第5話 世紀の盗人トンボイ青年の主張




「いやいや、ご夫人、ご高説は確かにうけたまわりました。しかし、あなたの今のご意見では、私やプジョル医師の説を覆すことは出来ませんな。なぜって、夫を平然と見捨てた後で大金を手にする、というあなたのやり口からは、また、その決断からは何の人間的な愛情も感じ取ることが出来ないからです。今も昔も、欧米の大衆の心を一番魅了するのは、やはり愛憎劇ですからね」


 エメルトン夫人は言われた方を振り返り、毛虫でも見つけたかのような、不機嫌そうな表情で青年の崩れた顔を凝視した。やっと靴を履き終えたばかりの、この年齢で複雑な世の仕組みをすべて手中に収めたかのような、勘違いとずれた認識において生きている。夫人はもちろんこのような人間は好かなかった。どうやら、バカげた世界に生きているようだ。


「あなた、先ほどから、ずいぶんとつっかかってきますわね。いったい、どこのどなたでしたかしら?」


「失礼しました、夫人、私はアメリカ一の盗人、トンボイと申します」


 青年はそのように軽く応じて、うやうやしく頭を下げた。彼にとっては、夫人と対等の場において対談する機会を得ることは、今回の大イベントの目標の一つであったが、会場であるロンドンに到着する前に、どうやら達成できたようである。


「ああ、事前に関係者から示された、強運者の名簿で拝見しましたわ。あなたがこれまでに数百回も窃盗を繰り返しておいて、それでも、一向に悪びれないという噂のお方ですの?」


「左様でございます、奥様。ただ、悪びれないとは、少々言い方が良くないですな。私の犯罪は、いわば一つの芸術ですからね。どんなに吹きすさんでも、一向に木の葉を揺らすことのない春風のように、誰も盗みの瞬間を視認しておりませんし、この腕を捕らえられて、警察に突き出されたこともございません。そもそも、私を非難するものはありません」


 彼はそこで白い歯を見せて、若者らしく笑ったが、夫人はトンボイ青年の端正な顔立ちに何の興味も覚えなかった。自分の築き上げた主張こそがすべてであり、それに対して、真っ向から反論してくる者は、すべて気違いや異端者のように思えた。動物園でつまらない南米産の猿の檻の前を通りがかった時のような表情だった。


「それで、あなたは私の半生のどこにケチをつける気ですの? もちろん、そのような偉大な権利を、あなたが持ち合わせていたとしたら、ですけれど」


 トンボイ青年は夫人から返答を求められると、待っていました、とばかりに顔を上気させ、得意げになって熱弁をふるい始めた。


「そうですな、先ほども少し申し上げましたが、ご夫人、あなたの半生に弱点があるとすれば、大金を得るまでの過程に何のロマンも愛情も感じないところです。確かに、宝くじという大イベントを二度も当てられ、その辺りでじゃれ合っている、にわか成金などを、ゆうに超越するような資産を得られたのは喜ばしいことです。労せずして、いまや北米を代表する成功者となれたことも素晴らしいことです。しかしですね、世間一般の人々としては、裕福になってしまってから、夫をあっさりと見捨ててしまった、あなたのご判断に対して、遺憾ながら、俗物の女性特有の嫌らしさを感じてしまうでしょうね。外見上は豪華な衣装こそ身にまとっていても、あなたはご自分の悪しき振る舞いにより、実際には、愚にもつかない、卑しい平民階級の出であることを、また、生まれながらにして、持ち合わせることになった、ご自分の信条や気質では、それをどう用いても、決して貴族階級の人々の仲間入りは出来ないことを見事に証明されたんですよ。


