第24話 再会

 昼下がり。私はぼんやりと山を眺めていた。

 鳥居の下の石段に腰掛けて、今日も来ないはずの人を待っている。


 来るはずないって分かってるわよ。最後に来てからもう3日も来てない。きっと諦めてくれたんだわ。

 それはとってもいいことなのに、私はまだそのことを喜べないでいた。


「こうしちゃえば諦められると思ったのにな……」


 私はもう十分幸せだったじゃない。これ以上ないくらい素敵な思い出をもらった。

 この思い出を抱きしめて、私は消えてしまおう。


「だって、もうすぐ消えちゃうもの」


 傾きかけた太陽に手をかざす。

 手のひらを貫いて私の目を焦がそうとする光に、思わず目を細めた。


 諦めきれない私を諦めさせるように、私の体は少しずつ透けてきていた。

 もうお前は消えてしまうんだって、あの意地悪な神が言ってるようで、なんだかムカつく。



 友だちが欲しい。そんな願いは最悪の形で反転した。

 この世界からの消滅。誰と触れ合うこともなく、誰を感じることもなく、ただ独り世界から消えていく。

 神の話じゃ消えてしまったあとも、なにもない空間で意識は残るらしい。完全な孤独のなかで、私は思い出と一緒に存在することしかできないみたいだ。


 どうせ消えてしまうなら、いっそ死んでしまったほうが楽だったかもしれない。今から望めばそれも叶うのかしら。


 あーあ、消えちゃう前にせめて、理恵や情をひと目見たかったな……。

 でも、同時に怖くもある。私のいなくなった世界で、あの子達が楽しそうに笑っていたら……。そう思うと足が鳥居を出ることはなかった。


「情……。何かの間違いでここに来ないかしら」


 そんなことを呟いたとき、遠くの石段の始まりで騒がしい音が鳴り響いた。

 驚いて視線を投げると、そこには乱暴に自転車を倒した若い男の子が、すごい勢いで石段を駆け上ってきていた。


「うそ……」


 私は彼を知っている。ううん、知ってるなんてもんじゃない。ずっと見てきた、私の――




「情……!」




 ――大好きな人。




「沙夜ーッ!」


 息も絶え絶えに、滴る汗もそのままに、情は私の名前を叫ぶ。

 足を踏み外して膝をつく姿に思わず声がてる。それでも前を向いて再び踏み出す姿に拳を握る。

 はっきりと情の顔が見える距離にまで近づいて、彼はまっすぐに私のもとへ駆けてくる。


「沙夜ッ……!」

「情――」


 でも、彼は止まらなかった。

 石段を駆け上がった勢いはそのままに、私をすり抜けて行ってしまった。

 私は情を受け止めんと広げた手を力なく下ろして、うつむく。


 ……そう、よね。情にはもう私が見えないんだもの。そんなこととっくに分かってたのに、何を期待してたんだろう。



「沙夜! 沙夜ーッ! いるんだろ!? 俺の声が聞こえているんだろ!?」


 やるせない気持ちで振り返った境内で、情は必死に叫んでいた。

 滴る汗を拭うこともせず、境内に響き渡る声で私の名前を叫んでいた。


「いるわよ。ずっと、ここに」


 一歩、また一歩と情に近づく。

 でも、情の視線は私をすり抜けていく。私を映すことなく通り過ぎていく。


 手を伸ばせば触れる距離まで近づいても、情は私に気づかない。


「ほら、私はここにいる」


 情の手を握ろうと伸ばした手は、虚しく空を切った。


「だから、気づきなさいよ……。ばか……」


 悔しくて、切なくて、胸が苦しい。

 でも、この結末は私が望んたこと。だからこんな気持ちになるのはいけないことなのに。


「沙夜! 聞こえてるよな!?」

「そんな大声出さなくても聞こえるわよ」

「俺、お前と話がしたくて! まだ何も言えてない、何も伝えられてない! このままなんて嫌なんだッ!」

「私だって、まだなんにも伝えてない。言い残したこと、たくさんあるわ」

「……やっぱり反応はないよな。でも、近くにはいる。そんな気がするんだ」

「ばかね、分かるわけないじゃない。……でも――」


 真剣な表情であたりを見回す情は、すぐ目の前の私をずっと探している。

 こいつは私の姿も見えない、声も聞こえない。そんな中で私を探しに来てくれた。


「――とっても嬉しいわ」


 気がつけば私は笑みを浮かべていた。

 そう、だったわね。世界から切り取られてすぐの頃も、情と初めて出会ったときも、いつもこいつは私に笑い方を思い出させてくれるんだ。



