7-8
切り傷擦り傷を腕に手のひらに無数に作りながら美空は岩壁を登り切った。登った先は『神の泉』で、見上げた先には隙間を貪欲に埋めようとする木々の枝葉があるばかりだ。
へたりこむ美空へ省吾は僅かに笑ってみせた。
「よく登ったね。少し休もう。あんまり長くは無理だけど」
省吾はそこで言葉を切る。荷物からシリアルバーを取り出して、美空へと渡してきた。
巻くような音を立て風が梢を揺らして過ぎる。登ってきたその足元では穏やかな波が岩壁を叩く。泉は生き物の気配もないままただ静かに湖面を揺らし、そこここで名前も知らない無数の虫が己の生を営んでいる。
車の音などどこにもない。喧騒などここにはない。ただ木々が揺れ、草が萌え、水が揺蕩い、風が合間で游んでいる。
「これから」
省吾の手の中で包装紙がくしゃりと音を立てた。耳障りなビニールの甲高い音があたりに響く。
「やることは二つある」
省吾は丁寧にそれを荷物へしまっていく。
「一つ目は、東京へ状況を知らせること。船がどんなものか、乗員数、島に来た目的、目的をどこまで達したか。東京に伝われば、自衛隊か、海上保安庁か、きっと上手いことやってくれる」
美空は頷く。そのための機器は省吾の荷物に入っている。
「二つ目は、島人の避難。危険だと思ったら……安全だと確認できるまで、島人を一番安全な場所に誘導する」
「安全な」
「神殿から最も遠い場所。海岸だ」
美空は頷く。脳裏をよぎるのは爆弾を使ったあのゲームだ。爆発させてはいけない。爆発する可能性があるのなら、壁の向こう、爆風の届かないところ。
「まずはフカミちゃんか島長を探す。状況がわからないし、島人の誘導が必要としても誰かの助けが要る。見つかったら美空ちゃんは二人といて欲しい」
「私、」
「多分一番それが安全だと思うんだ」
美空は上目遣いで省吾を見る。省吾が気にした様子はなくて、美空は渋々頷いた。
「お兄ちゃんは」
「俺は船の様子を探る。で。できそうなら裕太郎と合流する」
省吾は荷物を背負い直す。小型機の中に積まれていた新戸が用意したと思しき登山用リュックの中には、一眼レフやらなんやら美空にも省吾にも扱えない機器が詰め込まれている。早く押し付けたい。苦笑の中で目はどこか苦しげで。――美空だって、心配じゃないわけじゃない。
美空は頷く。小型無線機と水と携帯食を入れただけの荷物を背負う。泉の脇、畑へ上がる踏み分け道を省吾に続いてよじ登る。
畑には人の気配が全くなかった。島人はもちろん、船で乗り込んだかも知れない、島人手はなさそうな人影もない。食事の時間だろうとは省吾の言葉だ。
畑の脇の踏みならされた小道を行く。島人に見つかるのは仕方がないと開き直って、速度を取る。幸いなのか計算通りというべきか、農舎の前まで人に見られることはなかった。
農舎まで来て省吾は息を弾ませ足を止めた。話す代わりに美空は見上げる。ぜぇはぁと声の代わりに荒い息が口をつく。
「けもの道があるんだ」
省吾見上げるのは山としか思えない林だった。少し離れれば木々の向こうに集会場の二階部分を見ることができた。
「向こうの集会場の横と裏、子供舎の裏と、農場を結ぶ道なんだ」
食事が終われば仕事に戻って来るだろう。姿を見られないに越したことはない。ちょっと虫が多いけど。言いおいて省吾は繁みの隙間に灌木をかき分け入っていく。美空は幾度か瞬きを繰り返し、聞こえてきた人の声に急かされるように従った。
省吾の背中を追っていく。枝葉が腕にあたり顔に当たる。柔らかい足元は力を入れると滑ってしまう。幾度か滑り省吾の荷物にすがり付き僅かに滑りにくい場所があると気づいた頃、省吾の荷物に衝突した。
「君は」
「え、あれ、えと」
人がいたのか。声変り前の少年の声。――聞き覚えがある気がする。
「ショウゴくん、か」
「あ、あー! ホシンのにーちゃん!?」
「え、ショウゴくん?」
「フカ……じゃねぇ、ミソラ!」
美空は省吾の脇から前方を覗き見る。見る度に身長は伸びるが幼さの抜けきらない顔が目を丸くして、省吾と美空とを往復する。
「え、なんで、船きてないよね!?」
「それは長くなるから後で。俺たちはフカミちゃんに呼ばれてきた。フカミちゃんが何処にいるかわかるかい?」
ショウゴは一瞬呆けたように目を見開く。顔を歪ませて首を大きく横に振った。
「見てない。多分、昨日の夜も。だから、様子を見に行こうと」