 ロンドンの大観衆の面前において、あなたの運周りの良さだけで構成された半生を、三度にわたり披露されたとしても、結局は同じことですよ。これ以上評価は良くはなりません。ロンドンの市民はその野暮ったい口ぶりと不毛なる話の内容からして、あなたの身に備わっている、安っぽいオーラを即座に見破ってしまうでしょうね。私の考えをここで率直に言わせていただけるならば、あなたはどんなに当選金の分け前をやるのが嫌でも、長年連れ添った夫と別れるべきではなかったですよ。あの田舎町での地道な生活を生涯にわたり続けるべきだったんです。世間一般の純情家(なぜか、こういう人たちはいつの世にもいて、なかなか絶滅しませんが)たちは、どうしても有名人の資産よりも、その人生に付きまとう愛の深さの方を見るからです。その人物がどうやって成功したかよりも、むしろ、どういう愛情を心に秘めているのかに興味を持つわけです。そういう純情家たちは、あなたが飛びぬけた大金を持っているからといって、特別な扱いをしたり、例えば、大リーグで一年に四十本もホームランを打つ野球選手のように尊敬したりはしません。ただ、多額の資産を持っているから羨ましいという思いだけは当然あるにしても、大衆紙で取り上げられる、貴方の落ち度を見るたびに、やがて粘着性の嫉妬に変わっていくものです。あなたに反省もなく、さらに品位を堕とすような行為があった時には嫌悪感へと変わるでしょう。そして、貴方をごうごうと非難する記事が載った週刊誌を手にしながら、腹を叩いて大笑いし、貴方の失態をこの時とばかりに、叩きに叩くでしょうね。大衆心理を必ずしも好ましいとは思いませんが、人間とは、すなわちそういうものです。


 エメルトン夫人、良いですか、話は少し脇に逸れますが、数年前にロンドンで流行った劇場ストーリーの中にこんなものがありましたよ。ある富裕層に属する独身女性が、その昔、恋人として付き合っていた、愛情の衰えとともに疎遠なっていった男性が事業に失敗して破産の憂き目にあったことを人づてに聴きました。元恋人が絶望しているとき、つまり、昔の恋人の弱みを知らされてしまった時にですね、突如として、その女性の心に頑なに否定していたはずの以前の愛情が不死鳥のごとくよみがえり、自分の財産のすべてを彼の事業に投資したとしても、今さら、その男性を助けられないことを承知の上で、崩れかけている彼の事業に大金を投資し、まあ、結局、運用はうまくいかずに夫人も財産を失う羽目になり、二人ともその地位を剥がれて一般市民階級まで落ちぶれてしまったのですが、それでも、二人は信頼を蘇らせることに成功し、よりを戻すこととなり、愛情をさらに深めて、かつては為しえなかった結婚にまで至ったのです。その後は、旧市街の一角にある分譲アパートで、安い仕事に就いて慎ましく幸せに暮らしたという話です。この話の重要なポイントは、以前は大金を持っていたがために、いつしか見えなくなっていた二人の愛が、資産を失ったと同時に鮮やかに復活するところにあります。まるで、貴方の半生の真逆ですよ。このストーリーは、ロンドンの劇場で公開されて大反響を呼び、アンコールまで起きたそうです。夫人、あなたの半生のストーリーでは、まるでダメなんですよ。いくら劇的であろうと、まったく心を打つ波がなく、何度も続く同じような展開は単純すぎて大衆は喜びません。やはり、ロンドンの一般大衆というのは、あのディケンズ以来、単調な成功物語よりも愛情を大いに含んだ、泥くさい物語を好むんですよ」


「何ですって? 財産を失ったことで、かえって以前の愛情が復活したですって? ふん、ずいぶんと安っぽいこと言うわね。そんな、お涙ちょうだいのストーリーで本当に現代人が、特に今の若者が喜ぶとは思えないわ。ところで、あなたはどうなの? 強運者リストの紹介では、アメリカ有数の盗人ということでしたけど、何か大舞台で披露できるようなエピソードをお持ちなの? もう、あなたがペラペラ語る想像上のストーリーには飽き飽きですわ。そこまで仰るなら、あなたが半生において体験してきた実在のストーリーとやらを聞かせてちょうだい。もし、その話が私の成功談よりも美しいロマンスを含んでいるのであれば、私も潔く自分の負けを認めるでしょうよ。この飛行機がロンドンの会場に着いた時には、自分の成功体験のことよりも、まずあなたの人生の推薦から始めることにしますよ」