 情はなにかに納得したように頷くと、私をすり抜けて拝殿前の階段に腰掛けた。

 私もその後を追い、情の目の前に立つ。


「飯島がさ、お前は本当に俺のイマジナリーフレンドだったんじゃないかって言ったんだ。空想の存在だって。俺もそれに納得したんだよ」


 向かい合う私のお腹の向こうを見つめて語りだす情は、悔しそうに眉間みけんにシワを寄せていた。

 イマジナリーフレンド。最初にそういったのは私だったわね。それももう随分ずいぶんと昔な気がする。


「そうじゃなくても沙夜は消えてしまったから、もう探せないって思って……。だからここ最近はずっと沈んでた」

「それでいいのよ、情。もう私を探したりなんて無駄なことは――」

「でもそうじゃなかった」

「……え?」


 情は相変わらず虚空を見つめている。そこに何かがあると信じて疑わない目で。


「だって沙夜言ってただろ? 10年も一人でこの神社にいたって。それって今までも俺の目には映らなかっただけでそこにいたってことじゃないか? だから気づいたんだ。沙夜はまだいる。俺の見ている世界からは消えてしまったかもしれないけど、たしかにそこにいるんだって」


 そう言って情は微笑む。その笑みは私に向けられていなかったけど、私に向けたものだった。


「そのことに気づけたのは沙夜、お前のお父さんのおかげなんだ」

「え!? お父さんが……?」

「さっき偶然会って、沙夜がいなくなって随分と参ってるみたいだった。でも、お前のお父さんのおかげで沙夜は現実に存在した女の子だったんだって気づけたんだ」

「……イマジナリーフレンドのままで良かったのに……」


 嘘だ。こうして情が会いに来てくれたことがこんなに嬉しいのに、私はまだ消えてしまうことが正解だって思ってる。


 でも、誰の目にも映らない私が、これからいくらでも幸せな人生を送れる情を縛っていてはいけないのも確かだ。

 だから、やっぱり私は……。


「だから決めたんだ。沙夜に会いに行こうって」

「は、はあ!? なんでそうなるのよ!」

「ここに来れば会える気がしたし、俺は沙夜の声を聞けなくても、沙夜には俺の言葉を届けられるだろ? だからまだ俺の前から消えてしまっただけなら、伝えたいことがあったからさ」

「そんな、一方的に伝えられたって困るだけ――」

「沙夜が消えてからの今まで、俺の世界はモノクロなんだ。なんの色もない、つまらない毎日。ほら、あんなに撮った写真のどれにも沙夜はいない」


 カメラを操作する情の隣りに座って画面を覗き込むと、そこにはかつて私がいたはずの写真たちが次々と映し出されていた。

 誰もいない不自然な風景画を眺める情の視線は、悲しい光を宿していた。


「ここに沙夜がいたときはさ、あんなに毎日が楽しかったのに」

「私だってそうよ……。楽しかった」

「ずっと願ってた。沙夜にひと目会いたい、最後に一言でいい、話がしたいって。ここに祈りに来たりもした」

「知ってる。でもそれは叶わないのよ」

「でも、違った。それじゃだめだったんだ」

「え……?」


 思わず振り向き見た情の横顔は、真剣そのものだった。



「俺はずっと願ってばかりだった。彼女がほしいとか、沙夜に会いたいとかもそうだ。願うばかりで何もしなかった」


 情の言葉は私をハッとさせた。一緒なんだ。私も情と。

 ただ願っていた。友達がほしいなんてことでさえ、私は神に願って。

 さっきだってそう。情が会いに来てくれないかって願って、自分から会いに行こうとはしなかった。


「願いってさ、他人に叶えてもらうものじゃないと思うんだ。だってそれを願ったのは自分なんだぜ? 自分一人じゃ叶えられなくてもさ、叶えようとする努力は続けなくちゃいけないと思う」


 叶えようとする努力……。他力本願で自分の努力無しで叶えた願いを、本物とは呼ばない。きっとそういうことだ。


「でも、全部を全力で叶えようとしたら、きっと疲れちゃうからさ。だから神にすがるし、願いを諦めたりするんだ」


 神にすがってこんな体になって、多くの願いを諦めた。

 諦めるための口実は、全部この体がくれたから。


「だけど、諦めたくない、諦めちゃだめなこともあると思うんだ。それすら諦めちゃったら、きっと俺には何も残らない」

「諦めたくない願い……」

「うん。諦められない願い。俺にとっては沙夜のことだ」

「私の……?」


 諦められない願いが、私のこと? それってどういう……?