「様子? 何処に? フカミちゃんは集会場だよね」
もう一度ショウゴは大きく首を振った。幾度も瞬く。今にも泣き出しそうになる。
「今は農舎なんだ。しまお……ミツばあちゃんとシノ先生と医療棟に閉じ込めるのはかわいそーだから、農舎にって。あいつずっと笑ってなくって、でもちゃんと飯食ってて。なのに昨日の夜には見なくって。農舎の連中はカタセが来て、その後けもの道の方に走っていって、それから見てないって」
島には珍しいコンクリートの建物、集会場はもう木々の合間からも見えた。フカミからの連絡は昨日の昼前だった。不自然に切れた通話は一体どこからのものだったのか。
「島長……ミツさんは医療棟なんだね?」
省吾の声音は慎重なもので、噛みしめるようにゆっくりだった。
ショウゴは大きく頷いた。
「多分。最初に連れて行かれて以来、誰も会ってない。見張りがいて会わせてもらえない。先生にも」
先生とは島医者、シガラキのことだ。
シガラキはそもそもが医療棟を住まいとしているとどこかで聞いた。つまり、都合の悪い人を集めて軟禁しているということか。
「なら、美空ちゃん。俺たちは医療棟だ」
「フカミは」
ショウゴの言葉は美空よりも早かった。
省吾はけもの道を上り始める。ショウゴは省吾の後を追う。美空は慌ててさらに後を。
「最後にいたのは集会場のあたりのはずだ。あの端末は子機で、親機は機械室なんだ。せいぜい電波は屋上辺りまでしか届かない。集会場には今外国人たちがいる……そうだろう? なら、フカミちゃんは捕まっている可能性もある」
「なんで!?」
「さて。神殿が開いただけでは足りないのか、別の理由か。フカミちゃんは管理者だからね」
ショウゴは省吾を押しのける。先頭に立ち振り返った。泣きそうだった顔は睨みつけるようなものに変わっていた。
「おれが見張りを引きつける」
何を。省吾が問返そうとする前に、小柄な体を機敏に動かしショウゴは走り出している。急斜面を一息で超えて集会場の目の前で再び繁みに突っ込んでいく。
「美空ちゃん、なるべく頑張って」
「う、うん」
慌てて省吾は後を追う。美空は完全においていかれながらも僅かな間隙を懸命に漕ぐ。
ようやく省吾の背に追いつくと、木々の隙間から見える場所で『騒ぎ』は既に始まっていた。
「行こうよ、でっかい鳥だぜ!」
ショウゴの甲高い声がする。ショウゴが腕を引くのは細い体の特徴的な顔付きの青年だ。青年はショウゴの手を振り払おうともがいている。言葉にならない声が漏れる。
きゃぁと歓声が聞こえてみれば、子供たちがバタバタとそれに向かっていく。食堂の前、子供舎のほど近く。鳥、とか、大きい、とか。舌足らずな単語を辛うじて聞き取ることができた。
子供たちはショウゴの手足に纏いつく。青年に触れて振払われ、きゃぁと再び歓声を上げる。青年の表情の乏しい顔はそれでもどこか焦っているように美空には見えた。
そして、少し離れてそれを見ているどこか見慣れない男の姿にふと気づいた。
浅黒い肌、大柄ではないがしっかりした二の腕を日の下に曝している。腰の辺りに大振りのナイフらしき柄が見え、島ではおよそ見ることのないビーチサンダルをつっかけている。
男はショウゴを、子供たちを、カタセを迷惑そうに眺めている。
声にならない叫びが聞こえ、子供たちの悲鳴とも歓声ともつかない声がにぎやかに上がった。カタセが大きく腕を振り出して、ショウゴはたまらず手を離した。
「なにやってるの、あんたたち! そこのあんたも、見てるんじゃなく止めなさいよ!」
食堂から女性が顔を出す。男を指差し、カタセを指差す。男は思い切り鼻の横に皺を作った。
「行こう、美空ちゃん」
省吾が道へと飛び出していく。美空は頷く間もなく従った。
騒ぎを聞きつけた賄い担当はショウゴを叱り、カタセを離す。男へ矢継ぎ早に文句を言い、男は圧されたように肩を竦める。
カタセは既に我関せずと医療棟へと歩き出す。カタセが扉を閉めるその瞬間、省吾は扉に手をかけた。
省吾が滑り込み、美空が続く。扉を静かにきっちり締める。
漏れ聞こえる子供たちの大騒ぎは、海岸の方に移動していったようだった。
カタセは振り向くことなく奥の方へと向かっていく。
「何かあったの?」
カタセに変わって奥から顔をのぞかせたのは穏やかな顔の島医者で。省吾を見て、美空を見て、表情を引き締める。息を大きく吐き出した。
「シガ兄」
「ソダさんに連絡がついたんだね?」