 エメルトン夫人はここまで刃を突きつけてやれば、傲慢な相手も引くだろうと思っていた。しかしながら、実際のところ、トンボイという若僧はそこまで挑発されても、まだ落ち着いた整然とした態度を崩さなかった。彼は身構えた武器を引っ込めるつもりなど、さらさらないのである。あくまでも、この場でエメルトン夫人を打ち負かしてやるんだという野心に満ち溢れていた。彼は真横のテーブルの上に置かれていたクリスタル製のワイングラスを手に取ると、慣れた手つきでそれを口に運んだ。


「夫人、よろしいでしょう。あなたのお望みの通り、私の生涯の断片をいくつかご紹介します。私はロサンゼルスの郊外の裏町の生まれで、実家の周囲は大戦後に建てられた、薄汚いビルに取り囲まれた、昼でもほとんど陽が射さない、碁盤の目のような細い路地ばかりでした。その暗く汚くせせこましい道は、多くの犯罪の発生地でしたが、それと同時に私の生活の地盤であったのです。両親は若い時分から清掃夫と居酒屋の店員をかけ持ちでしていましたが、その賃金は子供を産み育てる上で、決して十分ではなく、祖父の代から家柄は貧しかったものですから、低級学校の教師たちにさえも、あれは価値のない生徒だから面倒は見なくていいと、あからさまに差別されるような有様で、友人関係には悩むばかり、学業もろくに身につかず、いつの間にやら、近所の裏通りを徘徊する不良仲間に入っておりました。ひな鳥が生まれてすぐに鳴き声を覚えるように、盗むという反社会的な行動を自然に覚えました。一度盗みの味を覚えてしまうと、まるで、持って生まれた能力のように、昼につけ夜につけ、よどみもなくそれを繰り返しました。家にいても、外で遊び歩いていても、常に孤独の只中にあり、幸福など微塵も感じることのない人生の中では仕方ないことですが、他人の貴重な品を何度奪ってみても、罪悪感などまったく育ちませんでした。


 私も仲間たちも成長するまで、当たり前のように盗みをやりました。商店の外に並べてある食べ物には平気でむしゃぶりつきましたし、ちょっと身なりの良さそうな老人を見つけると、後ろからつけていって、狭い路地に入るなり、棍棒で殴りつけて追い剥ぎをしました。しだいに、町で店を開いている人々は、私たちが通りをぶらついているのを恐れるようになりました。やがて、この姿を見られただけで、警察に通報されるようになりました。その頃は、自分たちはこの世で一番貧しく生まれついたのだから、周囲の幸運な人間たちのものを奪うことは当たり前のことだと考えていました。他人から道徳を学ばない、そして両親からの愛情をまるで知らずに育った子供の心には、自分中心の考えしか育たないものです。街を取り仕切る法においては、悪いことだと薄々知っていても、それをやらなければ、自分の生活がますます苦境に立たされると思っていました。窃盗の場に選んだのは貧民街でしたから、周辺に住んでいる住民や商人たちも外見上は穏和そうに見えながらも、日々生きるためのお金を、懸命な労働によって、やっとのことで得ていたのだろうと知ったのは、ずいぶん成長してからでした。私たち不良仲間は、知らず知らずのうちに、社会の底辺でもがく、自分と同じような人種から、お金や物を奪い取っていたのです。正常な眼鏡でその所業を眺めれば、それは冷酷な犯行だったかもしれません。都会であぶく銭をばら撒く富裕層たちは全く知らない世界です。私たちが彼らから奪い取ったのは小銭やありふれた雑貨や日用品のたぐいがほとんどでしたが、奪われた店主の側にとっては、それは取り返しのつかない財産であったかもしれないのです。


