1999年3月4日

 オランダ国境を越えてすぐに一人の男が社内販売を始めた。

 しかし誰一人雑誌から顔すら上げようとせず、痩せた色白の男の声を無視した。やがてこちらにまわってきたその男は、何やらつぶやくと錠剤のようなものを置いていった。クロスワードパズルを埋めていた初老が顔をあげ、腕に注射器を突き立てる仕草で警告してくれた。

 薄々そうではないかと思っていたが、まるでキーホルダーでも売りつけるかのような気軽さに戦慄を覚えた。男は戻ってくると、テーブルの上に置きっぱなしになっていた錠剤を何事もなく回収し、そのまま立ち去った。

 オランダが持つ倫理観はヨーロッパの中でもだいぶ異質だ。その入国はなかなか印象深いものとなった。



「――スミマセン、ライター貸してもらえますか?」


 ホテルの玄関で吸い殻をもみ消していると、突然日本語で声をかけられた。ショートボブにブリーチをかけた女が、細いメンソールを指先に挟んで立っていた。

 レザーパンツにライダースジャケットという全身黒づくめで、首からは大きなゴーグルを提げている。400ccクラスのバイクにでもまたがっていそうな勇ましさだ。


「そんなわけないじゃん!コレは風通さないから温かいの。ゴーグルはコペンハーゲンのフリマで見つけたの。オシャレで提げてるだけだよ」


 彼女はいきなり自分のファッションに対する言い訳から始めた。


「サキだよ。よろしくね」


 ペコリと頭を下げると「どの辺回ってきたの?」と彼女は勝手におしゃべりを始めた。エスニック風の大きなピアスを揺らし、時折涼し気な目を細めて笑う。

 その馴れ馴れしさに困惑していると、彼女は突然とんでもないことを言い出した。


「そうそう、これから飾り窓に行こうと思ったんだけどよかったら一緒に行かない?」


 呆気にとられているこちらをよそに「じゃあ10分後にここで」とだけ言うと彼女はさっさと部屋に戻っていった。



 尻や胸を半分以上出した女が手招いていた。中には視線が合うと、パンティー越しに指をあてがいながら腰をくねらせるブロンドもいる。

 「飾り窓地区」はアムステルダムの合法売春エリアだ。電球で飾られた窓がカーテンでしっかりと閉じられていれば客とお楽しみ中。代金を受け取ってずれた下着を直すと再びカーテンを開ける。歩いているのはカメラをぶら下げた観光客ばかりで、風俗街のイメージからはだいぶ遠い。


「あの子のお尻カッコいいよね!」


 隣ではしゃぐ美人にも困ったものだ。目をキラキラさせ、縁日の屋台でも冷かすかのような軽い足取りである。


「やっぱ男の人ってお金払ってでも性欲処理したくなるの?」

「サキさんが男だったらどうする?」


 30分前に知り合った男にこういう質問をする女など初めてだ。サキは「だったらさっきの巨乳ちゃんのほうがいいな」と銀の大きなピアスを揺らしながらあっけらかんと笑った。


 小さな桟橋を渡ったところで、二人組の男に声を掛けられた。

 サキは流暢な英語で追い払おうとしたが、彼らは「(飾り窓に行くにはそこを右か?)」と南方訛りの中国語で繰り返した。”それなら左に曲がって30分”とサキの頭越しに中国語で返してやった。


「すごーい!もしかしてご両親がそっちの方とか?」

「ちがう。大学で中国語を専攻している。今頃あの二人は鼻息を荒くして街外れに歩いているだろう」


 なぜ咄嗟にウソを教えたのかわからないが、アムステルダム中央駅の方角に消えていった彼らを指して笑った。


「すごいね中国語が話せるって!ねぇ今からリュウって呼んでいい?ドラゴンの龍(リュウ)。カッコいいでしょ!」


 サキはひとりで手を叩いて喜んでいる。

 まぁ「ホスト」と呼ばれるよりはマシなのだが。



 その後もふたりは「自由すぎる街」を歩いた。

 途中「コーヒーショップ」と呼ばる合法ドラックバーの前を通り過ぎた。

 安楽死、同性婚、そしてカナビス(マリファナ)。風車小屋やチューリップのイメージとはかけ離れたオランダの倫理観については、ヨーロッパの中でも賛否ある。


「でもさ、自由すぎるって責任負いきれないよね」


 サキは案外ブレない芯を持っている。

 自由は自律の上にしか宿らない。そうした前提を飛び越えた自由などただの「わがまま」である。

 アムステルダムの夜は、コーヒーショップ周辺でさえ酔いつぶれて路上に寝ている人など見かけなかった。一見すると自由を下支えしている自律は達成できているようにも見える。

 しかし行き過ぎた自由には、時としてとんでもなく重い責任が課せられる。

 人は押し付けられたルールを嫌うが、倫理観や正義という曖昧さに委ねてしまえるほど、人類は賢く出来上がっていない。



「あちこち付き合ってくれてありがとう」


 ホテルに戻った頃には既に日付をまたいでいた。

 「サキさんも良い旅を」と手を振って部屋に戻ろうとすると、彼女はまた意外なことを言い出した。


「…ねえ、ギュッとしていい?」


 戸惑いながら広げた腕にサキはそっと頬を預けてきた。

 背中に手を回す。ライダースジャケットはすっかり冷たくなっていた。


 お互いそれ以上質問せず、「おやすみ」とだけ言って手を振った。

 不思議とまた彼女には会える気がする。ところが今朝とうとう彼女の姿を見かけることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る