3. 分岐点

「いってらっしゃい」

「予定日が過ぎたけど大丈夫か?」

「お医者さんはもういつ産まれてもおかしくないって言っていたけど、まだ余りお腹も張らないし」

 見送る妻の少し明るさの戻った顔を見て、彼は「いってきます」と答え、マンションのドアを出た。鍵を掛ける音がしたのを確認して、階下へと降りる。

「あれなら大丈夫だな」

 小さく安堵の息をつく。去年の十二月、彼等夫婦は事故で小学二年生の息子を失った。彼も勿論ショックだったが、妻は特に息子がお母さん子だったのもあって、身ごもっていた二人目の子を早産し掛けるほどショックを受けていた。

 産院を退院してから、彼の両親や彼女の両親が再三勧めたにも関わらず、里帰りを拒否し、予定日間近だというのに、ふらふらと事故現場や小学校、息子の遊び場を回っては泣いていた彼女が最近ようやく落ち着いてきた。

『直樹がね、側にいて私と赤ちゃんを見守っていてくれている気がするの』

 悲しみの余りに少しおかしくなったのかとも思ったが、彼も近頃亡くなった息子の気配を家の中に感じることがあった。

 気のせいでも良い。それが出産の心の支えになるのなら……。

「直樹、お母さんと妹を頼むぞ」

 彼は朝の光の中に呟いて、駅へと向かっていった。



 うらうらとした冬の柔らかな日差しが差し込む家で、朝から大きなお腹で、こまこまと家事をしていた直樹の母が疲れたのか横になる。

 しばらくして聞こえてきた小さな寝息に、姿を消して、気付かれないように窓の外にいたシオンは、中に入りカーテンを閉めた。

『まだ、赤ちゃん、産まれてこないのかな?』

 直樹が母の側に座って、お腹を撫でている。

『二人目でも遅れることはよくあるらしいから。ボクが視た感じ、お腹の中の赤ちゃんの身体と魂がしっかりくっついてきているから、もう少しだと思うよ』

 押入から毛布を出して掛け、自分が仕掛けた術がしっかり効いているか、確認を始める。

 あの日、直樹の父が戻るまで、今のように穏形の術を使って家の側にいたシオンは、その後、迎えにきた法稔に直樹を渡し、皐月家に帰った。すると、法稔の話を聞いて、班員と優香が彼の帰りを待ち受けていたのだ。

『私はいっそ、直樹くんの気配を漂わせた方が、お母さんの心も落ち着くし、外に出なくなって良いと思うの。そうすれば邪霊も狙いにくくなるし』

 エルゼは自分の作成した術式から、シオンにも扱える母胎保護と精神安定の術を教えてくれた。

『これを家の四隅に張って、術を掛けておくんじゃ。一度仕掛ければ、一日一回、魔力を補充すれば、シオンがいなくても効力の続く結界術じゃからの』

 玄庵げんあんの結界術と御札に

『出産間近の妊婦さんを見張るなら、いざというときの為に読んでおいたほうが良いと思うんだ』

 アッシュが本屋で買ってきたマタニティ雑誌。

『私、真奈まなちゃんのお母さんに、妊婦さんの陣痛が始まったらどうしたら良いか聞いてきた』

 産気づいたときにやるべきことを箇条書きに書いた優香のメモ。

 居間のテーブルにずらりと並べられたそれらに、シオンは『ありがとう』と皆に頭を下げるしかなかった。

『もう……皆、お節介なんだから』

 シオンの照れながらの愚痴に法稔は笑って、香奈芽と真里も気に掛けていることを教えてくれた。

『皆、シオンのことを大事に思っているんだ。ここは素直に皆の好意に甘えておけよ』



『シャインもさ、戦えなくなったときに、周りの皆に助けて貰ったんだ』

 直樹がふむふむと腕を組んで頷く。

 直樹は五人一チームで魔族の破壊から、この世界を守る破防班の話が気に入ったらしい。初めて聞いたときは

『すげっー!! 戦隊ヒーローみたいだぁ!!』

 はしゃいでいた。

『そのシャインは、どうやってまた戦えるようになったの?』

 気になって聞いてみる。直樹は待ってました! とばかりに身振り手振りを加えて教えてくれた。

『シャインは結局、元のようには変身出来なくなってしまったんだ。でも、周りの皆の助けに勇気がわいて、前とは違った新しい変身が出来るようになったんだよ!!』

『新しい……』

 それは多分、新フォームを出すという販促に合わせた展開だろうが、シオンはその言葉に皆の心使いを受け取った後、モウンに言われたことを思い出した。

『お前の恐怖は、多かれ少なかれ兵士が一度は通る道だ。それを通らなかった者はほんの一握りの非常に幸運な者を覗き、ほとんどが戦場で命を落とす。今、お前は次に進むべき分岐点に立っているのだ』

