二〇一九年八月三日土曜日

 〇

 今日は待ちに待った市井野花火の当日だった。

 待ち合わせの一時間も早くに四阿に訪れると、やはり誰もいなかった。

 白日の下の池は、連日の大雨を貯め込んでいたはずだというのに、底を干上がらせてしまっていた。そこらに生えている草本は、初めて彼女に会ったときよりも格段に成長していて、その上を羽虫の群れが慌ただしく舞っているのだった。

 あたりを一望し終わり、特にするようなこともなくなると、居てもたってもいられなくなってスマホを開いた。すると散々に見飽きたメールが届いていたのだった。

 

『二〇一九年八月三日土曜日 by:Unified-One.

 Subject:Your password will expire soon.

 市井野工業高等専門学校総合情報処理センターよりお知らせします。

 高専共通システムに登録されているパスワードの有効期限が近づいています。あと一日です。パスワードを変更してください。

 有効期限が切れた場合、ログインが出来なくなります。


 パスワードの変更は、市井野高専認証サーバ

 https://douyathsy.itiino-ct.ac.jp\iumus/にて行ってください。』


 どうやら、今日が有効期限の最後らしかった。また弾き返されてしまうかもしれないが、ログインが出来なくなると思うと、そんなことは気にしていられなかった。

 成功を願いながら、パスワード変更画面に飛ぼうとしたとき、突然後ろから小さく、呼ばうのが耳に入った。

「シュウくん!」

 振り向くと、彼女はやや遠くのブナ道を覚束ない足取りで駆けていた。それから、九十九に折れた階段を下って、こちらへと小走りで向かってきた。彼女は向日葵の刷られた手拭いで、汗の滲んだ額を叩いている。

 その頼りない歩武を見せられて、思わず私は彼女の下へと駆けつけていた。しかし近づいた理由はそれだけではない。

 それは、常の彼女とは一風違えた風采にある。

 彼女は常日頃下ろしている亜麻色の髪を緩く捻り、シニヨンをつくっていた。左耳のうしろから覗くシニヨンの下、纏めきれずにこぼれた数本の髪が、うなじに張り付いていた。

 着付けられた浴衣は白色を基調とし、そこには散りばめられた朱鷺色の笹の上を金魚が泳いでいた。それを黄色の飾り紐がついた、赤い帯で締め上げているのだった。浴衣の裾では、赤い鼻緒が挿げられた黒捌きの芳町に、小ぶりな素足が乗っていた。曲げた右腕には、麻柄で紅白色の巾着袋が提げられ、その先の袖口からは、湿った手首が白く照っているのだった。

 じっくりと彼女の浴衣姿を拝んでいると、彼女は苦笑しながら自分の装束をちらと見て、

「どう、かな」

 と弾んだ息まじりに訊いてきた。今時、彼女の視点は、私よりも少しばかり高い。

 私はこの眩しさに、たった少しも頭があがらなくなってしまった。

「……君は本当に人間なのかね」

 すると彼女は、

「あ、え……似合わない、かな。やっぱり普段通り、ワンピースで来たほうが良かったのかな……」

 彼女は俯き気味に視線を落とすと、軽くよろめいて、小橋にカランと下駄を鳴らした。

「人間離れしているほどに、美しい」

 するとこちらをちらと見て、あんぐり開いた口から必死になにか言い出そうとして、しかし引き結ぶと、黙り込んでしまった。

「どうしたのかね」

 問うと、彼女は右下へと視線を投げながら、はあ、と大仰な溜息を吐いて、

「私は怒っていますよ」

 と上目に物言うのだった。

「何故かね」

「そうやって私をからかってばっかり。それで私が怒らないとでも思っているんですか」

 そう言って、彼女は人差し指で私の腹を小突いて来た。あ、駄目っ、擽ったい、お腹弱いのおっ!

