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「この前ね、お母さんが倒れたらしいの。たまたま友達の前だったそうだからよかったけど、一人暮らしだとこれから心配でしょ」


 未来を浴室に放り込んだ後、姉が言った。


「やっちもたまには顔出しなよ」


「なんで」


「なんでって家族でしょうに」


「家族? うちのアレが?」


「面倒くさいなあ。じゃあ、親子でもいいけど。お母さんたちももう若くないの。いやな話だけどこれから介護とかお葬式とかそういうことも考えなきゃいけないんだから」


「前に葬式はいらないって言ってただろ。本人たちが」


「そうは言っても、なかったら寂しいでしょ」


「寂しがる本人が不在なのに何を気にするんだ」僕は言った。「だいたいどうやって弔うのさ。いまさら仏教式もないだろうに」


「なんか、前にも増してとっつきにくくなった気がする。何かあった?」


「自分がとんでもない酒乱だと分かった」


「飲んだの?」


「飲まされた」


「よく分からないけど、大変だったみたいね」姉は考え込むようにして言った。「だからどろんてしたわけ?」


「まあね。もう、サトウキビは懲り懲りってわけ」


「健一さんからあの話を聞いたの?」


「うん」


「言っておくけど、アレ半分くらい嘘よ。あの人の鉄板ネタみたいね。店の客にもよく話してるみたいだけど、あの人の出身、本当は姫路だし。芸人をやってたのは本当だけど家出とかサトウキビのくだりは全部嘘」


「え」


 僕は驚いてしまった。その反応を見て、姉が噴き出す。


「なんでそんな嘘をつくの」


「あの人、おしゃべりなくせにシャイだから。本当のことは話したくないんでしょ。だから芸人なんて目指したのよ。あいにくと話はうまくても笑いの方はてんでダメだったみたいだけど」


 僕はあの日、義兄がその「鉄板ネタ」を話しているときの顔を思い出す。自分の故郷について話す彼はとても懐かしげで、また芸人時代について語るときは含羞さえ滲ませていた。とても嘘をついている人間の顔とは思えなかった。たいした役者だ。彼の言葉に背中を押されて遁走を決め込んだ自分がとんだ間抜けに思えてくる。


「お母さん、出たー」


「はいはい」


 姉は立ち上がり、浴室へと向かった。間もなくしてドライヤーの音が聞こえてくる。姉がまだ湿った髪の未来を連れて戻ってきた。


「買い物、途中だったの。ちょっと行って来るから、未来のこと見てもらっていい?」

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