第33話 あの頃のあなたはもういない

 司の言葉の意味を上手く飲み込むことができず、口を開けたまま呆けたように私は立ちつくしていた。

 そんな私を司は、居た堪れないような表情で見つめている。

 今、司は……なんて言った?

 婚約者……? 婚約者って、どういうこと……?

 だって、北斗は私と結婚して……。あ、でも私とは籍を入れたわけじゃないから正式な夫婦ではないはず。

 じゃあ、北斗の婚約者って……?


「明莉……」

「……ご、ごめん。ちょっと……よく、わかんないや……。えっと……あの……北斗に婚約者がいたって……」

「――正式には、北斗の婚約者というより……記憶を失う前の北斗が婚約していた人、だ」

「記憶を失う前の……」

「……会ってみるか?」


 司の言葉に、躊躇うことなく私は頷いていた。

 そんな私に司は「そう言うと思った」と言って……寂しそうに笑う。


「あ……ごめん」

「なんで謝るんだよ」

「だって、私……」

「しょうがねえよ。……それじゃあ、行くか」

「……うん」


 司に連れられるようにして、私は港へと向かった。

 会いたい、早く会いたい。

 でも、会うのが怖い。

 婚約者と一緒ということは、もしかしなくても記憶が戻ったということだろうか。じゃあ、私のことは……?

 太一の言っていた北斗が呼びかけに反応しなかったことを聞いた時、私の中で一つの仮説が思い浮かんでいた。

 それは――北斗が北斗と呼ばれていた間のことを、忘れているんじゃないかということ。

 でも、それならばここに戻ってくるわけがない。たまたま、偶然、観光で? そんなこと、有り得るのだろうか。


 いろんな考えが頭の中をぐるぐると回るうちに、気が付けば私たちは港へと着いていた。

 そこには――いなくなる前と変わらない姿の、北斗が立っていた。


「っ……ほく、と……」


 私の声が聞こえたのか、北斗がこちらを向いた。


「北斗……!」


 無意識だった。気が付けば私は、隣にいた司を置いて北斗の元へと駆けだしていた。

 先程まで考えていたいろいろなんて全部飛んでしまっていた。

 北斗がいる。北斗だ。本物の北斗だ。

 会いたくて、会いたくて仕方がなかった。

 あの日から、ずっとずっと会いたかった。

 生きていてくれるだけでいいなんて嘘。本当はそばにいて欲しかった。抱きしめて私の名前を呼んでほしかった。

 ずっとずっと北斗のことを求めていた。


「あの……えっと……」


 でも北斗は――見知らぬ他人を見るように私を見た後、戸惑ったように大貫さんの方を向いた。

 大貫さんは私に小さく首を振ると、北斗に言った。


「……この子は明莉ちゃんだ。君がこの島にいたときに明莉ちゃんと、あと明莉ちゃんのおじいちゃんが君のことを世話してくれていたんだ」

「そうなんですね」


 北斗の表情がパッと明るくなった。

 まるで――不審者だと思った人間が、かつての友人だったのがわかったかのように……。


「はじめまして、大村おおむら碧生あおいです。以前お世話になったそうですが、覚えてなくて……。すみません」

「大村……碧生、さん……」

「はい」


 そして――。


「碧生」

「あ、そうだね。こっちが婚約者の楓香ふうかです」


 可愛らしい女性だった。

 楓香と呼ばれた女性は、北斗――碧生さんの隣に寄り添うと、ニッコリと笑う。


「楓香です。碧生が大変お世話になったとのこと、ありがとうございました」


 この人が、北斗の……。


「碧生」

「ん?」


 北斗と同じ顔で、北斗と同じ声で、碧生さんは――楓香さんに微笑みかける。

 やめて……!

 喉まで声が出かかった。

 その人は、碧生さんじゃない。北斗なの! 私の、私が愛した人なの!

