最終話 いつか桜の降る頃に

 ✿


 ——彼女がいなくなってから何度目の春が来たのだろう。


「永遠ー!子供の面倒見ててー!」

 その声に反応するように、僕はパタパタとスリッパを鳴らせた。

「はーい!」

 僕はいつの間にか大学を卒業し、就職して……結婚した。

 彼女のいない日は、時間が経つに連れて、やがて日常へと変わる。それでも僕が雪葉を忘れた日なんて一度もない。

 たまに、ふと彼女の手紙を読み返しては、あの冬休みの日々を思い出す。

 それと同時に、感傷に浸っては無性に胸が苦しくなる時もしばしばだ。

 人生で一番幸福に満ちていたあの日々にはもう戻れないのだと分かっていても、どうしてか過去を振り返ってしまう。

 今の僕は、子供もいて、幸せな家庭を築いている。

 もちろん今の嫁も大切だ。けれど今の僕がいるのは紛れもなく雪葉がいたから。だから僕は雪葉をずっと思い続ける。それだけはこの生涯で揺らぐことの無い事実だ。

 今の嫁もその事を全て理解した上で僕を選んでくれた。

 こんなことを自分で言うのは違うかもしれないけれど、僕は本当に恵まれてるなと感じる。


 僕は雪葉の願い通り、前を向いて歩いている。

 時には辛い事や、挫折も味わった。雪葉がいなくなってからの日々が、楽しいと思えるまでには、かなりの時間を要した。

 それでも、僕がこうして今を生きているのは間違いなく、周りの支えがあったから。

 そして何より、雪葉の手紙があったから。

 今の僕を見たら、雪葉はなんて言うだろう。

『随分と大人になったね』とか『頼もしくなったね』とか?

