第7話 カルトロジック その1

 なぜ、教師を憎むようになったのか。いったい、いつから教師を信用しなくなったのか。


 それは、わたしがこの数年で何度も訊かれた質問でした。もしかしたら最も訊かれた質問かもしれません。そして、それはわたし自身、何度も自分に問いかけてきたことに違いありませんでした。その上、答えの解りきっている質問でもありました。


 いつから信用しなくなったのか。そう訊かれれば、「最初からだ」とした答えようがありません。


 ゴジラ先生に始まり、わたしは小学校生活の間に幾人もの教師と付き合ってきました。しかし、その誰一人として信用することができなかったのです。尊敬することができなかったのです。


 それは何も、自分がのろまだったがために――「ズレ」ていたがためによく叱られた、そのことを根に持っているというだけではありません。


 サンタの話を思い出してください。わたしの家庭ではあらかじめ、そのファンタジーを信じる機会を奪われていました。教師に対する考えもまた同様だったのです。


 ええ、そうです。サンタの時と同じでした。やはり大きかったのが母の影響です。教団の影響です。わたしの不幸は、学校と家庭、それぞれがまったく別の方向に極端な思想を持っていたことでした。決して相容れないことでした。子供だったわたしはその両者の間で翻弄されることになります。


 教師の云うことはあまり信用してはいけない――それが母の口癖のようなものでした。彼らは「日教組」と呼ばれる偏った思想の持ち主なのだと。家庭訪問など先生と顔を合わせる機会には愛想のいい笑みを浮かべながら、子供の前ではそのような不信をはっきりと口にする母。その二面性に困惑しなかったわけではありませんが、やはり、わたしには母の言葉が何よりでしたから、先生と母、どちらを信用するかといえばそれはもう答えは決まっていました。


 そういうわけですから、わたしにとって教師が尊敬すべき大人だとかお手本にすべき人生の先輩などという考え方は、サンタの存在同様、益体もない幻想に過ぎませんでした。わたしはそんな理想的な教師像というものを一度も信じたことがないのです。


 それに、教師と何かと問題を起こすわたしにはその方がよっぽど都合がよかったのです。わたしが叱られ、つらい目に遭うのはなんらいわれのないことなのだと、悪いのはすべて教師の方なのだと責任転嫁できたのですから。 


 そのような認識がありましたから、わたしは教師の叱責を受けて反省らしい反省を覚えたことは一度もありませんでした――あの給食のボールの件で叱られたときからずっと。うつむき、涙を流しながらもわたしの胸を満たしていたのは、教師への不信、それだけでした。


 また事実として、教師たちの言動にはいま振り返ってみても到底納得できかねるようなものが多々ありました。


 たとえば、生徒間でけんかが起こったときです。わたしも何度か経験のあることなのですが、最初に手をあげた生徒のみならず、やり返した生徒にも叱責を与えるのが教師たちの常でした。


 ――やり返したら、やり返した方が悪くなってしまうんです。


 そう云ったのはどの先生だったでしょう。いっそ、わたしも教師たちを思う存分殴っておけばよかったと今になって後悔します――それが、教師たちの信念を確かめる何よりの方法だったのですから。


 それに加えてわたしの通っていた小学校は「人権教育」というものが盛んでした。何かにつけては「差別はいけない」というメッセージを教育の中に組み込んでくるのです。


 学校の「差別」というものに対するアレルギーはいっそ過敏すぎるほどで、たとえば校舎の中でちょっとしたらくがき――「障害者」、「韓国人」などを貶めるような内容です――が見つかっただけでも授業を潰して全校集会を開くほどでした。それだけならまだしも、生徒間で何かいざこざがあった場合、それらマイノリティの子供が優遇される傾向にあったのは他の子供たちにとって面白くない事実でした。逆差別――そんな言葉を母の口からよく聞いたものです。


 ――先生は国歌を歌わへんぞ。


 そう宣言する教師もいました。そのご立派な考えの是非を問うつもりはありません。ただ、それを生徒の前で胸を張るように云うのはどうなのでしょう。教育者としてのフェアネスに欠ける行いだったような気がしてなりません。