 そう叫びたかった。でも……。


「ずっと、心配していたんです。ちょっとした喧嘩が原因で、碧生が行方不明になってしまって」


 目を伏せて、目尻に涙を浮かべながら、楓香さんは言った。

 そんな楓香さんの肩を、碧生さんが抱き寄せる。


「ある日、突然帰ってきたときは驚きました。でも、いなくなっていた期間どこにいたのか全く思い出せないと言って……。無事に戻ってきただけでもよかったと思おう。そう思っていたんです。でも……っ……」


 涙で言葉に詰まった楓香さんから引き取るように、碧生さんは口を開いた。


「以前働いていた職場に復職して、生活を取り戻し始めた頃、一人の少年に会ったんです。その少年は、僕のことを「北斗」と呼びました」

「あ……」

「最初は何のことか分かりませんでした。でも、数日前、何気なく見上げた夜空に浮かぶ星を見て……断片的ではあるけれど、記憶を失っていた間のことを思いだしたんです」

「星……って……」

「え?」

「何の星だったか、わかりますか……?」

「――その時はわからなかったんです。でも、あとから調べてわかりました。北斗七星。……あの少年が、僕を呼んだ名前と同じ名を持つ星たち」


 思い出して、くれた。

 あの日、一緒に見た星を見て、この島のことを思い出してくれた……。


「でも、それだけなんです」

「それだけって……」

「この島にいたということは思い出したのですが、あなたのことも今こうやって集まってくれている方たちのことも、全く思い出せないんです。すみません……」


 申し訳なさそうに、碧生さんは頭を下げた。


「本当はもっと早くお礼を言いに来るべきところを、今更になってしまった上に、さらにほとんどのことを思い出せないままだなんて、申し訳ないです」

「……謝らないでください」


 絞り出すように言った私の言葉に、ホッとした表情を浮かべて、碧生さんは小さく微笑んだ。

 そんな碧生さんの腕を、楓香さんが引っ張った。


「この人、最初は一人で行くって言ってたんですよ。信じられます?」

「こら、楓香」

「本当のことでしょ? 数日前に突然、明日ちょっと行ってくるとか言い出して。でも……もしまた帰って来なかったらと思うと不安で……。私の休みが取れる日まで待ってもらったんです」

「そう、なん……ですか……」


 楓香さんの言葉に、胸がチリチリとする。

 そんな彼女から目を逸らしたくて……私は、司の手を取った。


「そろそろ行こう?」

「……いいのか?」

「うん……。もう、これ以上は――」


 ここにいたくない。

 他の人に優しく微笑みかける北斗を見たくない。

 違う名前で呼ばれていたとしても、記憶がなかったとしても、あの人は、私にとっては北斗だから……。


「すみません、そうしたら俺らはこれで」

「わかった。彼らにはうちの離れに泊まってもらうよ」

「大貫さんちに?」

「ああ。それから……明日には帰るそうだ」

「え……」

「だから、何かあるなら今夜中に」


 大貫さんはそう言うと、碧生さんと楓香さんに島を案内すると言って車を取りに戻った。

 私は二人に頭を下げると、その場から逃げ出すように立ち去った。

 そんな私の隣を、何か言いたそうな表情で司が無言のまま歩いていた。



 私は、無言のまま足早に司の家に向かって歩く。


「おい」


 立ち止まったら、もう歩き出せなくなりそうで。

 そのままあの場所へ、あの頃へ戻ってしまいそうで。


「おい!」


 なのに、司はそんな私の腕を掴むと、容赦なく立ち止まらせる。


「なによ!」

「聞こえているなら、止まれよ!」

「聞こえているよ! でも! でも……!」

「……悪い」


 涙声になってしまった私に気付くと、司は手を離して……小さな声で謝った。

 私もごめん、そう言いたいのに、口から出てくるのは言葉になりそこなった掠れた吐息だけ。


「……大丈夫か?」

「っ……だい、じょうぶ」

「そうか……。なあ、明莉」

「なに……」

「話、しなくてよかったのか?」


 司は、後ろを振り返る。

 もう碧生さんたちの姿は見えない。見えるわけない。

 随分と歩いてきたのだから。


「……話なら、さっきしたじゃない」

「そうじゃなくて、ちゃんと北斗と――碧生さんと二人で話をした方がいいんじゃないか?」


 司はそう言うけれど、いったい何を話せというのだろうか。だって、北斗は、碧生さんは私のことなんてこれっぽっちも覚えていないというのに。実はこの島にいた頃、私たち婚姻届も書いて事実婚してたんですよーなんて……言われた方も迷惑だし、なんなら頭がおかしいやつじゃないかと思われさえしそうで。

 そうじゃなくても……私は、私はもう決めたんだ。

 司と、結婚すると。

 だから今更、北斗と――碧生さんと話をしても仕方がない。

 今から司の家に向かう。もう……後戻りはできないのだ。


「ううん、いいの。……もう、いいの」

「そうかよ……」


 それ以上、司が何かを言うことはなかった。

 私たちは重い足取りを引きずるように、司のご両親の待つ家への道のりを歩き始めた。

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