「沙夜、お前は気づいてないかもしれないけど、俺は沙夜に出会って変わったんだ。青春を浪費するだけの俺に、お前はいろいろな楽しみをくれた」


 情は柔らかい微笑みを浮かべながら、ゆっくり写真を送る。それは懐かしのアルバムをめくっているようにも見えた。


「お前は自分がいつか消えてしまうことを知ってた。だからあんなにいろいろなことをやりたがったんじゃないか?」

「……そうね」

「俺にはそれが眩しかった。儚くも全力で生きようとするお前を素敵だと思った」

「す、素敵!? 何言い出すのよ!」


 情ってこんな事さらっと言うやつだったかしら……? なんか不覚にもドキドキさせられるんだけど! 情のくせに、生意気よ……。


「色々文句も言ったけどさ、でも素敵な日々だった。うん、素敵だった」


 確かめるように頷く情は、何を思い出したのか楽しそうに笑ってた。

 私もおんなじ。初めてこの神社で情を見かけてから、私の日々は素敵に彩られた。

 こうして成長した彼に恋までして、私の一人ぼっちの10年は無駄じゃなかったって、情に出会うためにあったんだって、そう思えた。


「俺が沙夜をアラサーだ絶壁だってからかって、沙夜が顔真っ赤にして怒ってさ。くだらない冗談もいっぱい言って、ただただあの日々が幸せだった」

「私だって、幸せだった……。だからもういいのよ。私はもう、満たされたんだから」

「たがら願ったんだ。あの頃に戻りたい。いいや、沙夜との未来をこのカメラに収めたいって」


 情は慈しむようにカメラをなで、微笑む。


「それが俺の諦めたくない願い。沙夜のいない未来なんて、俺には考えらんないよ」

「バ、バカッ! 何恥ずかしいこと言ってんのよ! それじゃあまるで――」


 ――愛の告白みたいじゃない。

 頭に浮かんだ言葉を、私は口にできなかった。

 情に聞こえるわけなんてないのに、気恥ずかしさで喉が詰まる。


 そんな私は逃げるように拝殿に上がり、見えるはずもないのに真っ赤になった顔を情から背けた。


「沙夜はどうだ? 自分にとっていちばん大事なことは、心の底からくる願いはなんだ?」


 その願いはもう叶った。私が消えることで、情が幸せになること。


「……本当にそうなのかな」


 それは少し違う気がした。その願いは本当に私の願うものじゃなくて、ただ正しいだけの願いだ。

 私が一番に望むこと、それは――



「もし、もしも沙夜が俺と同じことを願ってくれるなら、その願いはきっと叶う。そのために俺はここに来たんだから」


 情は立ち上がると拝殿に向き合う。手にはカメラを持って、初めて情と出会ったあの日と同じように。でもあの時よりずっと真剣な表情で。


 ……叶えばいいって、その願いを叶えたいって思う。

 でも願ってもいいの? 私の身勝手な願いを。

 胸の前で握りしめた手は痛いほどだった。


「沙夜、また話をしよう。他愛ない冗談を、くだらない未来の話をしよう。笑って、怒って、泣いて。そんな当たり前の未来の話をしよう」

「私は……、私はっ……!」


 また願ってもいいのかと、誰かが囁く。願えばまたろくでもないことになるぞと。


 ……それでも、願わずにはいられない。

 でも、これは今までのものとは違う。誰に願うでもない、自分で叶えるための願い。それを抱くことの何が悪いのよ。




「私はっ、情と話がしたい! とっても眩しい普通の日常をあなたと過ごしたいっ! 明日を、大好きな情の隣で一緒に歩んでいきたいッ!!」




 願いを叫ぶ。どれも当たり前で普通な願い。取るに足らない、神に願うでもない日々。

 私はそれがほしい。情と一緒なら、そんな日々も特別になる。


「きっと、いや絶対に願いは叶う。それで、願いが叶ったら言おうと思ってたことがあるんだ」


 情はおもむろにカメラを手にすると、レンズのカバーを外した。


「願いを叶えるのは自分だ。他の誰でもない」


 それをゆっくりと目の高さまで持ってくると、彼は目を閉じる。


「だから俺も神様に祈るのはもうやめだ。叶えるための努力をしてみたくなった」


 レンズをくるりと回して、無機質な一眼が私を見つめる。


「きっと、全部決まってたことなんだと思う。だからこんなにもすんなりと、なのにこんなにも深く、俺は沙夜を想うんだ」


 シャッターに手をかけて、軽快な電子音が鳴る。

 今ぼやけた世界を整えて、その目は私を捉えた。


「ははっ、努力なんて俺が嫌いな言葉だったんだぜ? こんな風に変わっちまったのは沙夜のせいだからな。ちゃんと責任取れよ?」

「ふふっ、なによそれ」


 思わず微笑み目を閉じると、一筋の雫が頬を伝った。




 ――カシャ。




 その瞬間、世界は切り取られた。

 肌にまとわりつく暑さも、せみの声も、頬を濡らす涙の暖かさも、全部まとめて切り取り過去にしていく。


 ゆっくりとカメラを下ろした情は、一瞬小さく目を見開くと、本当に嬉しそうに笑った。




「沙夜。好きだ。俺と結婚してくれ!」




 そして、空を揺蕩たゆたう積乱雲も、やかましいほどの蝉の声も、木々を揺らす風のざわめきも、涼し気な沢のせせらぎも、木々の間から射す木漏れ日も。全ては背景に、脇役に成り下がる。


 私の目が映すのはたった一人の姿だけ。私の耳が捉えるのはたった一人の声だけ。私は私の全部で、情の全部を感じ取っていた。




「色々飛ばしすぎなのよ、ばかっ……」




 嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいで、涙が止まらない。

 そんな私の、涙でぐちゃぐちゃに滲んだ視界の中心で、情は子供みたいに笑っているのだった。

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