「わっ、悪かった! ……ただ、君の端麗さを見ると、つい綻んだ部分を見てみたくなってしまってね」

「そうやって、褒めれば簡単に私が篭絡出来るとでも思ってるんですか」

 恥ずかし気に逸らした視線を、追うように私は屈む。

「強ち間違いではないと、自負しているよ」

「調子に乗って……! もう良いです、早くお祭りに行きますよ。ここにいるとシュウくんは生意気な口ばかりきくんですから!」

「仰せの通りに」


 〇

 祭り会場へと到着したころ、腕時計は五時を指していた。まだまだ斜陽は傾き切らずに、焦がすような痛みを放射しながら、花火大会を前に浮足立つ人々をもどかしくさせていた。そんな活況の中で、彼女は未だ拗ねていた。

「……つーん」

「山葵でも食べたのかね。コーラを飲むと良いらしい。買って来ようかね」

「怒りますよ」

「困りますよお」

 などとふざけながら、はぐれてはいけないと、手を取ってみる。彼女はひとたび驚いた様子だったが、すぐに握り返してくれた。

 いつもはガラガラの大通りを、今日ばかりは満員電車のような人ごみで、のろまに歩む。市の報告によると、今年度は市民人口の約四倍になると見込まれているらしい。

 このぐずぐずとした進行度合いが、弥が上にも彼女のことを考えさせる。

 そして俄然、緊張してきた。手汗は気になっていないだろうか、におったりはしていないだろうか、前髪は変になっていないだろうか……、などときりのない心配事があふれてやまないのだった。

 すると、彼女は遠くを指さした。

「あの、私ポッポ焼きが食べたいです」

「いいね。行こうか」

 左手で人波を割って、その隙を掻い潜っていく。嫌そうな顔を浮かべたり、怒鳴り散らしてくる人たちを無視して進む。激しく身体を揺さぶられるたび、彼女の手が幾度と抜け落ちてしまいそうになる。それを手綱のようにひしと握り込むのだった。


 目的の屋台に辿り着いたころ、まるで死地を脱したかのような疲れに、膝を笑わせていた。対して彼女はじんわりと汗が浮き出ているものの、至って疲れている様子もなく、こちらに笑みを投げかけて来た。

「いやあ、屋台でものを買うにも一苦労ですね」

 私は無理矢理に笑んでみせ、背筋をそり返らせるように立ち上がると、屋台のおやじに、

「すまない、十五本頼めるかね」

「あいよう! 五百円な」

 私が財布から五百円玉を出そうとしたときに、ふいに横から彼女の手が割り込んできた。彼女へと目を向けると、腹が立つぐらいの得意満面で、巾着から封筒を取り出してみせた。それをひっくり返して数度振ると、てのひらに五百円玉が落ちた。

「ここは私が払うよっ」

 この好意? のようなものを受け取らなければ、彼女はただいきり散しただけになってしまうから、と変な気遣いで、私は手掌を合わせて謝辞を述べた。

「おっ、ねえちゃんデートかい。羨ましいねえ。俺なんてクソ怖い嫁に『働け、働け』って乗馬鞭で叩かれて……これが意外と悪くねえんだ……それでこうしてクソ暑い中、労働なんだぜ……ほら、三本おまけ」

「ポッポ焼きって昔から鞭で叩かれながら作るんですね、不思議!」

「アンタこんな可愛い子になんてこと言ってるんだい!」

「ははは、……結ちゃん、行こうかね」


 〇

 大通りから少し外れた路地裏に、小さな腰掛を見つけた。そこに二人で座り込んで、ポッポ焼きを頬張っていた。ここは西日が入り込んでこないから、既に夜のような暗がりだった。その上、あの人ごみから抜けて来たばかりに、酷く静まり返ったような気がして、互いに言葉に詰まっているのだった。

