1-5 出逢い

 ――通りゃんせ 通りゃんせ

   ここはどこの 細道じゃ

   天神様の 細道じゃ


 小声で口ずさみながら、和音は歩く。通学鞄を揺らし、長く伸びた己の影を踏んで、夕日に照らされた灰色の住宅街の十字路を、和音は一人、ただ歩く。

 通学路を逸れてから、十分ほどが経った。じきに道場へ到着するが、稽古の時間よりだいぶ早く着いてしまう。そうして手持ち無沙汰になると、また受験の事を思い出す。溜息を零して顔を上げると、濃い茜と紫紺色の影にひたひたと呑まれつつある住宅街の道路の果てには、小さな御山が開発から取り残されたようにぽつんと在って、長い石段が天に向かって続いていた。色の鳥居は夕焼けの輝きを受けて一層赤く染め抜かれ、木々の緑にいろどりを添えている。山へと分け入る石段前まで歩いた和音は、見上げた先に聳えるもう一つの鳥居に目を留めて、自然と石段を上り始めた。

 気が乗らない時に、無理に知識を詰めても仕方がない。自分の精神状態がたとえ僅かでも荒んでいるなら、きちんと労った方がいい。客観的な分析ができる程には自分の面倒を見られることに、和音は少し安心した。

 とん、と石段に足を掛け、一段掛けたら、もう一段。テンポよく石段を上がっていくと、細長い影も躍るように跳ねていく。夕刻の赤い光の中、そんな動きは少し不気味だ。人気のない神社へたった一人歩を進める心細さが、和音にそんな思考を強いるのだろうか。だが心持ちとしては少々愉快で、肝試し感覚に近かった。すっと息を吸い込むと、冷たい風が肺を洗う。気分転換が良い方向へ作用し始めたのを実感すると嬉しくなり、和音は再び、口ずさむ。


 ――ちょっと通して 下しゃんせ

   御用のないもの 通しゃせぬ

   この子の七つの お祝いに

   お札をおさめに 参ります

   行きはよいよい 帰りはこわい

   こわいながらも

   通りゃんせ 通りゃんせ


 いつしか唇に馴染んだこの唄は、和音の通う道場の師範が教えてくれた。博識な初老の男性で、和音の住む袴塚こづか市の歴史や文化にも精通しており、勉強面の相談も少しならできる。師範の興味の対象は日本文学や民俗学、童謡の類にまで及んでいて、唄もかなりの数をそらで唄える。道場では月に一回、地域の図書館と提携した絵本や紙芝居の読み聞かせの会も開かれるので、和音も覗きに行ったことがある。夢と優しさと勇敢さが詰まった物語にはつい惹き込まれる魅力があったが、中学生の和音には幼い子供向けの語り口が少し面映ゆく、純粋に楽しむには歳を取り過ぎたように思う。

 師範と出会って、もうすぐ三年になる。おかげで和音も、今ではたくさんの唄を諳で唄える。『通りゃんせ』というこの唄も、師範に教わったうちの一つだ。

 古い唄には、その歴史に見合った暗い情念の血が染みている気がする。歌詞の由来には諸説あるらしいが、師範はどうやらこの唄に、神隠し伝説の暗喩を見ているようなのだ。

 ――『行きはよいよい、帰りはこわい。境を一度越えたなら、現れるかもしれませんよ』

 この袴塚市の、御山の奥から――人を攫う存在が。

 ――『山より来りて、人を攫う存在は、様々な名で呼ばれます。あやかし化生けしょう、山の神――他には、天狗、異人さん等ですね。君達の帰宅があんまり遅いと、********に、攫われてしまうかもしれませんよ』

 柔らかい毛布のような温もりを持つアルトの声が、和音の耳に蘇る。師範は年少の門弟達をよくそのネタで脅かして、冗談めかして寄り道を戒めている。中学生ともなると適当に受け流したり笑い飛ばしたりで効果はいま一つだが、小学校低学年の門弟達はどきどきした様子で話に耳を傾けている。

