと嫌な笑いを零す。


「そんな頭じゃ、彼氏にも捨てられても仕方ないか。一緒に歩くのも恥ずかしいものね」

「何を言うんだ⁉」


 眞人さんが声を上げる。


「相変わらず調子のってるね、このブス」


 わたしの横に立つ梅之介が強く彼女を睨みつけるけれど、彼女はそれに怖気づく様子もない。逆に、ふんわりと笑ってみせた。


「三倉さんも、黒田さんも、可哀想なことに恋人に手酷くフラれた。そして眞人も、私に捨てられた。そんな三人がこのちっぽけな家で傷をなめ合って生活してたんでしょう? 気持ち悪いったらないわ。敗者の巣窟じゃない」


 やだやだ、と大げさに身震いする小紅さん。

 わたしは何も言えずに立ち尽くしていた。わたしたちの生活は、そんなものじゃない。

 そんな彼女に怒鳴ったのは、梅之介だった。


「ふざけんなよ⁉ 何も知らないくせに知った風なこと言うんじゃねえよ!」

「何も知らなくないわ。調べたもの。それに、私たち、お会いしたこともあるわ。ねえ、黒田さん? いつも、御贔屓ありがとうございます」

「え? 知り合いなのか?」


 振り返る眞人さんの顔が驚いている。


「あら、知らなかったの、眞人。この人、日舞の黒柳流くろやなぎりゅうの家元の御子息よ。お父様の家元とは何度か食事にもいらしたわ」

「な……」


 眞人さんが目を見開く。驚いたのは、わたしも一緒だった。

 そうか、育ちがいいとは思っていたけれど、本当にいいところの息子だったのか。品がいいのも、着物になれていたのも、納得がいく。

 わたしと眞人さんの視線を受けた梅之介は、怒気を孕んだ目で小紅さんを睨みつけていた。


「それ以上余計なこと言うな、クソブス。そのだらしない口を閉じろ」

「クソブスで結構。あなたの元婚約者に比べたら、美人だと自負してるもの」


 そう言ったものの、彼女の顔は酷く引き攣っている。多分、悪し様に言われたことなどないのだろう。頬を赤くした彼女は、それでもどうにか笑顔を作ってみせた。


「お父様の女好きは有名ですけれど、なにも御子息の婚約者を愛人になさらなくってもいいのにねえ。だけど、婚約者様の気持ちも分かるわ。だってすごく魅力的な方ですもの。男らしくて行動力があって。ショックで逃げ出して、一年以上眞人に養われているような息子より、父親に魅かれてしまうのは仕方ないのかもしれないわね」


 父親に、婚約者を盗られた……。それはなんて残酷な話だろう。

 梅之介を見ると、顔を真っ赤に染めている。血が滲むんじゃないかと思うくらいにぐっと唇を噛んだ梅之介。それを見た小紅さんは嬉しそうに笑った。


「ここで眞人に甘えて生活するのはさぞかし楽だったでしょうね? 一生、そうやって眞人に頼って行くつもりかしら。まあ、その可愛らしいお顔で女性に甘えていくのもいいんじゃないかしらね? ああそうだ、この三倉さんに養ってもらったらどう? 彼女、そういうダメな男性がお好きのようだし」

「いい加減にしろ、小紅。お前、ひとを侮辱しに来たのか」


 眞人さんが、テーブルの上の書類を薙ぎ払う。ひらひらと舞う紙切れを、浦部さんが慌てて拾い始めた。


「勘違いしないで、眞人。先に私を侮辱したのはそこのふたりよ」


 小紅さんは私と梅之介を指差す。


「それに、私だって、驚いたのよ? 偉そうに私を追いだした方たちだからさぞかし素晴らしい経歴をお持ちかと思っていたのに、ただの負け犬だったんですもの。負け犬が傷を舐めあって暮らしてたなんて、馬鹿みたいだと思うのは当然じゃない? この間の私は、さしずめテリトリーに入ったよそ者ってわけでしょ」


 わたしの横に立つ梅之介の拳がぶるぶると震えている。小紅さんを睨みつける目は厳しくて、わたしは梅之介がこんなにも怒っているところを見たことがない。

 負け犬……。わたしたちは負け犬なんかじゃない。眞人さんたちと傷をなめ合ってきたわけじゃない。

 だけど、この人には何をどう言っても伝わらないと思う。彼らがわたしにくれた優しさや思いやりは、そんなものじゃない。だけど、どれだけ言葉を重ねても彼女には理解してもらえないだろう。


「ねえ眞人。あなたはいまでも家族が欲しいんでしょう?  寂しかったんでしょう? だからこんなひとたちと暮らしてるんだわ。ねえ、私と一緒に帰りましょう? 私はあなたの欲しい物を知ってる。私が、全部あげるわ」


 小紅さんが、眞人さんに諭すように言う。


「『華蔵』に、連れて帰ってあげる。もう、こんな馬鹿みたいな真似しなくてもいいのよ」

「……小紅」


 長い沈黙ののち、眞人さんが口を開いた。それはとても静かな声音で、さっきまでの苛立ちや怒りは消え失せていた。


 小紅さんが、にこりと笑う。


「なあに、眞人。分かってくれた?」

「俺の中の、お前に対する情が僅かでも残っている内に、帰ってくれ。憎みたくない」


 彼女の顔から、表情が消える。

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