捨てられた女、それはわたし【3】

 しかし。


「ここ、どこ?」


 当てもなくふらふらと彷徨っていたせいで、よく知らない街まで来ていたらしい。

 どこをどう歩けば望む店につくのか、見当もつかない。

 土地勘のないまま手ごろなお店を探してみたものの、ついには寂れかけた商店街に出てしまった。

 クリスマスムードが無い代わりに、活気もない。シャッターが下りた店ばかりが並んでいた。


「どうしよ」


 お腹はぐるぐると鳴り続けるし、止まない雪のせいで体の熱が奪われ、ガタガタと震える。指先にはもう感覚がない。さながら、遭難した気分だ。


「戻るしか、ないかな」


 腕時計に目を落とす。もう二十三時に差し掛かろうとしていた。二十四時間営業のお店なんて、途中にあったかな。分かんない。

 ああ、なんて最悪なクリスマス。凍死、なんて言葉がそろそろと忍び寄ってきている気がする。

 絶望感が襲ってきて、「ううー」と唸り声を上げた、そのときだった。

 泣きすぎて鼻づまりを起こしていた鼻腔に、奇跡的に温かな香りが侵入してきた。

 これは、美味しそうなお出汁の匂い!


「どこから⁉」


 きょろきょろと辺りを見回す。視線のずっと先、シャッターの道の向こうに、灯りが見えた。

 まだやっているお店があるかも!

 引手を握る手に最後の力を籠め、わたしは駆け出すようにして光に向かった。

 だんだん近づいてくると、紺色の暖簾がみえた。白い字で『小料理』と書いているのが分かる。やった、飲食店だ!

 と、お店の引き戸がガラリと開き、中から誰かがのそりと現れた。背の高いがっしりした男性のようだ。そのひとは、暖簾に手をかけた。

 も、もしかして店じまい⁉


「ま、待って下さいぃぃ!」


 思わず叫ぶと、暖簾を下ろしたその男性がびくりとした。こちらを振り返る。

 紬の作務衣に、真っ白の前掛け。料理人だろうか。それはとっても好都合!


「な、なにか食べさせて下さいぃぃ!」


 ああもう、このリヤカー邪魔! だけどこれわたしの全財産だし、放っていけない!

 そしてピンヒール、すっごく走りにくい! めちゃくちゃ足痛い! だけど!

 必死でガラガラとリヤカーを引き、店の前まで駆けた。暖簾を手に茫然としている男性の服の裾を掴む。


「な、なんだ?」

「お、お願いです。ごはん、食べさせてください!」


 店の中から零れる灯りに照らされた、男性の顔を見た。

 そのひとは、ひどくかっこいい顔をしていた。切れ長の瞳は深い黒をしていて、すっと通った鼻梁はなだらかに高い。形のいい唇に、少しの無精ひげ。それらが精悍さとセクシーさを同居させるような最高のバランスで収まっていた。

 わたしが正常だったら、見とれていたかもしれない。本来だったら目を奪われてしまうほど、彼はわたしの好みに合致する素敵な顔立ちをしている。

 だけど、いまのわたしはどうしようもない空腹感に支配されていて、それどころではなかった。


「お、お金なら払います。だからお願いします。おかゆでも雑炊でもなんでもいいんで、あったかいものを食べさせてください! お腹空いてるし、寒いし、死にそうなんです!」


 男性は目を瞠って、わたしを見下ろした。それは怒っているようにも見えるきつい眼差しで、普段のわたしだったら怯えてしまうかもしれない。が、先にも言った通りそんな状態ではない。

