第8話 酷い話ですよ、本当。

 十二月三十日。


 気付けば明日で今年も終わり。

 いつもなら家族と共に家でダラダラ過ごすであろう今日、僕は雪葉と二人で出かけていた。


「永遠くーん! これは? 」


 この街で一番大きいスーパーマーケットで、ワンピース姿の雪葉が手招きする。

 カートを押しながら彼女の元に近付き、視線を雪葉の手に落とす。

「あー、丁度いいかも。値段も安いし。」

 雪葉が持っていたのは蕎麦粉だった。

 稲月家では毎年大晦日になると、年越し蕎麦を手作りする風習がある。

 今日は年越しの為の買い物に来ていたのだ。


 白いワンピースに小さな茶色のショルダーバッグを身に付けて、雪葉は子供のようにはしゃぎ回る。

 電光に当たると、彼女の髪はいつも以上に茶色く輝いていた。


 そんな彼女を見て、僕は呆れながらに笑みを零す。

 心にすっと落ちてくるこの気持ちが『安らぐ』ということなのだと知ったのは、本当についさっきの話だ。

 人に安らぎや安心を求める事なんて今までなかったけれど、この感覚がきっとそれなのだろう。


 聖母マリアにそういった感情を求める人間の事を、僕は初めて理解した。

 ……まあ、雪葉が聖母なんて笑うけど。

 あまりにも彼女とはかけ離れすぎて、クスリと笑えてしまう。

 僕よりも先を歩く彼女の笑顔は、聖母というより太陽に近い気がしたから。

 全てを優しく包み込むというよりも、全てを優しく照らしてくれる。暖かい陽だまりの様に。


「永遠くん、買い忘れは無い?」


 レジで会計待ちをしていると、雪葉が確認をとる。

 僕自身、少し心配になりながらカゴの中を確認し、「大丈夫そう」と彼女に答えた。

 大きなレジ袋いっぱいに買ったものを詰め込み、それを僕が持つ。

 出口に向かおうとすると、斜め前で楽しげに笑っている男女を見つけた。

 その人達を見て、ふとある言葉が思い浮かぶ。


「私達、新婚さんみたいだね。」


 その言葉に雪葉の方を見ると、丁度目が合う。

 にこりと微笑みながら僕を見つめる雪葉を見て、なんだか心が痛んだ。

 多分それは、彼女の笑みがあまりにも辛そうで、悲しそうで。けれど、ただ静かに笑う雪葉の姿が、僕にはとても痛々しく思えた。

 彼女がこの時、どんな事を考えていたのかは分からないけれど、僕は彼女が放った言葉に答える事しかできない。

「まだまだだろ。僕達は高校生なんだから。あと何年も先の話になりそうだ。」

 当たり障りのない返答をしてから、僕は出口の扉をくぐる。

 雪葉に背を向けたのは、これ以上彼女の悲しい悲痛な笑みを見たくなかったから。


 そして、彼女への感情にまだ気付きたくなかったから。




 帰り道、二人で横並びに歩いていると、雪葉があるものを見つけた。

「永遠くん、ここ喫茶店みたいだよー! 」

 そこは、古びたレンガの家。入口のドアには『OPEN』と書かれた札がかけてある。