 口を開けようとして、しかし硬く結んでしまうことを繰り返していると、消え入りそうな声で、あの、と彼女は呼びかけてきた。

「これ。返しておこうかなあと」

 そう言って、彼女は巾着から一枚の封筒を取り出した。

「な、なにかね。それは」

「これは……シュウくんに借りていたお金です。昔、お祭りで、『財布を忘れてきた』と嘘を吐いて、色々買わせてしまいましたから」

「気にすることはない。私はそのことを知らなければ、結ちゃんのような尤物へ貢ぐことに生きる喜びすら感じる」

「ふふふ。……いいえ駄目です、受け取りなさい」

 そう言って、見つめられると、やはり私は逆らえなかった。本当に、頭が上がらない。

 彼女は、その、『わたあめ』と油性ペンで書き込まれた封筒を手渡してきた。「これは、わたあめのぶんです」と。

 それを続けるたびに、封筒は山積みになっていた。……一体どれだけ食べたのかね。

「そして……最後は、これです」

 彼女が手渡してきたのは、『プレゼント』と書かれたものだった。気になって開けてみると、小さな鍵が滑り落ちてきた。

「それは、教室前の貴方のロッカーにつけた南京錠の鍵です。月曜日になったら開けてくださいね」

「ふむ。……良く侵入出来たね」

「あの校舎ってだいぶセキュリティ緩いじゃないですか」

「……否めない」

 彼女から受け取った大量の封筒を手提げにしまいながら、今度はこちらから一つ、和紙で包装されたものを取り出した。

 中身のなくなった巾着を逆さにぱたぱた振りながら、彼女はきょとんと首を傾けて問うてきた。

「それは、なんですか」

「嘘は良くないね。知っている筈だ。だからこそ、今日君はこれの類をつけていなかった」

 手渡すと、まるで小さな子供が、「中身はおもちゃだよ」とプレゼントを貰ったときのような、幸せそうな顔で、丁寧に包装を解いていく。果たして、中から出て来たのは、大小二輪の白百合があしらわれた髪飾りだった。

「わあっ、綺麗……!」

「ああ。結ちゃんに似合うと思って買ってきたのだよ」

 私は、彼女が眺めてばかりいる髪飾りを取り上げ、シニヨンの斜め上に添えた。

「至極華麗だ」

「ありがとうございます。ずっと、……死ぬまで、大事にしますね」

「う、うむ。それは購買者冥利に尽きる」

 彼女は目を潤ませて喜んでいた。……普段からもっとプレゼントすべきだろうね。

 

 自分の気の利かなさが酷く恥ずかしかった。



 〇

 再び大通りに出たときも、自然と手を繋いで練り歩いていた。私は彼女から貰った封筒の中身を全て使い切ろうとたくさんの屋台に向かった。たこ焼きに、お好み焼き、かき氷、トルコアイス、ケバブ、りんご飴、ポテト……。実に彼女は良く食べるのだった。

「君が食べたものは異次元にでも繋がっているのかね……」

「え、美味しいじゃないですか!」

 若干訊いていることとそぐうような答えを出した彼女は、至って楽しそうにラムネを傾けた。カラカラと窪みに嵌るビー玉は、彼女の瞳を前にするとくすんでしまうようだった。


 〇

 私たちは結瀬山大橋ゆいせやまおおはしの袂にある有料席に来ていた。驚くことに、空いているには空いているが、料金はなんと三万円のカップル席を買っていたらしい。といっても、所詮簡素な腰掛に座布団が二つ置いてあるだけに過ぎないのだった。

 そこに座してから、ふと、仰いでみた。きっと斜陽は半分以上も海に浸かってしまっているのだろう。西の空は仄かに朱色交じりであったが、大きく広がった紫色の雲を境に、残りをすべて深い紺色に呈していた。

 続いて川を見やる。信濃川はほぼ真っ黒くみえたが、その水面に映える橋の灯が、時折抜ける暖風に崩れ、川を煌めかせた。


『まもなく、市井野大花火大会、打ち上げ開始でございます』


「……懐かしいなあ」

「そうだね。昨年ぶりだ」

「はあ……。どうすれば、その憎まれ口は治りますか」

「ふむ。これは一生ものだからね」

「……」

「不服かね」

「いえ。……ただ、」

 彼女は私のワイシャツの裾を、ぎゅっと引いて、押し黙る。――すると、私の背にひしと身を寄せて、


「そういう憎まれ口は、存外悪くないなあって……思います」


 と、顔を埋めてしまうのだった。



 〇

「ゆ、結ちゃん」

「なんれふか」

「花火、上がっているがね」

「ほうれふね」

「見なくていいのかね」

「……いいです。しばらくはまともに顔向けできないです……」

「はは。そうかね。じゃあ、ちょうど、私も顔向け出来なくなるようなことを言えるね」

 前方で鳴き叫ぶ花火が、これから言うことを掻き消してしまえば一安心なのかもしれない。しかし、ふとあの言葉が蘇ってくる。


 ――花火大会の日にその人とはもう二度と会えなくなる。


 幾度と反芻したことだろうか。他人のふとした言葉だとか、自己啓発本だとかそういった類のものに影響されやすい私は、このような一大事でさえも他人に縋ろうとしてしまう。

 それでも、最後の、大事なことだけは、自分の言葉、自分の行動だけで通したいと、拳を握り込み、地に足を踏み込み、歯を食いしばって、そして、花火に負けないだけの声量で。