 意味が不確かな、怖い唄。それでもリズムは身体に刻まれ、気づけば時折口ずさむ。恥ずかしいので人前では歌わないが、流行りの歌を口ずさむ自分より、師範が教えてくれた唄を口ずさむ自分の方が和音は好きだ。

 ――こんな体たらくだから、和音は演技を必要としたのだろうか。

 益体もなく考えているうちに、石段を上り切っていた。乾いた土と枯葉が冷たく香り、鳥居をくぐると石畳に散った玉砂利を踏んで、ローファーの裏でざらりと鳴った。夕刻の境内を見渡した和音はしばらく考え込んでから、小さな手水舎ちょうずやで手と口をすすいで清め、藍鼠あいねずの屋根に檜皮ひわだの柱、紅白の鈴緒すずおが目に鮮やかな拝殿へ向かった。朽ちかけた賽銭箱の前で立ち止まり、通学鞄から財布を取り出す。賽銭箱に五円玉が落ちる澄んだ音は、この御山の神様に届くだろうか。参拝作法を思い起こしながら鈴を鳴らした和音は、誰もいない境内で頭を下げた。

 特に何かを祈るわけではない。ただ、ここに少しの間居させてもらう事への筋を和音なりに通したかった。クラスメイトがこんな姿を見たら、馬鹿だと思うかもしれない。頭の端でそんなことを考えながら、和音は鳥居の真下まで戻って石段に腰かけると、鞄から文庫本を取り出した。

 ――『遠野物語』

 師範に勧められて買った本だが、この読書は途中までしか叶わない。最後の方のページは今日、なくなってしまったからだ。恨めしさがまた湧いたが、読める所までは読むつもりだ。

 この姿は、人が見れば惨めに映るだろうか。またしても漫然と考えたが、そんな感慨は活字を追うのに夢中になるにつれて消え去った。美術の課題に取り組んで、時を忘れた毬のように。

 だから、突然に声を掛けられるまで――和音は背後に迫っていた気配に、全く気づかなかったのだ。

「こんな所に座っていては、寒いでしょう」

「!」

 弾かれたように立ち上がった和音はたたらを踏んで、石段から片足を踏み外した。金魚のひれのような緋色の雲が泳ぐ水色の空が、拝殿を取り囲む鎮守の森の緑が、豊かな自然を守った神社の景色が、風車のようにぐるんと回る。すぐ傍に立った気配が息を呑み、腕がこちらに伸びてきた。

 だが和音はその手を借りずに身体を捩り、振り返り様に体勢を整えて着地した。ポニーテールに結った髪が、大きくたわんで頬を打つ。石段二段分だけ落ちた所で踏み止まると、和音の代わりに文庫本が玉砂利の上へ落ちていった。和音は境内を振り仰ぎ、大きく目を見開いた。

「あなたは……」

 先程までは和音一人しかいなかったはずの神域に現れたのは、この世の誰より浮世離れした、神の化身のような人だった。

 石段の終わり、鳥居の真下に――男が一人、立っていた。

 歳は、二十代半ば、あるいは後半辺りだろうか。夕刻の日差しを受けて立つ男は和装で、白い着物に浅葱色の袴を合わせている。出で立ちから神職に携わる人間だと判ったが、その装束は、男の容貌とは不釣り合いなものだった。

 夕暮れのそよ風に靡く髪は灰茶色で、朗らかな眼差しは赤い輝きの中でもはっきりと分かる青色を灯していた。夕陽の閃光は凄絶な美を湛えた男の立ち姿を血のような赤一色に染め上げて、神域の山から際立たせるように照らしていた。

 優美であるが故に、著しく人間味を欠いた麗姿を目の当たりにした、和音の胸に――まるで畏怖にも似た憧憬の念が、突如として押し寄せた。

 身体の奥が、ぞくりと委縮する。師範の顔が、脳裏を過った。門弟達へ茶目っ気たっぷりに怪談を仕込む、優しい風貌の初老の男。その唇から、紡がれる唄。神隠しの、暗喩。行きはよいよい、帰りはこわい――。