 学校にはろくに行かず、盗みと酒と女遊びを繰り返して生きていた私は、いつしか十八歳にもなっていました。その時分には幼い頃から一緒だった盗人仲間たちも、立派に成長して他人に頭を下げることを覚え、大工の弟子になったり、パン職人の弟子になったりして、私の元から離れていきました。心身ともに成長したことで、犯罪に頼らず、真っ当な生活を維持する術を学んでいったのです。このまま犯罪を続けていき、いつか警察に捕らえられて、人生を大きく狂わせるのを恐れたのかもしれません。良識が育つとともに、他人の視線や警察の暴力や圧倒的な法の力を畏れるようになったのかもしれません。大人になってからも、盗みという手段により、生計を立てていたのは、何時の間にか私だけになっていました。それでも私は自分の道を曲げようとしませんでした。私が万引きやスリなどつまらない犯罪を延々と繰り返していたのは、何も自分をスラムの隅へと追いやった社会に対して恨みがあったからではありません。笑顔を絶やさず、平穏に暮らす人々の生き方が妬ましかったからでもありません。私には盗っ人として生きていく才能があったからなんです。


 一緒に犯罪を繰り返していたはずの仲間たちは、警察や町の守衛に幾度となく捕らえられ、その度に長時間の説教を受けたり、両親や教師を呼ばれ、折檻を受けたりしていましたが、私にはそんな体験は一度もありませんでした。盗もうと一度心に決めたものは必ず盗んでいました。この精神はぶれず、その指は震えず、犯行に失敗したことはありませんでした。つまり、私は後悔という言葉を知らなかったのです。一度も捕まっていないのに、この犯罪をやめるわけにはいきませんでした。狙った貴重品をくすねる際の、私の指先の素早い動きを、テレビの手品さえも見破れない、一般の人間が肉眼で捉えることは相当に難しいようでした。店主が目の不自由な老人ではなくても、いかにも視力の良さそうな若い男性の店主であっても、私の盗みはその眼前で行われ、芸術的に披露され、確実に成功しました。延々と繰り返された犯行は結局一度も見咎められることなく、十八歳になったとき、私の自信は頂点に達していました。


 自己紹介はもう必要ありますまい。ここからが本題なのです。ある日、それは小雨模様の暗い陽の射さない日のことでしたが、いつものように裏通りを獲物を探してぶらついていた私は、一人のやつれた少女と出会いました。その少女は歩む様子から察するに、どうやら目がほとんど見えない様子でした。片手で通りのビルの外壁をまさぐりながら、もう片方の手では古い木製の杖をついて、それを頼りにふらふらと歩いていました。少女はその足も不自由なようで、右膝には包帯を幾重にも巻いていました。こんな状態ですから、普段は外歩きなどしないのでしょう。学校に通っているようにも見えません。家のベッドの上で日がな一日寝かされているはずです。こんな薄暗い雨の日に、無理をして出歩けるような身体ではないからです。輝く陽の射す普段の晴れた日なら、こんな暗い通りでも、少なからず人通りがありますから、この少女の異常な事態を察して、誰か助けてくれる人がいるはずです。ところが、その日は早朝から雨模様であったために、この細い通りには、私とこの少女の他に人影はありませんでした。少女はその目的を目指して、ぐらぐらにふらつきながら、どうやら一歩ずつ進んでいました。表情は焦りと苦痛に歪んでいました。最初は『善人ぶった誰かが助けてやればいいではないか』などと思って通り過ぎる気でいました。しかし、結局のところ、こんな弱者を助けようとする気の利いた人間は現れず、とうとう、私自身が声をかけることにしました。


『お嬢さん、そんな身体では外歩きは厳しいでしょう。そんなに焦って、いったい、何があったんです?』


優しく声をかけてやると、少女は見えないはずの目を私の顔の方に向けました。


『母が、母が、重い肺の病気で倒れてしまったんです。家には母と私しかいないんです。二人が助かるためには、私がなんとかしなければ……』


 少女はそう訴えると、再び足を引きずるようにして狭い路地の先へと進もうとしましたが、すぐにバランスを崩しました。そのまま危うく前のめりに倒れそうになり、私の身体にすがりつきました。彼女は私の腕の中で、己が無力を悟り、さめざめと泣いていました。初めて出会う赤の他人に、こういう態度に出るということは、彼女の内面はすでに絶望に打ちひしがれていることは明らかでした。先ほどの説明だけでは、家庭の事情はよく飲み込めませんでしたが、この少女の細い身体にしても、もう三日は何も食べていないような、肉の祖げた骨ばった身体つきに見えたのです。この少女に抱きつかれたときに気づいたのですが、少女の右手には二枚の紙幣がしっかりと握られていました。


