第21話 「 」

 ――沙夜ちゃんは本当にイマジナリーフレンドだったのではないでしょうか。


 飯島の言葉が、頭の中で何度も何度も再生されている。

 自室で一眼レフに収めた写真を眺めながら、俺は胸にポッカリと空いた穴を埋めようとしていた。



 神社の拝殿や境内。厳かな暗さをたたえている。

 夕暮れの神社の境内。ヒグラシの声が聞こえてくるようだ。

 携帯やらパソコンやらが並べられた俺の部屋。今の俺の部屋と何ら変わりない。

 夜のベッド。今はもう俺が寝る場所になってしまった。

 お盆のお墓。立ち並ぶ墓石が哀愁を漂わせている。

 灯籠とうろうと花火。主役は俺の記憶の少女ではない。


 どれも写っているはずのものが写っていない。ただの風景画だ。

 あるべきものがなくなった穴の空いた写真は、まるで俺の心を映す鏡のようだ。




 ――好きだったんですね、沙夜ちゃんのこと。




「沙夜は、どうだったんだろう」


 飯島の言葉を思い出して、ふとそんなことを考えた。

 俺は沙夜と一緒にいられた一ヶ月弱、とても楽しかった。日々が輝いていた。


 沙夜も、同じように感じてくれていたんだろうか。俺の願いから生まれて、俺に刺激的な夏をくれた彼女も、同じように楽しいと感じてくれていたのだろうか。

 ……俺を、好きでいてくれたんだろうか。


「そんなこと、もうどうでもいいよな……」


 知る由もないことだ。もう考える意味もない。



「……」


 ベッドに体を預けて、大きく息を吸った。ほんの少し、沙夜の匂いがした気がした。


「……すんっ」


 込み上げてくるなにかを鼻をすすって押し戻す。

 ……今日はもう疲れた。寝よう。


「情〜? 晩ご飯できたわよ?」


 ベッドにうずくまったところで、階下から母さんがそう声をかけた。


 返事をするのも億劫で黙っていると、母さんは文句を垂れながら上がってきて、俺の部屋の扉を開けた。


「何黙ってるのよ。ご飯できたわよ」

「いらない」

「いらないって、急にそんなこと言わないでよぉ! もう全部作り終わっちゃったのに――、って、どうかしたの? 具合悪い?」

「そんなんじゃないよ。ほっといてくれ」

「……じゃあ冷蔵庫に入れとくからね。食べたくなったら食べなさい」


 それだけ言い残すと、母さんは階下に下っていった。

 そんな優しさに無性に腹がたった。

 母さんにじゃない。母さんにそんな気遣いをさせてしまった自分に腹が立ったんだ。



 いじけた子供のように体を丸めて、俺はきつく目を閉じる。

 ……目が覚めたら、沙夜が隣りにいやしないだろうか。悪い夢でも見ていたのねって笑っていやしないだろうか。


「そんなこと、あるわけねぇだろ……」


 開けた窓から吹き込む風が少し冷たい。夏が終わろうとしているんだ。


 役目を終えたから、沙夜は消えてしまったと飯島は言っていた。俺がもう沙夜を必要としてないからだと。

 でもさ、だったらなんでこんなに胸が苦しいんだよ。なんでこんなにも満たされないんだよ。


 眠れるはずないと思っていたのに、意外にも意識は遠のき始めていた。

 ここ数日はずっと沙夜を探して走り回ってたからな……。体はもう、限界……、だ……。


 そして俺は夢に落ちていく。どこまでも、深く。深く。落ちていった。





 ――――





 次の朝、のそのそとベッドから起き上がり、学校に行くための準備をする。

 隣で目を輝かせながら、今日はこんなことをしたいと話をする人はいない。


 家を出て、ずっと軽い自転車のペダルをこぐ。自転車は文句も言わずに軽やかに進み、いつもより早く駅についてしまった。


 電車を待つ時間も、虫の声が聞こえるほどに静かだ。前は蝉の声だって耳に入りはしなかったのに。


 電車に乗っても精神統一なんて必要なくて。ああ、随分と楽になった。


 学校について、無意識にあたりを気にするけど、もう周りの目は気にしなくてもいいんだっけ。これで変人だと思われなくて済むな。


「あ、諏訪部君。おはようございます」

「おおう! おはよう、情!」

「……ああ、おはよう」


 飯島にだってもう通訳する必要はないんだ。正直面倒だったし、清々するな。


「……」


 なににもわずらわされることはない。いいことじゃないか。俺は俺の好きなようにこれから生きてくんだ!