 何度も通ってきた道なのに、こんな所に喫茶店があったなんて知らなかった。

 ひっそりとした静かな佇まいに、僕も少しずつ興味を惹かれていく。


「休憩がてら入ってみるか。」


 そう言って、ドアノブに手をかける。

 ギーっという軋む音と、鈴のチリンという音が混ざり合って、僕達を店内へと誘った。

 中は不思議な香りが充満している。

 コーヒーの香り。

 木の香り。

 ホットサンドが焼ける香り。

 他にも幾つもの香りが混ざり合い、独特な香りを醸し出している。


「いらっしゃいませー。」


 黒と白を基調としたベーシックな制服に身を包んでやって来たのは一人の少女だった。

 僕達と同い年くらいの可愛らしい少女。目を引く点と言えば、彼女の髪くらいなものだ。

 絹のように細い髪は、太陽を包む空の様な美しさを放つ。肩に付くくらいの髪を小さく一つ結びにして、仕事に支障を来さない様にしていた。

 日本人とはかけ離れた髪色の少女は、「お二人様ですか?」と丁寧に聞いてきた。

「はい、二人です」

 雪葉がそう答えると、少女は少しぎこちない笑顔で「ご案内します」と席まで誘導する。

 大人しそうな彼女の後ろ姿は、どうしてだか初対面な気がしなかった。

 店内を見渡すと、僕達以外に客はおらず、クラシックな音楽が子守唄のように響いていた。

 二人用の席に向かい合わせで座りながら、メニュー表を見る。

 様々なメニューが写真と共に並んでいて、どれも美味しそうに感じる。

 そういえばお昼をまだ食べていなかった、と気付いたのは、丁度この時だった。

 お冷を持ってきてくれた少女に「おすすめは何ですか?」と尋ねてみると、彼女は嫌な顔一つせずに教えてくれた。

「この時期は冬野菜をふんだんに使ったクリームシチューがおすすめですよ。」

 柔らかな空気を纏った少女が指した写真には、美味しそうなクリームシチューが写っている。

 今日はかなり冷え込んでいるのもあって、僕はそのクリームシチューを頼む事にした。

 雪葉はというと、その隣に写っていた写真に目がいったらしい。


 数分ほど二人で雑談を交わしていると、先程の少女が僕達の前に現れた。

 手に乗っているお盆の上からは、お腹を刺激するいい香りが僕を誘った。

「お待たせしました。こちらが『冬野菜のクリームシチュー』になります。そしてこちらは『タラのポワレ』です。」

 湯気がもくもくと浮かぶ料理が僕達の前に並ぶ。

 食欲が掻き立てられる匂いが僕の鼻を通り抜けていった。

 雪葉の前に置いてあるのはポワレという料理らしく、焼いたタラの切り身と、クリームシチューのような白いスープが皿に乗っていた。


「ポワレ、というのはフランスの料理なんです。焼いたお肉やお魚をスープに浮かばせたものをポワレと呼びます。本日は白味噌を隠し味に使用しているので、味噌のコクとホワイトソースの深みを味わってみてください。」