『薬屋で咳の発作を止めるお薬を買わないと母はもうすぐ死んでしまうんです。でも、ここからどう歩いていけば薬屋に着くのか、わからないのです。あなたに少しのお時間と温情があれば、どうか、助けて頂けませんか』


 少女は今にも消え去りそうな声で、続けてそう言いました。その薄暗い通りには相変わらず、私たち二人の他に人影はありませんでした。目には見えぬ不幸の神はいたのかもしれませんが、通行人はまるで無いのです。つまり、私の心に突如として天使が舞い降りて、この少女を救おうと決心して、薬屋まで手を引いて連れて行くのも、逆に悪魔が宿って、少女を力いっぱい殴り倒して、紙幣を奪ってこの場から逃げるのも、どちらも容易に出来たのです。何の抵抗も出来ない障害者の女の子から金を奪って逃げる? 私は考えただけでゾクゾクしました。自分の信条に則れば、決して悪くない選択に思えました。その行為は悪の絶頂、そして悪の華だと思いました。まさに、究極ともいえる悪意の行為ではありませんか。いくら日常的に地面に唾を吐き、他人に脅しをかけながら、大胆に振舞ってみせても、実際のところ、心の奥には微かな善意を隠し持っている、口先だけの悪党たちにはできますまい。このいたいけな少女を何の未練もなく殴り倒すことが、私が今以上の大悪党へと脱皮する、良いきっかけになるかもしれません。


 ええ、私はその頃には、この先の長い年月に渡って、決して陽の当たらぬ悪の道を歩き続けることを、すでに決めていましたからね。それに、クルミパンや工具といった凡庸なものばかりを盗んでは、生計を立てるという今の生活にも、飽き飽きしていました。私の心の針は言うまでもなく悪の方に振れていました。当初はこんなボロボロの少女に手を差し伸べてやるつもりなど毛頭ありませんでした。あの時の心境であれば、そのまま、少女のか弱い手から紙幣を奪って、その上で蹴り倒すことだって、当たり前のようにできたでしょう。少女を残忍に殴り倒してやり、上から見下した方が、この心にはえもいわれぬ快感が湧いたと思われます。そうです、私にとっては、こんな汚い少女を相手に、一文にもならない善行を働く方が、よっぽど不可解なことに思われました。世の中にあまねく存在する聖人たちは、弱っている他人に優しくすすることで、いつかは、きっと自分にも満ち溢れた幸せがやってくるものだと子供をしつけ育てましたが、私にはそんな野暮な言葉はウンザリでした。


 それで……、ねえ、エメルトン夫人、あえて聞きますが、私はこの時どうしたと思われます? 少女を助けてやり薬屋へと連れて行ったのか、それとも有無を言わさずに蹴り飛ばしたのか。どうです? やはり、わかりませんか? そうでしょう。あなたの凡庸な思考回路では、この時の私の屈折した心境を理解できるわけはありません。結論から申し上げて、私はその少女を助けましたよ。ちゃんと手を引いて細い路地を数時間かけて進み、街で唯一の薬局まで連れて行きましたよ。薬をしっかりと手にして、病身の母の元に帰ることができた彼女が、感激してむせび泣いたのはご想像の通りです。私は自分の人生を描いた無数の悪行の絵巻物の中に、一つだけ気まぐれによる善行を刻み込んだのです。もちろん、障害者の少女を助けたという、こんな小さな出来事が、それからの私の言動や行動に何ら影響を与えたことはありませんけどね。私が他人に弱さに対して優しさを見せたのは、結局のところ、その一回だけでした。