「…………」


 のんべんだらりとしてても急かされないし、宿題サボっても怒られないし、肉体労働とか強制されないし。よく考えたら最高じゃね? ビバ・フリーダム!


「………………」


「諏訪部君……? 大丈夫ですか?」

「……え? ごめん、聞いてなかった」

「あ……、いえ、なんでもないです……」

「そっか」


 さて、せっかく自由になったんたからなにかしたいよなぁ。まず休日は昼まで寝たいし、ゲームしたりダラダラ過ごしたい。それで、そのあとは――。


「……」




 ――そのあと、俺は何をするんだろう。




「……っ」


 俺には何もなかった。行きたい場所も、打ち込む部活も、見たい映画や遊びたいゲームも、なんにもない。

 あいつがいなきゃ、俺は何もできない。何をしても楽しくないんだから。



 何もすることがなくて携帯を開いた。指は勝手に写真フォルダを開け、何度も見返した写真を映し出す。


「……まるで夢を見てたみたいだ」


 夏の魔法にかかっていたって言われても信じてしまうほどに、沙夜がいた痕跡はなくなっている。1ピクセルを穴が空くほど見つめても、どこにも沙夜の影はない。


 俺は机に突っ伏して目を閉じた。何もすることがないから、こうして時が過ぎていくのを待ってるんだ。





 ――――





 どれだけの時間が経っただろうか。放課を告げるチャイムが校内に鳴り響く。

 とても長かった気がする。それになんだかとっても疲れた。ただぼぅっと時を過ごしていただけなのに、おかしいな。



「なあ情。俺今日は部活が休みなんだ。よかったらこのあとどこか行かないか?」


 帰り支度を整えていると、光平がそんなことを提案してきた。


「ごめん、なんか疲れたから今日は帰るよ。また今度な」

「おおぅ……、そうか。それじゃあ仕方ないな! ゆっくり休めよ」

「ああ、じゃあまた明日」


 早く帰って寝よう。そう思いながら荷物を手に席を立つ。


「諏訪部君」


 そんな俺を飯島は引き止めた。いつも冷静な彼女らしい、落ち着いた声だった。


「私は沙夜ちゃんがイマジナリーフレンドだと言いましたが、あれはあくまで仮説です。そうでなかった可能性も十分にあります。だから――」

「ありがとう、飯島。でももうどうでもいいんだ。どのみち沙夜はもう消えてしまったんだから」

「そう、ですね……。ごめんなさい……」

「それじゃあ」



 教室を出て夕日の差し込む廊下に出ると、辺りは窓の外から漏れ聞こえるヒグラシの声で満たされていた。


 夏の終りを惜しむように切なげに鳴くあいつらは、この夏に素敵な出会いをしたんだろうか。

 いや、できてないから鳴いてるのか。


「俺とおんなじだな」


 俺とあいつらは同類ってことか。そう思えばこそ、この声も俺を慰めてくれているように感じる。


「俺も今年こそはって思ってたんだけどなぁ」


 誰もいない廊下で困ったように笑ってみせる。それでも不思議そうに何を言っているんだと問いかける声はない。


「……帰るか」


 何も考えないようにした。ただ機械のように決められたルートを通って、家までの道を辿った。

 そうしていることが楽だったんだ。辛いことを考えなくて済むから。心を殺してしまえば涙も溢れないから。



 だから気がつけば家に帰り着いていた。

 靴を脱いで部屋に上がると、俺は制服を脱ぐこともせずベッドに倒れ伏す。


「疲れた……」


 そんな俺を情けないとたしなめる声もない。

 あぁ、随分と静かになったもんだ。ガミガミババアが一人減ったような清々しい気分だ。


「……そうだよ、清々したさ」


 だって沙夜は顔こそ俺の好みだったけど、中身アラサーだし、まな板だし、暴力的だし、散々だったじゃないか。


「だから、これで良かったんだ」


 それに、沙夜がいなくなったからと言って、沙夜と出会う前の俺に戻っただけだ。あの頃だって何も不足はなかった。

 そりゃ彼女がほしいとか言ってはいたけど、あんなのは腹が減ったと同じようなもので、モテない男の常套句じょうとうくなんだから、深い理由なんてないんだよ。


「なにも変わらない……」


 部屋を見渡した。うん、俺の知ってる俺の部屋だ。なにも変わらない。


 でも、どうして違って見えるんだ? この部屋は沙夜と出会う前の俺の部屋そのものなのに。どうして……。


