傍にいられるなら、犬でいい【3】


 庭先の桜が、あっという間に花開いた。薄桃色の花たちは出来立ての綿菓子みたいにふわふわしていて、儚い。


「綺麗だねえ」

「そうだなあ。ほらシロ、籠だせ」

「あ、はいはい」


 昼の営業が済んだ暖かな午後。わたしと梅之介は、料理のあしらいに使うために桜の花をとっていた。あしらいだけでなく塩漬けにもするらしい。塩漬けを使った美味しい上用饅頭をつくってやるな、と眞人さんが言っていた。楽しみだ。

 脚立の上に座った梅之介が桜を摘んでは、下にいるわたしの持つ籠に入れていく。


「もったいない気もするけど、でも綺麗」


 竹籠にふわふわと降り積もる花たちを見るとうっとりしてしまう。春は華やかで、いいよねえ。


「よし、と。まあこれくらいでいいかな」


 梅之助がわたしの手の中の籠を見て言う。


「うん、いいんじゃないかな」

「ふたりとも、それくらいでいいから戻ってこい」


 背後から声がして、振り返れば眞人さんが立っていた。


「団子ができたから、一緒に食おう。きな粉と黒蜜、それに餡子があるぞ」

「だんご」


 なんていい響き。思わず顔が綻ぶわたしを見て、梅之介が「お前、顔に出過ぎ」と言う。


「早くきな粉に黒蜜かけて食べたい。あっついお茶がいいよねえ、なんて考えてるだろ」

「梅之介すごい。一言一句間違えてないよ」

「わかるんだよ、お前の考えてることくらい」


 ひょい、と脚立から飛び降りた梅之介が、わたしの手から籠を取り上げる。


「ほら、行くぞ」

「うん。眞人さん、わたしが熱いお茶淹れますねー」


 眞人さんがそんなわたしたちを見て、笑いながら頷く。

 わたしたち三人の生活は、本当に上手く、楽しく進んでいた。


「んー、ほかほかで美味しい!」


 真っ白で艶のあるお団子の上に、とろりとした黒蜜、それとたっぷりのきな粉をかける。口に含めば香ばしさと濃厚な甘さが広がって、それがもちもちした触感と相まって口の中を幸せにする。


「眞人さんのつくるものは、どれも全部美味しい」


 しみじみと言えば、夜営業の仕込みに入っていた眞人さんが、「その団子は、誰が作っても簡単だし、美味いぞ」と言った。


「そうかなあ。わたしが作ると、こうはいかないと思う」


 食べながら、「やっぱり眞人さんがつくると一味違う気がする」と言う。


「そうだろうなー。お前が作ると、違うものになりそうだもんな……」


 失礼な言葉がかかる。


「むか。わたしだって、料理くらいできます」

「へえ。それは意外ですね……」


 お腹がいっぱいになった梅之介は、睡魔が襲ってきたのらしい。声のした方向を見れば、店のテーブルのひとつに突っ伏して微睡んでいた。お子様健在である。あと数分もすれば、眠りの世界にいってしまうことだろう。


「はあ、幸せ。美味しい物が毎日食べられるって最高」

「ふ、大袈裟だな」

「だって本当だもん」


 眞人さんが、厨房の端っこに置かれた椅子に座ってお茶を啜っていたわたしの前に来る。


「口開けろ」

「はい」


 言われるままに開けると、食べ物が押し込まれる。


「んむ」


 もぐもぐと咀嚼する。

 お餅……?

 表面はカリッとしていて、噛むともちもちふわふわしている。酢醤油と芥子が程よいアクセントになって美味しい。ふわっと香るのは桜海老だろうか。他にも何か入っている気がする。色んな味がほんのりと残った。


