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 倉庫には自転車で出勤している。その自転車はいま古本屋の前に停めてあった。前かごにはスーパーの袋が入っている。自転車の錠に鍵を差し込んだとき、ふと思った。宮下らはこの自転車がいつも倉庫の駐輪場に止まっているものと同じだと気づいただろうか。無個性なママチャリだから気にも留めなかった可能性は高い。けれど、必死に気配を殺していた自分が馬鹿らしくならなかったと言えば嘘になる。ため息が白い靄となって暗闇の中に浮かんだ。


 僕は自宅に向けて自転車を漕ぎ出した。時間は七時を少し回ったところで、春が近づくにつれて徐々に日が長くなってきてるもののこの時間には真っ暗になってしまう。足で前輪のライトにスイッチを入れようとするがうまくいかない。何度かキックを繰り返してようやく前方が明るくなった。電池式のライトならばもっと簡単なのだろう。けれど、そのお金で買える本のことを思うとどうしても躊躇してしまう。男一人暮らしだから、バイトの収入でも生活にゆとりがないわけではないけれど、フリーターなんてちゃらんぽらんな身の振り方をしているとどうしてもはっきりと目に見える安心がほしくなる。結局、夜道を走るたび的外れなキックを繰り返す生活が僕には似合いなのだ。


 アパートは寂れた商店街の外れに位置していた。はじめてこの通りを訪れたとき、まず気づいたのは鉢植えの多さだった。また、庭のある家はどこも椿だの松だのを植えていて、とにかく緑が多い。雑多な花の交じり合った匂いを感じながら、よくもまあ世話をする暇があるものだと感心したものだけれど、住みはじめてからすぐにその訳に気づいた。老人が多いのだ。


 若い世帯もないわけではないけれど、そういう家にもだいたい一人は長老と呼べるような存在がいる。すでに一線を退いた彼らの中に身をうずめて生活していると、僕もなんだか余生を送っているような気分になる。もちろん、そんなのは錯覚だ。僕は日中からのんびり鉢植えの世話をしている彼らと違って、毎朝早くから自転車をこいで文房具倉庫に向かわなければならない。そんなことは分かっているけれど、いまごろキャンパスライフを謳歌しているであろう大半の同級生たちを尻目に朝から勤労に出かける自分の身を思うと、成熟より先に老いがやって来たような気がしてならないのだ。


 自転車のスピードを緩めつつそんな愚にもつかないことを考えていると、アパートの大家である倉田老人が自宅の庭で煙草を吸っているのに気づいた。暗闇の中、煙草に灯った火が蛍のようにさびしい光を放っている。同居している息子夫婦が揃って禁煙家のため、中で吸わせてもらえないのだ。真冬だというのに、ニコチンを求めて寒空の下に立つ倉田老人の姿を僕は幾度となく見かけている。


「おお、高垣君か。おかえり」


 そのまま通り過ぎようという算段は、倉田老人が僕に気づいたことでご破算になった。


「はい」


「はい、と来たもんだ。おかえりといわれたらただいまと言うもんだぞ、え?」


「はあ」


「覇気がないなあ」倉田老人は言った。「まあいい。お勤めご苦労さんだったな。しかし春が待ち遠しいな。夜風に凍えながら紫煙を吐き出すわびしさと言ったらないからな」


 夜風に凍えながら、老人の話を聞かされる僕の境遇も相当にわびしいと思うのだけれど、倉田老人はそんなことは気にも留めないらしい。けっきょく、煙草の箱を空にするまで息子夫婦の愚痴を聞かされた。


「まったく、孫も作らず何が息子だ。ああ、そうそう、部屋は何も問題はないかね?」


「ええ」


「そうか、ならいい。引き止めて悪かった。こんなつまらない老人の相手はこの辺にして部屋でゆっくり休むといい」


「言われなくても」という言葉を飲み込んで僕はその場を辞し、アパートの駐輪場に自転車を止め、郵便受けをチェックしてから二階に上がった。

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