「南雲結。私は、人のことをこんなにも愛おしいと思えたのは、君が初めてだ」


 そうして、席から立ち上がり、彼女の前に片膝をつけ、右手を差し出す。彼女のヘーゼル色の虹彩には、多彩な花火が映り、あるとき、金色が瞬いた。その眩しさに、ひとたび深く瞼を閉じた。そして、慌てて開けると、――彼女の瞳は、確と私を、東雲秀一だけを、映し出しているようにみえたのだった。

「ずっと、私と一緒に居てくれないだろうか」

 すると彼女は、破顔して。

「もう……私のことは結ちゃんと呼んでくださいと、そう言ったじゃないですか。……まあ、でも、最低で鈍感で間抜けさんのシュウくんが、想いを伝えてくれるのをずっと待っていたんです。だから……」

 彼女は両の手で、差し出された手を掴むと、途端ぐいと引き寄せて、抱きしめてきたのだった。しばし逡巡する様子をみせ、決意したように、私を見上げると、

「私を笑わせてください。八年前、なにもなかったんだって、忘れられるぐらい、今日のうちに笑い飛ばさせてください。……私は、私は、」

 落ち着かずに端へ端へと引き寄せられる視線は。

 首を傾げて、遂に私の目を射抜く。

 そのあどけない微笑みに魅せられて。

 風のように、その言葉は、彼女の魅惑を乗せてやって来る。

 

「――私は、あともう四時間ぐらいで消えてしまいますから」


 しかしその魅惑の虜になる前に、その言葉を考えてしまった。

 ……君が、あと四時間で消える?

「私の犯した罪を贖うには、そのぐらいの危機感を持たなければならないのかね」などと、お道化てみせようとしたが――彼女のぬくもりと柔らかさに、私は口を塞がれてしまうのだった。


 ◇

 東雲は両の指を絡めながら、しかし視線を芝へと注いでいた。花火は、音と草むらへの色の映り込み具合だけでしか判断ができなかった。

 彼は、酷く頭を悩ませていた。本当に、彼女は消えてしまうのだろうか。そうだとしたら、なぜだ。と。

 東雲はなにか言葉を紡いでいないと酷く怖くなって、話しかけようとしたとき、南雲は通りかかった売り子からビールを二本買い取った。

「おい、私たちはまだ未……」

「……大丈夫です。二十五歳の飲酒が大丈夫だとして、二十四歳も大丈夫だと仮定したとき、二十三歳も大丈夫だから、全ての自然数歳において飲酒は大丈夫なんですよ」

「結ちゃんもなかなかの屁理屈屋だね。その阿呆みたいな帰納法気に入ったよ」

 東雲は手渡された缶ビールのプルタブを開けると、エタノールの刺激臭に顔を顰めた。実験室で嗅いだことのあるものを飲むなんて、到底快いものではなかったが、すっと一口流し込むと、変な苦みの後で、罪悪感が背中を快感として駆け抜けた。胃に落ちてからは、噎せ返る酒臭さに悶絶するばかりだった。将来酒など飲みたくないね……。とアッシーにでもなる気でいた。

 数分経って、脳にアルコールが回ってしまうと、ふいに微睡に放り込まれたような、軽い心持ちとなった。視界が白んでしまうのだった。

 すると隣で、酔いでじっとりと濡れた目に花火を映した南雲が、奇怪なことを言い出した。


「私はねえ……、パスワードなんだあ。高専共通パスワード」


「は」

 東雲の酔いは途端に覚めた。いやいやいや。なぜ君が高専共通パスワードなのかね。と呆れていた。

「酔っているからといって、そのような冗談は厳しいのだがね」

「冗談じゃあ、ないよう」

 そう言って、ぐらりぐらりと身体を揺らしながら、こちらへと倒れ込んできた。彼女を膝に寝かせてやると、ふふふ、と至って楽し気に語るのだった。

「昔ねえ、シュウくんと同じパスワードにしていた人がいたのお」

「そんな馬鹿な」

「いやいやあ、『abcd1234』って、酷すぎませんかあ。まあ、それが私なんですけどお」

 と南雲はまたにっこりとした笑みを浮かべる。

 ……なぜ私のパスワードを知っている?