「……あぁ、そうか。変わってたんだ」


 思わず口から飛び出した言葉は、空虚な部屋に木霊して俺の腹にストンと落ちる。


 部屋は変わってない。でも、俺は変わったんだ。俺は沙夜と出会って確かに変わったんだ。

 沙夜と同じ部屋で過ごして、夏を遊び尽くして、学校に通って、気がつけばあいつを好きになって。そうして俺は以前の俺とは変わってしまったんだ。


 怠惰たいだで、彼女が欲しいと言いながらも何も行動しない。持ってる奴らをうらやんでねたんで、何も変わろうとしない俺は、沙夜によって変えられてしまったんだ。


 そして、変わってしまった俺は再び求められる。沙夜のいない日々を当たり前に受け入れる俺に変わることを。


「変われるかな……。なぁ、沙夜?」


 当たり前だった返事は、もう帰ってこない。


「分かってた、分かってたんだ。どれだけ自分に言い聞かせても、沙夜の嫌なところを探しても、この気持ちは消えてなくならないって」


 言い聞かせるたび胸は張り裂けそうで。

 嫌なところを探せば、その倍は好きなところが浮かんできて。


「気づいてたんだ。恥ずかしくて誤魔化ごまかしてたけど、お前を知るたびに、俺はお前のことを好きになってくことに」


 だけどもうこの気持ちを沙夜に伝えることはできない。

 触れることも、話をすることも、笑顔を見ることでさえ、もうできないのだから。



 写真のように、沙夜と過ごした思い出も、いつか消えてなくなっちゃうのかな? 時間が経てば忘れていっちゃうのかな?

 きっと、全部を忘れて俺は笑うんだ。そしてその時、沙夜の存在は完全に消えてしまう。


「いやだよ、そんなの……」


 い上がってくる恐怖から身を守るように、俺はひざを抱く。

 そんなことしかできない自分に、苛立いらだちよりも悲しさが先立つ。


「なぁ沙夜。いなくならないでくれよ……。俺を置いて消えてしまわないでくれよ……」


 誰もいない部屋で、届くはずのない言葉をこぼすことしか俺にはできない。縮こまって涙を堪えることしかできない。ちっぽけで、無力で、情けない。


 ……外にでも出ようか。この部屋は沙夜の影が染み付いてて、目に映る景色全部が辛い。


 俺はそうしてのそのそと起き上がると、帰ってきたばかりなのに自転車にまたがり、あてもなくこぎ出した。

 そうして体を動かすことでウジウジとした思考を誤魔化したかった。弱く惨めな自分から目を逸らしたかった。



「……どうしてここなんだろうな」


 目的地はなかったはずなのに、俺がたどり着いたのはあの神社だった。

 沙夜と出会い、俺の夏が始まった神社。昔からよくいじけに来ていた馴染みの場所。

 沙夜の思い出がちらつくのが嫌で外に出たのに、結局こうして沙夜の気配を探している。


 期待していたわけじゃない。ここは何度も探して、そのたびに見つからなくて落胆した場所だ。今更探したって見つかるわけ無いって分かってはいたんだ。

 でも足は勝手に石段を登り始めて、気づけば沙夜を見つけた拝殿に向かい合っていた。


 何もしないのも落ち着かないので、俺は鈴を鳴らして神社に手を合わせ、きつく目を閉じる。


 ……あぁ、どうか神様。俺の声が届いているならどうか。もう一度だけ俺の願いを叶えてください。

 彼女がほしいなんて自分の努力をおこたった願いはもうしません。だからどうかお願いします。沙夜に、俺が恋した少女にもう一度だけ会わせてください。

 どうか、どうか……。


 目を開けると、視界にはあの日と同じ神社の拝殿が映っていた。


「沙夜……」


 名を呼んだところで沙夜が現れるわけじゃない。俺は拝殿に背を向けて来た道を引き返した。


 困ったときの神頼みとはよく言ったものだ。俺にも、他の誰にもどうしようもないことだから、神様に頼るしかないんだ。でもきっと、賽銭も投げずに自分勝手に願いを置いていく俺になんて、神様は応えてくれないだろう。


 それでも、願ってしまう。

 もう一度沙夜に会って、話をしたい。どうせ消えてしまうなら、ちゃんとお別れを言いたい。

 だってあいつ、何も言わずにいなくなっちゃうんだもんな。それについても一言文句を言ってやりたい。


「だからさ、頼むよ神様」


 神を求めて見上げた空には、弱々しく一番星が瞬いていた。

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