 フェアネス。そうです。これもまた母に植え付けられた種から芽吹いたあだ花なのでしょう。わたしは物事の公正さ、あるいは正義というものに人一倍こだわる子供でした。


 わたしは四年生の時分にはもう新聞を読むようになっており、世の中で起こる醜悪、悲惨に対して毎朝怒りと悲しみを新たにして学校へと向かうようになっていました。どこか遠い国で起こっている戦争のように地に足の着かない観念だった「汚れた(堕落した)世界」というものが、徐々に現実のものとして理解できるようになりつつあったのです。そして教師たちの理不尽もその「汚れ」の一部に違いありませんでした。


 正義感が発達するにしたがって、わたしは彼らを極めて意識的に憎むようになりました。理不尽な仕打ちを強いる教師たちへの怒り、虐げられた者が圧制者に対して抱く怒りは、ここにきて罪人に対する憎悪、異端審問官が魔女に対して覚える憎悪に取って代わったのです。


 尤も、いまのわたしにとってこの正義感、あるいは良心というものほど疑わしい観念もありません。わたしはこの年に至るまでとうとう神を捨てることができませんでしたが、この良心というものだけはもう一切信じることができないのです。結局は人間のエゴではないか。保身ではないか。体のいい憂さ晴らしに後付けで理由をさがしているだけではないかと、疑ってしまうのです。


 わたしは何も人間のエゴイズムを否定しようというのではありません。けれど、エゴの一形態であることに無自覚な良心ほど胡散臭いものもないと思うのです。人間に善性なるものがあるとすれば、それは良心や倫理のうそ臭さを知った上でそれを演じることにあるのではないでしょうか。


 もちろん、十歳の子供にそんなことが解ろうはずもありません。わたしは無邪気に神を信じ、正義を信じ、自分の良心を信じていました。教師たちこそが討つべき悪なのだと信じていました。それはおそらく、自分は特別なのだという意識、神を信じていることの優越、信者としての自負によるものが大きかったのでしょう。正義を信奉することは、そのまま自尊心の保証につながりました。選民思想とは、とても甘い、甘い蜜でした(ですから、宗教的な理由で起こる戦争というのも、わたしにはちっとも理解できないことではありません)。


 わたしは教師という幻想を信じたことがありませんでした。教師という人種を憎んでいました。しかし、教師という属性を離れた一人の人間としてというなら話は違ってきます。


 S先生はわたしが四年生のときの担任でした。禿頭の、眼鏡をかけた中年の男性教師で、見た目こそはおっかないものの、基本的には気遣いのできる優しい先生で、ユーモアもあり、授業中に幾度となくわれわれ生徒の笑いを誘ったものでした。ええ、わたしにとっても決して嫌いな先生ではなかったのです。


 この頃、わたしは同じクラスのFという女の子とちょっとした因縁がありました。Fは髪を頭の高い位置でとうもろこしの房のように結っている女の子でした。釣り上がった目じりから連想されるとおり、勝気な性格をしており、それがためにわたしとは何度も衝突することになったのです。


 その最初の衝突がなんだったかまでは覚えてませんが、対立が決定的になったのは図工の時間でのいざこざが原因だったように思います。当時、わたしたちはあらかじめ選んだ木材(形も大きさもばらばらの木片でした)とボンドを使って、思い思いの立体物の制作に取り組んでいました。ある時間、わたしが鳥を模した工作を組み立てているところに声をかけてたのがFでした。


 ――それ、わたしのだから返してくんない?


 それ、というのが何を指すのか解りませんでした。


 ――その木、わたしが最初に取ったのなんだけど。


 Fは云いました。どうやら、わたしが鳥の翼に使った木材のことを云っているようです。


 わたしたちは最初の時間にそれぞれ好きな木材をいくつか選び、制作を始めていました。その時間に使わなかった木材は名前を書いたビニール袋に入れ、授業の終わりに回収することになっていました。そのプロセスのどこかで、自分の選んだ木材がわたしのところに紛れ込んだのだと、そうFは主張しているのでした。しかし、そんなことがあるでしょうか。確かに、わたしも選んだ木材のすべてを覚えているわけではありませんが、件の木材は紛れもなく自分のビニール袋から取り出して使ったものでした。断じて、Fの袋から盗んだりはしていません。なので、わたしは云いました。


 ――同じのだって証拠は?