 良家に生まれ育ち、将来、高僧になるために名門の神学校に通う前途ある神学生が酒の勢いで、あるいは、ほんの少しの気まぐれで、夜の街の女に一度だけ手を出したとて、そのことが彼の整然たる将来に対して何の影響も及ぼさないことと一緒です。人間は一生に一度くらいは、つまらない気まぐれを起こすものです。私が少女を助けた、この一件がまさにそれです。ここで説明するまでもなく、それからも私は何も変わりませんでした。次の日からは、弱者をさらに貧困へと追い詰めていく犯罪行為を平然と続けたわけです。もう一度、あの少女に出会うことがあったなら、今度こそは汚い道路の上に蹴り倒してやったことでしょう。それを証明すべく、私はその後の人生でも悪徳をずっと続けてきました。あの弱々しい少女が、その後どういった道を歩んだのかは知りません。幸福のさなかに成長したかもしれませんし、すでにこの世を去ったのかもしれません。しかし、このことが重要なのですが、私はあの少女を助けた瞬間に天に向かって吠えたのです。


『やい! 天の神よ! 聞いているか? そこにいるならば聞け! 俺は自分の主義に反して、あの少女を助けてやった。だが、こんなことは今生で一度きりだ。これから先は誰に諫められようと、生涯に渡って遠慮なく悪行を遂行させてもらう。おまえに少しの恩情があるなら、そして、俺のただ一度きりの善行を、少しでも認める気持ちがあるのなら、俺のこれからの悪行が、すべて己が利益へと変換され、ただの一度たりとも失敗などすることのないように見守ってくれ! 』


 そうです。私はいわば神に恩を売ったのです。自分の信条を曲げてまで行なった、あの一度の格別な人助けは、一般大衆から見て当たり前でも、私にとって、それだけ大きな意味があったからです。そうです、この大悪党に天使ミカエルのような善行を働かせておいて、お返しは何もないよ、では困るんです。本来ならば、偶然通りがかった善人かあるいは悪党と関わるはずだった少女の運命を、この私が拾い上げ、快く助けたのですからね。何かを受け取らねば、気は済みません。例え、五ドル札一枚でも、飴玉一つでも良いのです。このまま天界から何も降ってこないで、時間だけが虚しく過ぎ去ってしまえば、私の行為はすべて損になるところです。私は天空の神とやらに自分の将来の安泰を誓わせたのです。


 もちろん、いくら上を見上げていても、天空からの返事は何もありませんでした。雲の上に住む神々が、私の懸命な叫びを聞いて、いったい、どう思ったのかはわかるはずもありません。しかしながら、その効果はてきめんでした。私はそれからというもの、これまで試しもしなかった、どんな大胆な盗みを働いても、捕まることはありませんでした。神の加護を得てからの数年は、わざわざ大都会へと移住して、盗みの対象を高級ブランド店に絞っていきました。当然、安物の雑貨などは狙っていられません。我が身の安全について、いまや絶対の保証を得たのですからね。金は一文たりとも握っていなくとも、強気な態度で宝石貴金属店に入っていきました。スーツのポケットの内部を盗品の指輪だらけにして、大声で笑いながら、出入り口から堂々と出て行っても、警備員はもはや何も言いません。私がどうやって盗みを働いたのか、まるで、商品に手を伸ばした瞬間だけ、時が止まったかのように、誰も何も見ていませんでした。カウンターに立っていた濃紺スーツ姿の店員に至っては、貴重品を大量に盗まれておきながら、愛想の良い笑顔でいたくかしこまり『ありがとうございました。また、おいで下さいませ』などと言う始末です。


 少女を救い、神に己が強運を祈って以来、以前にも増して私の犯罪は人の目には映らなくなりました。今では、昼は大都市の高級ブランド店を片っ端から荒らしまわり、夜は社交界に出入りするようになりました。盗みを続けた結果、すでに一生働かなくても困らないだけの財産を手に入れました。私の能力であれば外車であろうが、五カラットのダイヤのネックレスだろうが、好きな時に手に入るのです。エメルトン夫人、いかがです?  同じ大金を得るなら、全てが運任せのくじなどより、私のようにドラマチックに手に入れた方が世間の評価は遥かに高いと思いますよ。最近の若者は私の人生のようなダイナミックなドラマを好むんです。これでもまだ、宝くじで得たお金の方が価値があると言い切れますか?」


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