 ――『君達の帰宅があんまり遅いと――********に、攫われてしまうかもしれませんよ』

 腕に鳥肌が立ち、知識が突如として湧き上がるように閃いた。どうして今、それを連想したのか。理由など明白だ。読んでいたからだ。今の今まで。だから、分かる。分かってしまう。


 ――自分は、攫われてしまうのかもしれない。


 一瞬で、思考がそんな答えを弾き出した、途端――男が、小さく吹き出した。

「……え?」

 笑われた和音は、現実を呑み込めない。男は可笑しそうに肩を震わせてから、「驚かせてしまってすみません」と穏やかに言った。

「僕は天狗でも山の神様でも、赤ら顔の異人さんでもありません。人間ですのでご安心下さい」

「! 赤ら顔のって、どうして……!」

 ――赤ら顔の、異人さん。

 それこそが、師範が唄という警句で唱えた、子供を攫うモノの名前だった。

 だが、何故。まるで心を読まれたようだった。疑問の奔流に押し流されそうになった心を、気恥ずかしさが繋ぎ止めた。熱くなった頬を押さえた和音が「すみません」と小声で謝ると、男は文庫本を差し出した。

「佐々木和音さん。綺麗なお名前ですね。落し物ですよ」

「なんで、私の名前」

 言いかけて、すぐに制服の胸元に留めた名札に気づく。そうして一見外国人風の男が流暢に日本語を操り、漢字も読める事実に和音は驚いた。茫然としながら礼を述べて本を受け取ると、男は愛想よく微笑んだ。

「ああ、すみません。『和』の字を見つけたのが思いがけず嬉しかったもので、つい呼びかけてしまいました」

「『和』……?」

貴女あなたと同じく、僕の名前も『和』を含むのですよ。初めまして、僕は呉野和泉いずみと申します。ここの神主を務めております」

 朗々と、耳に心地の良い声で、男――呉野和泉はそう名乗った。

 和音の脳裏で、ちかりと光る名前があった。

 ――呉野……呉野?

「呉野、氷花さんの、まさか」

「やはりご学友でしたか。僕は氷花さんの兄です。妹がお世話になっております」

「あなたが……兄?」

 和音はぽかんとしてしまった。日本人形然とした氷花と、西洋人形然とした和泉。血の繋がりなど一滴も感じられず、何か特殊な事情があるとしか思えない。困惑していると、和泉は慣れているのか鷹揚に答えた。

「お察しの通り、血の繋がりは希薄ですが、皆無ではありません。不思議でしょう?」

「……はい。びっくりしました」

 容貌の隔たりも勿論だが、一番の乖離は間違いなく、彼等の目つきにあるだろう。氷花と体育館で出会った日の事を思い出す。怖気をふるうほど鋭く感じた眼光に、和音が意識を向けた、その時だった。

 ――全身に、悪寒が走った。

 身体の内側に手を挿し込まれて、臓腑をざらりと撫で上げられたような不快感が、疼痛となって襲ってきた。生理的嫌悪と官能がない交ぜになったような生ぬるい熱の手触りに息が詰まり、肌がぞわりと粟立った。

「……っ?」

 不快感から己を庇うように両腕を掻き抱くと、悪寒は徐々に十二月の肌寒さへ溶けていき、それこそ神が隠したように身体から消え去った。首を捻る和音の頭上から、声が粉雪のように降ってくる。

「……妹とは、一度も会話をされていないのですね」

「それが、どうかしましたか……?」

 和装の異邦人は、和音の疑問に答えなかった。ただ、いつしか真剣みを帯びていた青色の目で和音を見つめ、吐息をついた。

「間に合ったようで、何よりです」

「え、と……何の話ですか?」

 今初めて顔を合わせたばかりの人間に、何故だか身を案じられた。和音は当惑を顔に浮かべて和泉を見るが、和泉は先程までの真剣さを嘘のように綺麗に消して、嫋やかな笑みを浮かべていた。