 料理を僕達の前に並べながら、丁寧に説明してくれる。

 雪葉は目を輝かせながら「はい! いただきます!」とお腹を空かせている様子だった。

 料理が冷めてはいけないし、早速食べる事にする。

 シチュを少し深いスプーンですくい上げて、喉に通す。

 口の中で濃厚な牛乳の味が広がっていく。

 冬野菜も、食べ応えある大きさなのに、スプーンですぐに崩れてしまうほど柔らかかった。

 程よい温かさが全身に染み渡っていくのを感じながら、シチュの旨味を堪能する。

 滑らかな舌触りが、なんとも癖になってしまった。

 雪葉も雪葉で、ポワレを堪能している様子だ。

 柔らかく、けれども厚みがあるタラをホワイトスープに絡ませてから口に運ぶ。

 何度か咀嚼したあと、口から漏れ出たのは幸せそうなため息だった。

 言葉に出さずとも、彼女の顔にはデカデカと『美味しい 幸せ』と書いてある。


 僕も雪葉もお互いの料理を満喫していて、すぐに食べ終わってしまった。

「はぁ〜美味しかった……。」

 雪葉は満足そうに自分のお腹をさすりながら、椅子の背もたれに寄りかかる。

「此処に来て正解だったな。」

「うん! 幸せだったよー! 」

 そんな事を二人で話していると、僕にはの会話に割って入ってくるかのように声が聞こえた。


「——喜んでいただけて何よりです。」


 その声が、料理を運んでくれたあの少女では無いことはすぐに分かった。

 似ても似つかない男性の声。

 僕と雪葉が揃ってその声の方に向くと、そこには黒髪の人が立っている。

 にこりと笑ってはいるものの、何故かその笑顔は僕の心をざわつかせた。


「……あ、すみません。名前も名乗らず、急に話を遮ってしまって。私は紫蘭と言います。この店のオーナーです。」


 どうしてオーナーさんが僕達に声をかけてくれたのか、と意味が分からないでいると、少しして聞き覚えのある少女の声が厨房の方から聞こえてきた。


「あー!紫蘭、何してるの!? 」


 今まで聞いた中で一番大きな声で、オーナーの紫蘭さんに近づいて行く。

 眉間にシワを寄せた姿は、怒っているのにもかかわらず、どこか可愛らしさが抜け切れていない。

 真剣な彼女の表情とは裏腹に、紫蘭さんは楽しげに笑っていた。

「おや、蘭月。そのように不機嫌な顔をしていたら、いくら顔が可愛くても異性にモテませんよ。」

 その言葉に、蘭月と呼ばれた少女は、大きな靴音を鳴らせていた足をピタリと止めて顔を赤らめる。

 元の肌が真っ白なだけに、耳まで赤くなった姿はタコみたいに茹で上がっていた。

「そ、それ、今は関係ないだろ! 第一、お客様が困ってるし! それに僕だって、紫蘭の前以外なら怒らないから! 」

 自分自身を『僕』と呼びながら、紫蘭さんを強く睨み付ける。

 紫蘭さんはハハハと楽しそうに笑っていた。

 二人の独特な雰囲気に、訳もわからず戸惑っていると、雪葉は「仲が良いんですね」と微笑んでいた。

「仲が良い……ように見えますか? 僕と紫蘭が? 」

「はい、とても。まるで家族みたいです。」

 雪葉の言葉に、不服そうな蘭月さんは、紫蘭の耳をグイッと引っ張る。

「紫蘭、早く要件を言え。何か言いたい事があったんだろ。お二人をいつまで足止めする気?」

 紫蘭は何かを思い出したかのように「ああ、そうでした」と手を叩いた。


「こちらを貰って頂きたくて、お声がけしたのです。」


 そう言って紫蘭さんがポケットから取り出したのは、小さなクッキーの袋だった。

 少し茶色の焦げ目がついた、美味しそうなクッキー。

「いいんですか? 」

 僕がそう尋ねると、紫蘭さんは笑顔を変えることなくコクリと頷いた。

「試作品ですし、感想をお聞き出来ればと。」

 僕と雪葉は一つずつ袋を手にし、その紐を解いた。

 袋を開けてみると、紅茶の優雅な香りがふわりと鼻を抜ける。

 クッキーを一枚手にすると、「ハーブティーのクッキーです。」と紫蘭さんが教えてくれた。

 一口かじってみると、ハーブティーの香りと、程よい甘みが口の中いっぱいに広がった。


「……美味い、です。」


 正直、僕はあまり甘味系が得意ではない。

 けれど、このクッキーは甘すぎず、ハーブティーの茶葉の味が引き立っていて、とても食べやすかった。

「うん、ほんとに美味しい!すぐにでも販売できちゃいますよ!」