 Fとの間に一触即発の空気が漂いました。


 ――いいから、返して!


 Fは鋭い口調で云いました。面倒だなあ、というのがわたしの心情でした。もしも、これがまだ使っていない木材だったなら、さっさと渡してしまったことでしょう。しかし、彼女が主張する木材はすでに鳥の翼としてボンドで固定した後でした。その鳥はわれながら見事な出来だったので、そのバランスを崩すのは面白くありませんでした。


 Fはそれをわざわざ剥がして自分に返せと云うのでしょうか。そもそも、これと同じような木材はいくらでもあるはずです。それをどうしてわざわざ、ここまでしつこく主張するのでしょう。


 ――新しいの、もらってくればいいでしょ。


 わたしは云いました。


 ――それじゃないとダメなの!


 わたしたちはしばらく不毛なやりとりを繰り広げました。わたしは折れず、Fもまた折れませんでした。事件が起こったのは一週間後のことでした。


 図工の時間、わたしが友達と話しながら図工教室へと入ると、すでにFの姿がありました。Fはわたしが入ってきたことに気づくと、なにやら意味深な笑みを浮かべました。なんだろう。そう思いながら、制作中の鳥を取りに行くと、ああ、なんということでしょう。その鳥は翼をもがれていました。何が起こったのか、犯人は誰か。そのWhatもWhoもわたしには解りきっていました。


 Fです。


 わたしがFの元に詰め寄ると、案の定、見覚えのある木目の木材が彼女の手にありました。無理に剥がしたためボンドの跡がはっきりと残っています。Fがそれをどう使うつもりだったのであれ、見た目には決して美しいものにはならないでしょう。それをわざわざわたしから奪ってもっていったのは、ひとえにわたしへの敵意、それ以外に考えられませんでした。


 わたしたちは先週に引き続いて衝突しました。「返せ」、「返さない」と先週とは逆の立場で云い合いを繰り広げたのです。周りにいた女子が何人かわたしたちをなだめにかかりますが、そんなことは知ったことではありませんでした。お互いに頭がヒートアップしていたのでしょう。お互い暴力に訴えるところまではいかなかったものの、その衝突は鐘が鳴るまで、S先生が教室にやってくるまで続きました。


 S先生はわたしたちのいさかいに気づくと、いつもの陽気はどこへやら、いかつい顔つきに真剣な表情を張り付かせ事情の説明を求めました。


 ――話を聞こか。


 それが先生の口癖でした。生徒同士のいさかいに関して偏見を持たず、常に双方の主張に耳を傾けるのが彼のスタンスだったのです。


 先手必勝、とばかりに話し始めたのはFでした。次いで、わたしがいっそ凄みさえ感じる先生の眼差しにびくびくしながら自分の事情を訴えました。


 わたしとFの主張が終わると、先生はいさかいの種となった木材を見せるように云いました。Fが半ば不本意そうにそれを渡すと、先生はそれが高価な壷か何かのように上から、下から眺め回しました。わたしは息を飲んで先生の裁定を待ちました。わたしもつまらないことで熱くなってしまったという反省がないでもなかったのです。なので、先生が次のような裁定を下したときは、心底ほっとしたものでした。


 先生はFに云いました。


 あるいは先生に不手際があったのかもしれない。だとしたら、謝るけれどもこうやって無理に奪うのは感心しない。話し合いで解決すべきだったと。そして最後に、「悪いけれど今回は■■(わたしの名前です)に譲ってもらえるか?」と。


 そうして、わたしには問題の木材を、Fには木材が入ったカゴからよく似たものを取り出して渡したのでした。


 やはりS先生はまだ信頼に値する――


 わたしはこの裁きに納得していたものの、一方のFは釈然としない様子でした。このとき、Fの心にはわたしへの敵意が火となって灯ったのでしょう。


 その火が再び燃え上がったのは、それから数週間後のことでした。

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