 きっと偶然だろう。馬鹿話に付き合わされているのだと、東雲は穏やかに酔っ払いを馬鹿にしていた。

「だからあ」

 しかし彼女は急に真剣な面持ちをするものだから、不安が募りだした。

「――だからあ、……私、今日消えちゃうんだあ」

「話が急展開過ぎるのだがね……。まあ、すまない。埋め合わせは必ず、果たそう」

「ふふふ。……やったあ」

 すると彼女は急に、東雲の腰に触れてきた。

「な、なにをしているのかね……!」

「なにってえ……ほら、これえ。この、硬いのを――」

「キャ――ッ」

 ごそごそとポケットに手を入れると、目当てのものを取り出した。

「ほらあ、……スマホ。これで、パスワードの変更画面、開いてねえ」

「は、はい」

 東雲はスマホを受け取り、あたら好機を逃してしまったとも、安堵ともいえぬ溜息を吐きながら、言われるがままにパスワードの変更画面を出した。

 すると彼女はスマホを取り上げ、ぽちぽち入力し始めた。その作業中に、ふと愚痴のようなものを吐露するのだった。

「私、結構傷ついていたんだよお? シュウくんがパスワードを間違えるたびにい。……間違えるとなぜか、エッチな四桁の数字を入れることにも」

「は。あ、え! なぜバレているのかね!」

「言ったでしょお。私パスワードだってえ」

「訊いていることと違う気がするのだがね!」

 まあまあ、と宥められながら、東雲はスマホを受け取った。するとそこには、現在のパスワードという項目欄に、確かに『abcd1234』と打ち込まれていた。

 ……きっとブラウザの記憶機能かなにかだろう。

 彼女は目を伏せて言う。

「私、パスワードの世界から遊びに来たんだあ。有効期限が二十五日を切ると、こっちの世界に来れる権利がもらえるんだよお。勤労感謝みたいなあ? まあ、お祭りごとの類は一切ないんだけど、あっちは三食寝床付きで、待遇が手厚いし、わざわざ丸腰を条件にこっちに来るようなことはしないんだけどねえ。――だけど、」

 彼女は口端を弧につり上げて、

「私は、こっちの世界に来てみたかったんだあ」

 そう言って、東雲の手を取る。驚くほどに熱い掌を、彼は握り込んだ。

「でも、最悪だったなあ。言葉はあっちの世界で勉強したから大丈夫だったけどお、お金が無いとなんにもできないんだもん。食べ物も買えないし。まあ、結果的に三日間しかこっちにいられなかったんだけどねえ。それで、駅の待合室にずっといたら、警察に連れていかれそうになって。そこに置き忘れられたぼろぼろの傘を持って、逃げたんだ。ずっと、ずっと遠くに。警察に見つからないような場所に。――そしたら、泣いている男の子に出会った」

「それが……私なのかね」

 彼女は小さく首肯した。

「その男の子は泣いていてねえ。お気に入りのカードが破れちゃったって、私に見せて来たんだ。わけがわかんなかったけど、初めて自分と同じ悲しんでいる人が居て、私も一緒に泣いちゃった。それで、好きな食べ物はなんだとか、好きな色はなんだとか、変なことばかり話したら、すっかり夜になってた。そのときに私は、その男の子を花火大会に誘った。そうしたら、頷いてくれた。けど、帰る場所があったみたいで、いなくなっちゃったんだよねえ」

 しみじみ、一言一言を噛み締めるように語る。

「次の日は、まあ、前に言った通りに、お祭りに行って、今日行っただけの屋台で男の子に奢らせた。それで、……手を、繋いで、花火を見たの。すごく、綺麗だった。そのとき、男の子は、なんて言ったと思う?」