 これを逃したら死んでしまうんじゃないかという思いでいっぱいのわたしは、必死で言葉を重ねた。


「住むところがなくなって、今夜行くところもないんです! お腹空いて、このままじゃ凍えて死んじゃうんです! だからお願いします。ご飯だけでも食べさせてください!」


 涙と鼻水で、顔はぐしゃぐしゃ。雪を充分浴びたお蔭でアフロな髪はちりちりウェーブになっていることだろう。

 そんな女がこんな風に泣いて縋っているのは、思えば酷く恐怖なことだろう。拒否されて当然だし、警察を呼ばれてもおかしくなかったかもしれない。わたしはもっと冷静にお願いするべきだった。

 だけど彼は、わたしに言った。


「ちょっと、待ってろ」

「え?」

「見ての通り、店じまいなんだ。大したモンは作れねえけど、食わせてやる。その前に」


 暖簾を抱えた彼は、そう言って店の中に入って行った。すぐに、大きなビニール袋を何枚も持って戻ってくる。


「とりあえず、荷物にはこれを掛けとけ」


 積もった雪を払い、ビニール袋を掛けてくれた彼がわたしを見た。


「ほら、中に入れよ。寒いんだろ?」


 大きな手が店内を指し示す。

それに従うように店内に目をやれば、さっき香ってきたお出汁の匂いが再び鼻腔を擽った。深く息を吸って、温かな香りで肺を満たすと、お腹がぐるぐると鳴った。その音は彼の耳にも届いたらしく、彼は「ぶは」と吹き出した。


「すげえ飢えてんな。ほら、来いよ」

「は、はい!」


 助かった。安堵の涙が一筋流れたのを手の甲で拭って、わたしは示されるままに店内に入った。

 温かな空気で満たされたそこはこじんまりとしていて、どこか安心できる雰囲気を持っていた。古い建物らしいけれど、古臭さはない。丁寧に手入れされているのだろうと思う。


「ほら、ここ」

「あ、はい」


 きょろきょろと見まわしていると、男性が椅子を引いて座るよう促した。懐かしさを覚えるダルマストーブの前だ。寒さでかじかんでいたわたしは、素直にそこに腰かける。ストーブにはヤカンが乗せられていた。しゅんしゅんと音を立てるヤカンの口からは湯気が上っている。


「あったかい……」


 じんじんと痺れる手を翳し、ほう、とため息をつく。


「コート、脱いで椅子に掛けとけよ」


 厨房の方へ姿を消した彼から声がかかる。肩口に手を置くとコートはぐっしょりと濡れそぼっていた。うわ、こんなに濡れてたんだ。のたのたとコートを脱いで、手近な椅子に掛ける。すぐにストーブの前に戻り、再び手を翳した。

 熱がゆっくりと体をほぐしてくれる。ちらちらと揺れる炎が、心を穏やかにさせてくれる。舞う炎をぼんやりと眺めていると、美味しそうな匂いが漂ってきた。顔を厨房の方へ向けると、トレイを抱えた男性が現れた。


「できたぞ」

「ありがと、ございます」


 テーブルの上に、ほこほこと湯気を立てる丼が置かれた。うどんの上に艶のあるとろとろの卵が乗っており、かまぼこと三つ葉がちょこんと乗っている。すっと息を吸うと美味しい香りで肺が満たされた。


「ほああ。匂いだけで美味しい」

「それじゃ腹は満たされねえだろ。食えよ」


 ため息をつくわたしを見て、男の人が苦笑する。


「はい! いただきます!」


 待ちわびていたお腹が鳴いた。


「……は、あ。美味しい」

「そりゃ、よかった」


 卵の上にはとろりとした餡が掛けられていて、それが麺と絡み合う。卵の下には小海老の天ぷらが隠れていて、おだしを吸った衣は口の中でふわふわと溶けた。

 お腹の中からじんわりと温かくなっていく。夢中で食べていると、丼の中にぽたりと雫が落ちた。次いで、ぽたぽた、と雫が落ちる。


「う……」


 食べながら、わたしは泣いていた。

 もう、何の涙か分からない。色々なものがないまぜになっているのだろう。

 涙を拭い、鼻を啜りながら、わたしは黙々とうどんを食べた。

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