捨てられた女、それはわたし【7】

 その日の勤務は、針の筵の上にいるようだった。

 松子のせいで、事情は全員が知っているという事態となっており、わたしは好奇の目に晒されることとなったのだ。

 休憩時間や空き時間には、「大変だったね。で、どういう流れなわけ?」と質問攻めにあった。


「あー。まあ、松子に盗られた、みたい」


 わたしはへらりと笑うことしかできなかった。意外にも、仕事も普通通りこなせたし、笑顔だって作れた。

 そんなわたしを見たスタッフたちは、「白路って、結構タフだよね」、と言った。けれど、強くなんかなくて、ただ感情のどこかが麻痺してしまっただけなんだと思う。


「上とも相談して、国枝には移動してもらうようにするから。だから、申し訳ないけど三倉は少しだけ我慢して欲しい」


 駅中店を任されている武里たけさとチーフに申し訳なさそうに言われ、「辛いのに、よく会社に来た! 偉いぞ」と背中を叩かれた。

 行くところがないだけで、もっといえば、生活していくためのお金が欲しいだけだ。泣いて籠もることが許されるのなら、いますぐそうしたい。

 へらへらと笑って「ありがとうございます」というわたしの視界の隅には松子がいて、わたしを蔑むような目で見ていた。


「こんな最低なやり方はない。あいつはやっぱり最低最悪のクソ男だよ。こんなことを平然とやれる男と別れられたんだから、よかったと思おうよ、白路」


 達也との付き合いについてよく知っていた真帆はそう言ってくれたけれど、素直に頷けない。みんなが酷いと口々に言う仕打ちを受け、松子との関係を知ってなお、わたしの中にある達也を想う気持ちは消えてくれない。

 真帆の言う通り、このまま別れを受け入れ、乗り越えたほうがいいのだろう。けれど、ぶつりと断ち切られた達也との糸を再び結び直すことができやしないかと、どうしても考えてしまう。

 達也、酷いよ。別れる準備を進めていたならどうして、わたしの想いをそのままにしておいたの。少しくらい、わたしが想いを諦められるような準備もしていてくれたっていいじゃない……。


「やっと、終わった……」


 気が遠くなるような一日を終えたわたしは、更衣室のロッカーの前でへたり込んだ。


「お疲れ、白路」


 横で着替えていた真帆が、わたしの頭を撫でる。


「白路は明日のシフトは休みだったよね? 私の部屋でゆっくりしてなよ」

「ありがと。でも、部屋探さなきゃ」

「昨日あんたを放ってしまったこと、悪いと思ってんのよ。だから、決まるまでは遠慮せず私の部屋に居なさいよね」

「ん、ありがとう」

「昨日泊まったビジネスホテルに、荷物を置かせてもらってるんだっけ?」


 真帆には、たまたまホテルを見つけることができてそこに泊まったと嘘をついていた。眞人さんはすごくいい人だったけど、彼を知らない真帆にいらない心配をかけると思ったのだ。


「それを持って、家に来なさいよ。ご飯、作って待ってるからさ」

「うん、ありがとう。でも、修平しゅうへいさんに悪くない?」


 真帆にプロポーズしたばかりの彼氏の名前を出す。昨日の今日だし、わたしが転がり込んでしまっていいんだろうか。


「気にしないで。白路の事情を知れば、文句言うはずないじゃない」

「ん。ありがとう……。でも、なるべく早く出て行くようにする」


 着替えを終えて、店を出る。一旦真帆と別れたわたしは、昨晩泊めてもらった眞人さんのお店に向かったのだった。


「――あれ?」


 最寄駅からほてほてと歩いていたわたしは、目的の場所の手前で足を止めた。

 昨晩わたしが駈け込んだ店の前に、たくさんの女性が溢れていたのだった。


「えー! 今日、もう無理なの? あたし、物凄く楽しみにしてたのに!」

「梅之介くん、もうちょっと待ったら席空かない? 待つから!」


 女性たちの中央にはクロくんがいて、困ったように眉尻を下げていた。

彼は、この店の店員でもあったらしい。昨日眞人さんが着ていたものと同じ紬の作務衣姿だった。


「ごめんなさい。すごく嬉しいんだけど、もうこれ以上は難しいんだ。よかったら、また来てください」

「あたし、こないだも入れなかったんだよ? ねえ、いい加減予約制にしてよ!」

「本当にごめんなさい、ウチのボス、予約制にする気ないみたいなんです。あの……怒らないで?」


 今朝、わたしに「ブスブース」と連呼していた人とは思えないほど柔らかな表情をしたクロくんが、申し訳なさそうに言う。


「僕も、出来ることならここにいる全員に、食事を楽しんで行ってもらいたいんだけど……」


 哀しそうに瞳を伏せるクロくん。はて、あの人は二重人格なのだろうか。わたしに殺気を込めた視線を向けた人と同一人物とは、到底思えない。しかし、あんなに顔の造作の整った人間がそうそういるわけはないので、どういうわけだか同じ人間なのだろう。