「花火より、君の方が綺麗だね。とでも言ったのかい? その生意気な少年は」

 君のことなのに。と彼女は苦笑した。

「男の子はね、花火じゃなくて、私のほうを見て、綺麗って、言ってくれたの。ふふ。男の子のほうがうまいこと言ってるね。……それから、男の子は、私に伝えたいことがあるって言ったの」

「それは?」

 彼女はゆっくりと起き上がる。続いて、よっと芝の上に立つと、儚げな表情を花火が縁取った。そして彼女は白百合の髪飾りを揺らして言う。

「結ちゃんのことが……。って言ってる最中に、その子のお父さんが来ちゃって、聞きそびれちゃった。それで、たくさんの人にもみくちゃにされて、二度と男の子とは会わなかった」

「君はこちらの世界に来て、その少年を探さなかったのかね」

「八年前のちょうど今日、その人はパスワードの変更手続きをしちゃったんだあ」

「変更するとどうなるのかね」

「あっちの世界で普通に生活するしかないんだあ。だから、もう二度と、シュウくんに、会うことが出来ないんだあって、泣きまくったなあ……」

 そう言って、また彼女は力なく微笑むのだった。

 ……だとして、それが信じられるわけがないだろう。

「嘘はやめないかね」

「嘘じゃないよお。……ていうか嘘吐きのシュウくんに言われてもなあ」

「私は嘘吐きだが、君はもっと純粋な人間だ。だから、嘘なんて吐かないでくれ……」

 そう言うと、彼女はあっけらかんとした顔でゆっくりと俯き、「……じゃあ」とか細い声を溢すのだった。


 ――言うだけ言っておいて何ですが、今のは、全部、嘘。嘘です。酔いにやられた悪い冗談話。だから、



「ずっと、一緒に居ましょうね」


 と、ただ強く、固く口端を結う。

 彼女の取り繕おうとする切なげな笑顔こそ、その嘘が嘘であることを示しているようで、彼はただ恐ろしかった。

 ……だが、大丈夫だ。打開策はある。

「ああ、ずっと、一緒だ。……だがもし結ちゃんが、『高専共通パスワードのabcd1234』であるとすれば、また『高専共通パスワードのabcd1234』として蘇らせればいい話だろう」