 どちらにしても、雪葉が僕をからかわないなんて、有り得ないだろうな。

 僕の弱点や盲点を見つけては、これ見よがしに弄ってくるに違いない。

 出会いから三年経っても、そうだったのだから。

 そんな事を考えていると、窓から桜の花びらが落ちていくのが見える。

 春が来ると雪葉をどうしようもなく思い出してしまうんだ。

「今日少し出てくる。」

「それは大丈夫だけど……遅くなるの?」

「……ああ、少しだけ。」

 何処か遠くを見つめる瞳には、あの日の彼女の姿が写りこんでいた。




 私服姿で、向かったのはあの病院だった。

 ここの桜は変わらない。あの日見たままだ。それが懐かし様な、切ない様な。

 様々な思いが入り交じって、少し心が締め付けられてる。

「あ、永遠くん!」

「久しぶり、永遠。」

 歩いていると、遠くから二つの人影が見えた。

 芝生にレジャーシートを敷いて、こちらに大きく手を振っている。

 その姿に、今まで苦しかった心がスっと軽くなった。

 自然と頬が緩んで、二人の名前を呼ぶ。

「海花、秋上。」

 春になると、僕達三人はこの場所に集まる。みんな成人しているので最近は酒を持ち寄る事が多い。

「それじゃあ、永遠くん、秋上! いくよー!」

 缶を持ち上げて、ニヤッと笑う海花が合図をすると、三人で空に向かって叫んだ。

「「「乾杯!」」」

 ビール缶や缶チューハイをぶつけ合って、お花見が始まった。僕と海花の間には、もう一つ開けっ放しのジュースが置いてある。これは他の誰でもない、雪葉の飲み物だ。

「っぷはぁー!にしてもよく病院側も毎年ここの桜貸してくれるよねぇ」

 ごくごくとチューハイを飲みながら海花は病棟を見る。

 その姿は、何処かの中年おじさんみたいで、なんだか笑ってしまった。

 そう。ここは病院の桜。あの時雪葉と見た桜達なのだ。

 実はあの時、雪葉の身支度を手伝ってくれた看護士が看護婦長に大出世し、僕達にここの桜を貸してくれるように病院側に取り計らってくれたのだ。

 人の縁とは凄いものだと今になって思う。

「そういえば海花。仕事休んで大丈夫なの? 」

 ふと気になって海花に尋ねてみると、自慢げに笑って答えてくれた。

「まあね、頼んだら許してくれたのよ。」

 海花は市内図書館の職員として働いている。最近人がいなくてと愚痴っていたが、なんやなんやと上手くやっているらしい。

「海花、この前まで死んだ魚の目してたくせに。」

 秋上が、ボソッと呟いた言葉に、「なっ!言わないでよー!」と、海花が口を尖らせる。

 秋上はバイク屋で働いているそうだ。ご自慢のバイク知識を存分に発揮出来ると息巻いていた。

 海花も秋上も、色々と充実しているようで安心する。

 二人とも忙しい筈なのにいつもこの日だけは時間を作ってくれる。

 雪葉は愛されてるな、としみじみ感じた。

「永遠は? 奥さん専業主婦になったんでしょ? 」

 秋上は僕に話題を振る。海花は静かに僕を見ていた。あまりいい答えはできないけれど、取り敢えず返事をする。

「今も変わらず社畜してるよ。まあ、給料は良くなったけどな。」

 自分で言いながら、二人と比べて詰まらない話だと笑みを零す。

 その言葉に「もしかして出世? 」なんて海花がしつこいから、そこからは僕の日常の話が始まった。とは言っても仕事して、子供の面倒や家事を手伝う話だけど。

 そんな話をすると、海花は「いいなー結婚生活ー。」と羨ましそうにしていた。そこに秋上が「海花もいい相手見つけなくちゃね。」と弄る。

 集まる頻度は学生の時に比べたらかなり減ったかもしれないけど、笑いが絶えないのは昔のままだ。


 酒を飲みながら笑っていると、ふと視線を落とす。

 その先には、缶の元に桜が舞い落ちる光景だけが広がっていた。

 絶対に中の飲み物が減ることがない缶。

 雪葉がもしも生きていたら。そんなことを考えてしまう。

 三人じゃなくて四人だったら。きっと誰よりも騒いで誰よりも人をいじって、誰よりも笑うんだろう。

 そんな想像をすると、少し心が苦しくなる。


 あの日の光景は今でも覚えている。絶望したことも、あの時の決意も。全然忘れない。

 一度は生きる意味を無くした。辛くて、苦しくて、痛くて、全てを捨ててしまいたいと思ってた。

 でも。だからこそ僕は前を向いて生きるんだ。雪葉の分まで生き続けるんだ。

 それが雪葉の願いだから。僕の責務だから。少し前まではそんな事を考えていたけれど、今は違う。

 僕が、そう望んだから。

 生きて生きて、生き抜いて。そしていつか雪葉に胸を張って言うんだ。


『——僕は、君に会えて幸せだったよ。』


 僕はいつもこの時期になると彼女を思い出す。

 彼女という人間がいた事を僕は一生忘れない。

 あの日、彼女に出会ったから。

 あの日、彼女が本当の事を話してくれたから。

 あの日、彼女が目を覚ましたから。

 あの日、彼女が笑ったから。

 あの日、彼女が消えたから。

 あの日、彼女が手紙を残したから。

 だから今を生きることが出来る。

 だから僕は敢えて言おう。


 ——雪葉という人間が大好きだったと。


 未練なんてない、なんて言えば嘘になる。けれど僕はそれでいいんだと思う。未練があるから、僕は彼女を忘れないでいられるんだ。


 君に恋をしたのは、笑う姿が美しかったから。

 君に恋をしたのは、いつも僕を振り回すから。

 ……いやそれは全部口実に過ぎないだろう。

 きっと、君に恋をした理由なんて、無かったんだ。


 ——ただ君が色織雪葉だったから。


 だから、僕は君に恋をしたんだよ。雪葉。


 そんなことを考えながら僕は空を仰ぐ。空からはあの時の同じような桜の雨が降ってきた。

 くだらない夢妄想だけれど、いつかまた、君に会えたら。その時はどんな話をしようか。

 今にも、未来にも君はいないけれど、夢の中なら会えるかもしれない。

 いつか桜の降る頃に、君の笑顔を見に行こう。

 その時、君はどんな顔をするのだろうか。

 いつもみたいに、全てを知った顔で笑うのだろうか。

 ちょっとだけ驚いてから笑うのだろうか。

 それとも……いや、僕は知っている。


 ——君は、満開の桜みたいに笑うんだ、


 なんだ。随分と時間はかかったけれど、僕だって君の事ならなんでも分かるようになったみたいだよ。

 それが嬉しいような、少し自分でも呆れてしまうような。

 ……うん、でもやっぱり嬉しい。


 そんな事を考えながら、僕は穏やかな風に身を任せる。

 目を瞑ってそして……。


 ——そしてまた思い出す。真冬に出会った女の子の事を。

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