 周囲の女性たちが「梅之介くん! そんな顔しないで」と甘い声を出した。


「毎日でも通う。だから、そんな顔しないで、梅之介くんのせいじゃないもの!」

「でも……」

「いいの、我儘言ってごめんね? また今度来るね」


 ひとりがそう言えば、周囲も口々に同じようなことを言う。そうして彼女たちは、クロくんが「ありがとう」と儚く微笑むと、嬉しそうに身を捩らせた。


「またの御来店、お待ちしてます。気を付けて帰ってくださいね」

「うん! またね、梅之介くん!」


 残念そうな顔をしながらも、帰って行く女性たち。わたしの横を通り過ぎようとしたひとが、わたしを見て「ねえ」と声をかけてきた。


「あなたも『四宮しのみや』目当て? 今日は満席でオーダーストップまで空きそうにないんですって。帰った方がいいわよ」

「え?」

「予約が無理なら、せめて時間制にして欲しいわ。さっきの女たち、何時間居座る気よ。ほんと、ムカつく!」


 悔しそうに店を一度振り返った女性は、「今度は早めに来ることね。私も、もちろんそうするけど」と言って去って行った。


「は、あ」


 口々に文句を言いながら去る彼女たちの背中と、店を交互に見る。

 と、彼女たちを見送っていたクロくんと目が合った。


「あ、ク」


 名前を口にしようとして、噤んだ。さっきまで可愛らしい表情を浮かべていたクロくんは、わたしを認めたとたん、瞳に殺気を備えた。

 にっこりと笑ったまま、そっと手招きをするクロくん。怖い。

 おずおずと近づいてみると、クロくんは顔に笑顔を張り付けたまま「何しに来たがったブス」と言った。


「あ、あの。荷物を置きっぱなしなので、引き取りに来ました。それと、眞人さんに一宿二飯のお礼を……」

「裏から入って、気配を消して礼だけ言って帰れ。お前みたいなファンキーブスが眞人の知り合いだと思われたら、客が減るだろうが」

「は、はぁ」


 酷い言い草なんですけど。さっきまでの大人しそうな青年はどこに消えた。

 そんなとき、クロくんの背後にあった引き戸がカラリと開いた。お酒が入っているのか、頬をほんのりと染めた綺麗な女性が顔を覗かせる。


「梅乃介くーん? いつまで外にいるの? 眞人さんが一人で大変そうよー」


 店の中から、賑やかしい女性の笑い声がする。どうやら大混雑のようだ。


「あ、すみません! すぐ戻ります。ではお客様、申し訳ないんですがまたのご来店をお待ちしております」


 天使の笑顔になったクロくんはわたしに捲し立てるように言うと、店の中に入って行った。クロくんを呼び戻した女性が、わたしを見てドヤ顔で笑う。


「こんな時間から来たって、入れるわけないじゃない」

「は、ぁ」


 いまいち状況が掴めないわたしの目の前で、戸は閉められた。


「人気店、てことかな……?」


 まあ、当然と言えば当然か。食事はどれも美味しかったし、店内の雰囲気も良かった。眞人さんもクロくんも見惚れてしまうくらいのイケメンさんだ。女性客が多くてしかるべきだろう。

 しばらく店の前で中の気配を窺っていたわたしだったが、新しいお客だと思われる女性たちに「ちょっとどいてもらえませんか?」と押しのけられたのをきっかけに、その場を離れた。クロくんに言われた通り、裏に回る。


「失礼しまーす」


 玄関から入り、店舗の方へ回る。ノックをしてドアを開けると、美味しそうな香りがそこを満たしていた。


「あの、お疲れ様です」


 気配を消せと言われたので、小声で声をかける。コンロの前に立っていた眞人さんが振り返った。


「ああ、お帰り」

「あ……。ただいま、です」

「眞人! 海老しんじょ二つ追加! あ」


 入ってきたクロくんが、わたしに気が付く。ペコリと頭を下げると、「眞人の邪魔になるから、さっさと消えろよ」と言い残して店の方へと戻って行った。


「はいはい、かしこまりっと。ごめんな、いまちょっと忙しくってさ。裏方頼んでるバアちゃんがぎっくり腰で休んじゃって」


 言いながら、眞人さんは手際よく料理を仕上げていく。わたしが見ている間に、海老と貝柱の天ぷらが揚がった。小鍋に入っていた海老しんじょが綺麗に盛りつけられていく。


「忙しそうですね」

「ああ、そうなんだ」


 厨房内を見回すと、洗い場に食器が随分溜まっていた。


「あの、わたし、洗い場お手伝いします」

「え?」

「学生時代飲食店でバイトしてましたし、お皿洗いくらいできます」


 見れば食洗機もあるし、わたしでもどうにかなりそうだ。


「いいですか?」

 

 訊くと、眞人さんは「助かる」と息をついた。

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