「もう関係ない話ですが、一応。……それ、出来ないんです。画面の下を、よく見てください」

 そして、それを見ると、東雲は確かな苛立ちを覚えた。

「記号を入れなければならないのかね」


「わかりましたか。その方法は無理です。……ですが、まあ、ほら、その……大丈夫ですよ。そんなのは、そんなのは……」


 言葉を続けようとして、しかし言いよどむ。身を知る雨を燦々と降らせて、唇を噛み締め、握りこぶしを震わせながら、それでも笑ってみせる彼女に、また、彼の虚言癖は蠢く。


「……そんなのは、嘘でしかないのだからね」



 〇

「シュウくん」

「なにかね」

「愛しています」

「私もだよ。……いや、それ以上に、かもしれないね」

「いえいえ、そういうことでなら、私の圧勝ですよ」

「……ほう。ならば私の好きなところ、十個言えるかね」

「ごめんなさい、無理です」

「そ、そうか……」


「十個では収まりませんから。多すぎて、無理です」


「いつから君はそんなからかうようなことを言う、悪い女になったのかね」

「自分の胸に手を当てたらどうですか……」

「ふむ。心拍が酷く早いようだ」

「……どきどき、しちゃってるんですか」

「馬鹿を抜かすな。単なる運動不足だがね」

「素直じゃないんですから。……ふふ」

「――ほら、花火が終わってしまうよ」


 それにこたえるように、ひゅうと花火は笛を鳴らして上ると、割れた。


 黄金の燃焼は球に拡散し、私たちの腹に轟音を伝えると、枝垂れ、煌めいて、紺にゆっくりと溶け込んでいく。


 そんな優美さは、酷く胸を締め付けるようだった。



 〇

 夜空に懸かる光の残滓を指さして、やれ紅色だからストロンチウムだ、緑色だから銅だなどと、天体観測のようなことをしていると、すぐにプログラムは終了してしまった。

 花火が終わると、大勢が喝采を博し、一部の者はアンコールを叫んでいた。うるせえ、アルコールぶちまけてやろうか。

「……行くかね」

「そうですね」

「はて、どこへ行くかね」

「では、やはりあそこですかね」

「そうだね」

 大勢が帰宅をしようと、駅方面に足並み揃えて進む。のそのそとしか進めないでいると、考えないでいようとしていたことがふつふつと沸いてきて、焦燥感に苛まれる。

「たくさんの人ですね……」

「……」

「シュウくん?」

「……結ちゃん。走れるかね」

「あ、え、まあ、貧弱なシュウくんに比べれば」

「結構だ。――では、行くかね」

 私は彼女の手を確固と掴んで、一心不乱に前へと駆けた。

 人にぶつかろうと関係ない。女も、子供も、老体も、関係ない。

 ただ私には彼女さえ居ればいい。

 たとえ世間から咎められようとも。

 たとえこの姿をネットに晒されようとも。

 私は一向に構わない。

 なにが、嘘吐きのシュウくんだ。

 君だって、一端の嘘吐きではないか。


 ――君は、本当にあと少しで消えてしまうのだろう?



 〇

 人ごみを抜けてからも走り続け、静謐とした駅を通り抜けてバスターミナルに向かおうとする私たちを、バスの運転手は喚くように引き留めた。

「あ、お客さん! 東口のバスに乗るのかい!」

「ああ、そうだがね」

「すまないねえ、人身事故があったとかで、しばらくは動かねえんだ。ったく、よりによって忙しい時によお……!」

 中越交通は、毎年市井野大花火大会の日になるとバスの運行本数を増やしていた。それだけの大人数がバスを利用し、多くの売り上げが見込まれているときに起きた人身事故というのは、迷惑極まりないのだろう。

 それに、はた迷惑極まりない。このような急いでいるときにバスが止まるなんて……!

「くそっ! 結ちゃん、タクシーを借りよう!」

「でもシュウくんお金あるの。私もう無いよ……」

 私も髪飾りを買ったときに殆どを使い果たしていたので、タクシーなど呼べるわけがなかった。

「もう、走るしかないのか……!」

「待ちな!」

「なにかね」


「――これ、持ってきな。バスが出せねえのは、うちの会社の不始末だ。市営のバス会社が客を運べねえなんて、こんなん忸怩の他にねえ! ほら、早く行け! 急いでんだろう!」

 と、私の胸へと乱暴に一万円札を押し付ける。

「忝い!」

「ありがとうございます!」

「そんかわり、またご利用頼むぜ」



 階段を、たたっと下り、タクシー乗り場に着くと、大量のタクシーが列を成していた。

 先頭のタクシーの車窓をノックすると、物憂げな表情をしながら、車窓を開けた。

「失礼、高専の裏手にある結瀬山公園まで頼めるかね」

「すみません……警察から、人身事故による待機を命じられていて、車出せないんですよ……」

「事故現場から外れた道を使えばいいだろう!」

「無理言わないでくださいよ……」

「私からもお願いします! ……今ならもれなく約四・三倍の額を出せますけど?」

 運転手は、彼女の懇願するような目に射抜かれて。

「……ああもう! ご乗車ください!」

 彼女はニヒルな笑みを向けてきた。


 ◇

 ある二人の男女はやって来た。

 市井野高専の裏手にある四阿は、その柱の一本に括りつけられた白熱灯が明滅するのみである。その四阿の周りで、数匹のウスタビガはとまっていた。山吹色の四つ羽についた褐色の四つ目で、静かに二人を見つめていた。しかし今の男には、それは自分たちを薄ら笑っているようにも見えるのだった。