 乗り越え、兵士として生きるか、それとも心折れて兵士をやめるかの分かれ道に。

『どちらを選んでも俺も班員も、お前の後見人のアルベルト様もお前を責めたりはしない。お前が自分自身で決めることだ』

『……班長もそうだったのですか?』

『ああ、俺もアッシュも玄庵もエルゼも通った。アルベルト様も『水の王』として、水の一族を背負う責任者として通られただろう』

 結果、アル様はベッドから離れられない身体になった……。

 それでも、忠誠を誓う主が『水の王』として体調の良いときは精力的に領主の仕事をこなしていたことを思い浮かべる。

『……母ちゃん』

 直樹が眠っている母の隣に寝転がり、母の胸に顔を埋める。

 日溜まりに眠る三人の親子。

 進みたい方向は決まっている。だから……。

 シオンは拳を握りしめた。



 直樹の母の出産予定日から四日後の夕、迎えに逝った魂を冥界へと運ぼうとしていた法稔のスマホが鳴った。

「……そうか、解った。すぐそちらに行く」

 墨染めの衣の袖からスマホを出して口早に答えると、彼はお玉を振り返った。

「シオンからの連絡です。直樹くんのお母さんが産気づいたようです。既にお母さん自身がタクシーを呼んで産院に向かいました」

「解ったよ。こっちはあたしに任せて、いってやりな」

「はい」

 袈裟を翻して、丸い体躯の人間の少年に化けた法稔が冬の闇に消える。

「何事もなく産まれてくれれば良いけど……」

 お玉が顔を向けた東の空から赤みの掛かった満月が上がってきた。



 ライトアップした産院の看板だけが光る屋上に、茶髪の少年と半透明の男の子がうろうろと彷徨っている。その脇に丸い顔の少年が空から現れた。

「ポン太!」

『ポン太兄ちゃん!』

「法稔だ」

 二人に訂正して、法稔は尋ねた。

「お母さんの様子は?」

「さっき陣痛室に移った。やっぱり二人目だと経過が早いみたいだ」

「そうか……」

 うろうろに法稔も加わる。

「お父さんは?」

「陣痛の合間にお母さんが連絡を入れていた。仕事が終わったらすぐ駆けつけるって」

「そうか……」

 うろうろ、うろうろ、三人で暗い屋上の上を歩き回る。

「母ちゃん……」

「ドラマなんかでは見てたけど、本当にあんなに痛い思いをするんだね……」

「そうか……」

 シオンには弟と妹、法稔には妹がいるが、それは二人がまだ幼いときだったので、しっかり意識して出産に立ち会うのは初めてだ。

「母ちゃんも赤ちゃんも大丈夫かな?」

「ボクの視た目には赤ちゃんの魂はしっかり身体に結びついていたけど……」

「それでも出産は命がけだからな」

 出産で亡くなった女性を冥界に送ったこともある死神少年は、そわそわと空を見上げた。満月が東の空をゆっくり昇ってゆく。

 このとき、まだ経験の浅い二人は母親と赤ん坊を気にする余り、失念していた。今、『忌み子』は術の天才、玄武げんぶ族の元長老の結界の外にいること。そして、これが『忌み子』を狙う者達にとって最後のチャンスであることを。

 ズン……!!

 突然、産院を冷たい魔気が包む。

「えっ!?」

 自分と同じ水の魔族の波長に、シオンが瞳を生来の色、赤紫色に変え、周囲を見回す。

「しまったっ!!」

 法稔が数珠を懐から出すと

「オン!!」

 とっさに気合いで産院の周囲に結界を張った。

「兄ちゃん達!!」

 格段に低くなった気温、濃い青黒い闇に直樹が声を上げる。

「忌々しい冥界の者め……」

 結界の周りにいくつもの邪霊が現れる。産院の前庭に水柱が立ち、半人半鮫の鮫男が強い魔気と共に現れた。

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