「美味しい!」

「仕入れた大根が水っぽいんでな。大根餅にしてみた。本来は中華だけど、今日

の一品料理に加えようかと思って」

「わあ、大根餅って初めて食べた! すっごい美味しい」


 大根の青臭さが全くない。大根だと言われなかったら気付かなかったかもしれない。


「そうか。じゃあもう一切れ食うか?」

「食べたい!」


 言うと、眞人さんはすぐにもう一切れ持ってきてくれた。口に入れる前にどんなものかを見てみる。

 こんがりと焼かれた丸く平べったいお餅に、芥子と刻み葱がちょこんと乗っている。間眞人さんが酢醤油をほんの少し垂らしてくれる。


「このピンクの、桜海老となに?」


 お餅のなかにちらちらと顔を見せているピンク色の物を指差す。

「中華ハム。見た目じゃわからないけど、干し貝柱も入ってる」

「ふうん、だから色んな味がしたのかあ」


 口を開けると、眞人さんが大根餅を食べさせてくれる。


「やっぱり美味しい」


 でへへ、と咀嚼していると、眞人さんが私の口元に手を伸ばした。


「すまん、芥子が付いた」


 口端に指腹が触れる。ぐい、と拭われた。幅広の指に薄黄色が付いたのを見て取った瞬間、思いだしたのは先日の梅之介だった。

 ぱく、と指先を口に含んだ。それはもう反射としか言いようがなくて、どうして自分がこんなことをしたのか説明できない。


「何してるんだ」


 驚いた眞人さんの声に、顔を上げる。驚いたのはこちらも一緒です、すみません。


「んー……、ええと、芥子が付いてたから?」


 必死に考えながら言う。眞人さんがどういう反応をするのか分からない。やってしまったこととはいえ、心臓が爆発するんじゃないかというくらい高鳴った。


「ほんと、面白い。サチみたいだ」


 くす、と眞人さんが笑って、わたしの口からそっと指を引き抜いた。


「サチも、こんなだった?」

「ああ。顔でも手でも、よく舐めてた。だけどさすがに、芥子は舐めなかったかもな」

「ふう、ん」

「さ、仕込みに戻るか。気に入ったんなら、これは夜の賄用にも少し残しておこうな」


 ぽん、とわたしの頭を一度だけ撫でて、眞人さんは仕込みに戻った。

 頭のてっぺんに残った感触に手を伸ばし、眞人さんの背中を見つめる。思わず、微笑んでいた。

 そっか、眞人さんはこれも許してくれるのか。わたしはまだ、彼に近づいても許されるのか。それが堪らなく嬉しい。

 いまのところ、眞人さんにはわたしの気持ちを気付かれていない。だから、このままでいい。こうして眞人さんに受け入れてもらえて、優しくしてもらえているだけで、幸せだと思おう。これ以上何かを求めるのは、贅沢過ぎだもの。

 ふふ、と小さく笑ったわたしは、少しだけ冷めたお茶をゆっくりと啜ったのだった。

 

「うわ、美味しい。眞人、こんなのも作れるんだ」

 

 午睡から目覚めた梅之介は、寝起きだというのに大根餅をぺろりと食べた。


「これ、今日はよく出ると思うよ」

「それならいいけどな。多めに仕込んだから」

「眞人さん、何でも作れるよねえ。それも絶対美味しいし。わたし、眞人さんより美味しい料理作れるひとを知らないよ」


 厨房の端っこで梅之介の為にお茶を淹れてあげながら言う。梅之介も「そうだなー」と相槌を打った。


「俺は知ってるよ」


 仕込み中の眞人さんが言った。


「すごいんだ。塩の利かせ方ひとつとっても、俺は及ばない。いつかお前たちにもあのひとの料理を食わせてやりたいな」


 その口調は懐かしそうでもあり、寂しそうでもあった。

「へえ。それって、眞人のお師匠みたいなひと?」

「ああ。もう何年も顔を合わせていない。元気かな」


 眞人さんは、わたしたちに背中を向けていた。梅之介と顔を見合わせる。


「こないだの、『サカキさん』って人じゃないか?」


 梅之介がわたしの耳元に顔を寄せ、小声で言う。こくこくと頷いた。


「もう少し、教わりたかったけどなあ。残念だ」


 眞人さんが独りごちるように呟いた。

 眞人さんから、過去を匂わすようなことを聴いたのはこれが初めてだった。

 何と返せばいいのだろう、と梅之介と目で会話をしていると、店の出入り口の引き戸が開く気配がした。


「あれ? 準備中の札かけてたはずだけどな」


 梅之介が立ち上がり表へと出て行く。


「あ、すみません、まだ準備中なんですよ。夜営業は十八時からです」


 営業用の、軽やかな梅之介の声を聞きながら時計を見上げる。開店まであと一時間くらいだ。


「あの、眞人はいますか?」


 細い、女性の声がした。


「あれ? 眞人さん、お客様みた」


 眞人さんを仰ぎ見たわたしは、最後まで言葉を発することができなかった。眞人さんは初めて見る、恐ろしくなるほどに険しい顔をして、表に出て行った。


「な、なに」


 慌てて追いかけて、わたしも表に出た。そこでわたしが見たものは、清楚なオフホワイトのワンピースを着た女性が、眞人さんにふわりと抱きつく瞬間だった。


「会いたかった、眞人! ずっとずっと探していたの!」


 艶のあるマロンブラウンの髪は背中辺りまであって、緩く巻かれている。肌は白く、頬はほんのり紅潮していて、黒目がちの潤んだ瞳が眞人さんを見上げる。


 ……綺麗な、ひと。このひとは一体、誰?


「浦部に話を聞いて、たまらずにやって来たの。ねえ、お願い。お店に戻って来て頂戴」


 彼女は眞人さんに懇願する。眞人さんはわたしの前に立っていて、背中しか見えない。どんな表情をしているのか、わたしには分からなかった。


「お前、なに、言ってるんだ……。お前、そんなこと言える立場じゃ……」

「まだ怒ってる? ごめんなさい、許して? 私が馬鹿だった。だから、ねえ。お願い。帰ってきて……」


 女性の大きな瞳から、ころんと涙が転がり落ちる。眞人さんに縋る姿は、まるでドラマのワンシーンのように綺麗だった。

 どういうこと? このひとは一体誰なの?

 のろのろと梅之介を観る。出入口の前に立ち尽くしていた梅之介の顔も、酷く困惑していた。


「とりあえず、離れろ」


 眞人さんが女性の体を押しやる。それからぶるんと頭を振って、手近なテーブルに手をついた。大きなため息をつく。


「何だよこれ、どうして来られるんだよ……」


 声音が弱弱しい。眞人さんが狼狽えているのだと分かった。こんな姿、初めて見た……。


「眞人……」


 指で涙を拭った女性が、ふっとわたしを、それから梅之介を見る。


「あ……急にすみません。驚かせてしまいました」


 丁寧に会釈をする。上品な仕草に、わたしたちも慌てて頭を下げた。

 儚いとか、頼りないとかいう表現をすればいいのだろうか。そっと笑みを作るさまは女のわたしですら庇護欲を駆られた。


「この店の従業員の方たちかしら? 初めまして、眞人の妻です」


 時が止まるとは、こういうことを言うのだろうか。わたしは、心臓の鼓動すら止まったかと思った。

 いま、このひと、眞人さんの、妻って、言った……?

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