 二人はコの字に折れた腰掛の真ん中に、寄り添って腰を下ろした。

「いやあ、あれだけ急いだのに、もう十一時ですね……」

「そうだね。……しかし、あれ、詐欺じゃないか。確かに大通りを通っていけばおおよそ四・三倍だが、実際は二倍程度。君の将来が心配だ」

「よ、よくそんなこと言えますね! 私にお金が残っていないことを知りながらタクシーに乗ろうとか提案するあたりも大概ですよ」

「焦っていたのだからしょうがないだろう?」

「じゃあ私もしょうがないですね?」

「君はやはり可愛げがなくなってしまったね」

「ふふ。大人になったんですよ」

 女はウスタビガの四つ目のどれかを見つめて、苦笑する。

「ふふ。知っていますか? 山繭は成虫になると、口が退化して無くなってしまう。栄養分は、幼虫のころに蓄えたものだけなので、寿命がとても短いんですよ?」

 まるで、


「私のようですね」


「……笑えないね、はは」

「笑っているじゃないですか」

「いいや、ちっとも……笑えていないよ」

 男は俯いて、

「最後に……いや、今日、最後に一つ、訊いてもいいかね」

「ええ」

「嘘を吐くことは、悪いことだと思うかね」

「……一概に言えません」

「なら、『好きな人』に嘘を吐くことは、悪いことだと思うかね」

「そうですね、あまり良いことだとは言えません。ですが――」

 彼女は男の頬に手を添えて。


「貴方はその人が好きだということに、一度も嘘を吐いていませんよ」



 〇

『点呼に遅れてしまうから、上手くやり過ごしてくれないかね。お土産にりんご飴がある』という連絡をしたころには、とっくに点呼が終わってしまっていたのだが、同室者は上手くやり過ごしてくれていたのでりんご飴はここで開けた。

 しかし会話をすると、極端に時間が早く過ぎ去ってしまうような気がして、二人して静かにりんご飴をなめ溶かすことしか出来ずにいるのだった。



 一切と喋ることなく、彼女の拳ほどもあるりんご飴を食べきってしまうころ。

 彼女はひとつ訊いていた。

「……今は、何時ですか」

「あと……五分で、零時だよ」

 私は、左隣に置いたスマホを見て、改めて時が止まらないものかと思うと、泣いてしまいそうだった。すると忽然として、秒針が傾くのを耳元で聞かされているような錯覚に陥り、心拍がそれを越えると、息が荒立ち、視界がひん曲がり、身体に力が入らなくなった。

「シュウくん!」

「もう駄目だ……。私は、結ちゃんが居ないと、駄目だ……」

「大丈夫ですよ。……あれは、貴方が嘘だと示してくれたじゃないですか」

 だから、


「大丈夫ですよ」


 ただひたすらに彼女の慈しむような微笑みは、私が抵抗しようとする気概さえなくさせた。

 私はシニヨンを解いて、指で梳いてやり、その亜麻糸のような髪を流す。華奢な肩や背を抱きながら、鈍く照る唇に口付ける。彼女の口端から漏れる吐息をも口に含ませ、それを名残惜しく、噛み締めた。


 ◇

 二〇一九年八月三日土曜日・午後十一時五十九分に、差し掛かった。

 

「今は、こうさせてくれ。そうじゃないと、きっと私は気が狂ってしまう」

 東雲は、彼女が拉げてしまいそうなのを気にも留めず、ただ強く、抱いた。

 すると首だけをこちらに向けて、彼女は囁きかけてきた。

「……私、今とても幸せです。初恋の人にこうやって愛してもらって」

「はは、私はしつこく愛するよ? これぐらいで満足してもらっては困るね」

 そうお道化てみせながら、彼はふと左を見やる。

「……そうだ、パスワードを変えなければいけなかった。はは、これをやらないと、今後ログインが出来なくなってしまうらしい」

「あら、それは大変ですね。どうぞ、変えてやってください」

「ああ。だがね――」

 少しばかり背を反らして、彼女の麗しい顔を眺める。……これを幾度と見たことだろう。百面相のように、情緒にころころと変わる表情は、常に彼を楽しませた。

 そんな彼女が、心なしか白んで見える。きっと月のせいだと、切に願った。しかし丸い月は、雲ひとつ懸かっていないというのに、暗いのだった。

 ……なあ、月よ。彼女をもっと照らさないかね。こんなにもぼやけてしまっているではないか。今こそ、一番の正念場なのだよ?

「――私は最愛の女がいながら、高専共通パスワードなどというものに恋をした、最低の奇人らしい。ここでまたひとつ、最低だとは思うのだが、このパスワードに供養の言葉をあげてもいいかね」

「ええ、どうぞ」

 

 ――私は、『高専共通パスワードabcd1234』を愛しているよ。と。


 そう言って、『確定』を押した。

 

 

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