 雪葉の言葉に、僕はこくこくと頷く。

 紫蘭さんは少し眉尻を落として柔らかげな笑顔で「喜んでいただけて嬉しいです。」と言った。


 蘭月さんは優しい笑みで僕達に話をしてくれる。

「そのハーブティーは、紫蘭が厳選した特別な茶葉を使用しているんです。茶葉自体から甘さが出ているので、砂糖は使っていないんですよ。」


 蘭月さんの説明に関心していると、店の古時計から深い音が鳴り響いた。

「……もうこんな時間! そろそろ帰らないとだね、永遠くん。」

 時計を見てみると、もう既に三時を回っていた。

 確かに、少し長居しすぎたみたいだ。

 椅子から腰を上げて、荷物をまとめる。

「おあいそお願いします。」


 レジでの会計が済んだ後、蘭月さんはこっそり僕と雪葉に耳打ちした。

「あの、紫蘭はあんな奴ですけど、どうか嫌いにならないでください。ろくでなしでもいい所はあるんです。……だから、その……。」

 もじもじと、その続きを躊躇う蘭月さんに、僕は笑って答えた。


「はい、また来ます。」


 僕につられるように、にっこりと微笑んだ蘭月さんが、あまりに可愛らしくて、言葉を失ってしまう。

 横目で僕を見る雪葉の視線が痛かったけれど、それは気にしない事にした。


 帰り際、雪葉が不満そうに口を尖らせる。

「蘭月さんに鼻の下伸ばすなんて、永遠くんの変態。」

 肩を飛び跳ねて彼女の方を見る。

 じーっと上目遣いで僕を見ながら頬をぷくりと膨らませていた。

 不服にも、そんな彼女の姿にドキッとしてしまう。

「ち、違うし! そんなんじゃないから! 」

 焦りながら否定すると、「ほんとかなぁ。」と信じていない様子だった。


 第一、僕みたいなコミュ障が、女の子の笑顔に弱いのは当たり前じゃないか!

 耐性ないんだよ、そういうの!

 なんて心の中で不満を漏らしながら、雪葉の隣を歩く。

「まあ、永遠くんの事なら私が一番知ってるからね。嘘じゃない事くらい分かっちゃうよ。」


 時折、雪葉の言葉が理解出来ない時がある。

 彼女が何かを隠しているのは、何となく察していたけれど、それが何かなのかは深く聞かなかった。

 それを聞いてしまったら何かが変わりそうで、何かが壊れてしまいそうで。

 いつか、彼女の口から聞ける時を待とう。

 少し長い帰り道、そんな事を考えながら家路に着いた。


 ‎✿ ‎


 カラン。

 ドアが閉まる合図、鈴の音が鳴り響く。

 お客の居なくなった店内は、静寂で満ちていた。


「帰りましたね、お二人共。」


 後片付けをしている蘭月に近付いてきたのは、この店のオーナー、紫蘭だった。

 片付ける手を止めることなく、蘭月は紫蘭に尋ねる。

「変わるのかな、何か。」

 それが質問だったのか、それとも蘭月の一人言なのか。

 そんな事を考える余地なく、紫蘭は言葉を続ける。


「さあ、それは我々が決めることではないでしょう。この世界の主人公で在るべき人物は別にいますから。」


『この世界の主人公』。その言葉の意味を蘭月は悟っていた。

 けれど、一つだけ、蘭月は疑問に思う。


 それはこの物語の結末。


 もし、主人公がいるのなら。結末は主人公にとってハッピーエンドの終わり方になるのか。

 それとも誰も望まないバットエンドになるのか。

 それはきっと、紫蘭の言う通り蘭月達には分からない。


 その答えを知っている者がいるのなら、人はそれを『神』と呼ぶのだろう。


 ならこの物語は。

 ならこの世界は。


 神の我儘によって出来た代物だろう。


「——酷い話ですよ、本当。」


 紫蘭が何を考えてその言葉を呟いたのかは分からない。

 でも、僕達ができることは明確になっている。

「僕らのやる事は一つだけだよ、紫蘭。」

 食器を片付け、テーブルを拭き、蘭月は店の前に出る。

『OPEN』と書かれた札を『CLOSE』に変えてから、再び店内に戻ると、何やら悪巧みの笑顔を浮かべた紫蘭がそこには立っていた。


「そう、我々はただ願いを叶えるだけですよ。それがどんな結末を迎えるとしても。」


 この二人が何者なのか。そして目的は何なのか。

 それを知る日が来るのは、まだ遠く先の事になるだろう。

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