 ――この人は、人の心が読めるのだろうか。

 突飛で馬鹿馬鹿しい考えだが、〝異人さん〟について言い当てられただけでなく、ここでは和音の言葉の先読みだってなされている。呉野和泉が神主だという話も、神通力のようなものの存在を疑う材料になっていた。そして神主という単語を脳が引き当てた時、はっと和音は相手を見上げた。

「えっと……呉野、さん」

「和泉で構いませんよ。妹と同じ呼び方では言い辛いでしょう」

「じゃあ……和泉さん。神主って仰いましたよね。でも、ここの神主さんって、もっとお爺ちゃんだったと思うんですけど……」

 この小さな御山に建つ神社は、森が広がるばかりで寂れている。正月の初詣ではちょっとした賑わいを見せるが、それ以外では大抵今日のように参拝する氏子はほぼいない。

 例外は、時折石畳を掃き清めている、背が低くて白髪の、凛と背筋を伸ばしたお爺さん神主だけだが――その老人の姿を、最近めっきり見なくなった事に今さら気づく。思わず口を噤んだ和音へ、現在の神主だと名乗った男は、労りの眼差しで囁いた。

「先代様は三か月ほど前に、お亡くなりになりました。僕はその跡を継ぐ為に、ここへ参りました」

「すみません……」

「謝ることではありませんよ。お気になさらないで下さい。心根がお優しいのですね、和音さん」

 涼やかな言葉と微笑が、花のように手向けられた。和音はさらりと名前を呼ばれてどぎまぎしたが、それよりも先程の発言でさらなる疑問が湧いた。

「跡を継ぐ? 和泉さんは、ここのお爺ちゃんと何か繋がりがあるんですか?」

 外国人でも日本の神職に携われることすら和音は知らなかったが、こうして目の前にいるのだから可能なのだろう。和音の知る先代神主は日本人だが、改めて間近に見つめた和泉の顔もどことなく東洋風に見えるので、日本人とのハーフだとしたら、流暢な日本語にも説明がつく。

「大まかには、当たりですね」

 質問しながらも思考を進める和音が興味深いのか、和泉は楽しげに楚々と笑うと、こちらの推測を肯定した。

「ややこしいお話になりますので、今は割愛させて頂きますが、先代様は僕の大切な家族でした。日本暮らしも結構な長さになりますね。和音さんは、先代様とはご親交がおありでしたか」

「いえ、特には。……でも」

 挨拶以外の会話を、交わしたことはない。だが、顔はきちんと覚えていた。それはきっと和音だけでなく、この袴塚市の住人達だって同じではないだろうか。

 多くの人々の記憶に焼き付いた誰かの、突然の訃報。悲しみを覚えるほどの交友はなくとも悼まずにはいられない、何故だか引き留められているような思慕めいた情動で、胸が詰まる。

「……もう、いないんですね。お爺ちゃん」

 麗しく微笑んだ男はやがて、「ええ」と確かな哀悼に染まった声で応えた。家族の温度が風に乗って、下界から運ばれてきた夕餉の匂いと共に届いた気がしたから、この人物は本当にあの神主の遺族だったのだ、と。異国の風貌も神通力も関係なく、本質的な部分で理解できた気がした。

「実を言うと、僕は貴女を探していました。少しの間、僕と話をしませんか」

「私を?」

 和音は驚いたが、短く思案してから石段へ再び腰かけた。少し変わり者らしい神主は、和音が申し出を呑んだことが嬉しかったようで、浅葱色の袴を整えながら隣に腰を下ろした。笑みの優美さは本当に、妹の氷花とは似ても似つかない。

 神の使いのようなこの男は、何を考えているのだろう。異邦の男が和音に声を掛けたのは、何も一人ぼっちで寂しく本を読む女子中学生を気遣っての事ではなかったのだ。帰り道の見えない森へ踏み込むような気分だったが、一人ではなく二人なのだ。行きも帰りも、怖くない。心を決めた和音は会話を続行する為に、美しい男の瞳を覗き込んだ。

 茜色の空を精緻に映した青い世界は、薄紫色を羽衣のように纏っていて、人が山へと攫われるにはうってつけの、彼誰時の色をしていた。

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