省吾は頷く。美空も大きく頷いた。
シガラキもまた頷いた。
「ミツさんたちは『下の扉』を開けることを拒否して医療棟に閉じ込められた。その後、ミツさんは足を怪我して今はあまり動けない。シノさんは昨日の夜、連れて行かれて戻ってこない」
シガラキはODKの船が帰ってからの出来事を伏し目がちに静かに語る。そして省吾と美空を強く見つめた。
「僕は何をすればいい?」
扉を音を立てないようにそっと開ける。美空は開いた扉をそっと支えた。足音を忍ばせた省吾は、男の背後でそれを構える。大きくゆっくり息を吸う。緊張は見ているだけの美空にすら伝わってくる。男が扉にふと気が付く。美空と目が合い息飲む瞬間、省吾はそれを押し当てた。
男の太い声が短く漏れ。たっぷり五秒を数えたあとで省吾は深く息を吐き出した。男は静かに崩折れていく。
省吾はスタンガンを目の前に翳している。スイッチが押されたままの先端からバチバチと走る火花が美空からでも見て取れた。
シガラキが慌てて男に駆け寄る。首筋に手を当て、安堵とわかる息を吐いた。
「脈は正常だよ」
「しばらくは気絶している……と思う」
説明書の通りであれば。
省吾も美空もスタンガンの扱いなど知らなかった。新戸の用意した荷物の中に入っていて、説明書にただ従った。――命に別状がないなら、良しとする。
省吾とはそこで別れた。省吾は東京へ一報すると様子を見つつ新戸を探しに海岸へと坂を降りていく。
人々の避難はシガラキが請け負った。美空はそれに着いていくよう指示された。
男を避けて美空はシガラキの後を追う。
人々を安全と思われる場所へ退避させる。自衛隊だか海上保安庁だか、船が来るまでそこで待つ。――けれど、それだけでいいのだろうか。
目立たないようにと借りたシノの服は風が通り落ち着かない。フカミに似せて乱雑に結い上げた髪の後れ毛が頬のあたりをくすぐり続ける。
温度の上昇はシガラキ達も把握していた。食堂の冷蔵庫は使えない状態が続いている。常にはひやりとしているはずの堂の扉は触り続けることができないほどに熱くなっているらしい。掃除を受け持つカタセのパニックを宥めることが最近の日課なのだとシガラキは苦笑する。
子供舎の前を過る。シガラキは舎母を捕まえおそらく避難を説明している。子供たちは美空へ纏いつく。手を引き太腿の辺りを叩き、見上げてそして首を傾げる。フカミじゃないのか。問いかけるように。
こどもの扱いなど美空は知らない。ひとりひとりの頭を撫でる。擽ったそうに身をよじり、声を上げて離れて行く。屈託のない笑顔が眩しい。
子供たちを海岸へ下ろす。危険だから。万一の際に。万一の際、とは。
美空は広く高い空を見上げる。剥き出しの腕に風を感じる。子供たちの歓声を、木々を渡る風の詩を。島を感じる。大好きな島を。
集会場から出てきた島の女性の、執拗な視線に、気づいた。
「あんた、ミソラだね」
ヨツバ。名前が浮かんだ。シノの妹。自身の娘を幼くして亡くし、外国人を呼び込んだ。叔母。
思わず身を固くした美空へ、ヨツバはふっと自嘲するような笑みを向けた。
「もう一度死にに来たのかい?」
死にに――違う。
シノは扉を開けることを拒否したという。フカミは集会場付近で姿を消した。神殿は開き、温度が上がった。――神殿と呼ばれる保管庫は密閉に近い状態なのではないだろうか。フカミが消えてシノが呼ばれていったなら、フカミは人質にされたとも考えられる。
このまま温度が上がり続けたら。危険で、非難が必要で。
浮かんでくるのはいくつも何度も見た画像、映像。
――私は爆発を止めたいのだ。
美空は女性へ足を向ける。子供たちの手は追うこともなく離れていく。
すっきりした頬と筋肉質のすらりと伸びた肢体でありつつ、どこかシノと似通った瞳を美空は見上げた。
「ヨツバさん、私を神殿へ連れてって」
大きく目が見開かれ。
「あんたが何を考えてるのか知らないけど」
挑戦的な笑みに変わった。
「棺桶に足をつっこもうってのなら喜んで案内してあげる」
ヨツバに腕を取られて歩き出す。シガラキが悲鳴のように美空を呼ぶ。腕を掴む手に力が入って、美空はヨツバの横顔を見上げる。
なぜそんな辛そうに笑うのだろう。
問えるはずもないまま、程なく二人は集会場の入り口に立つ。
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