毒霧の一日

ある朝、起きたら、俺はシーツと掛け布団の間に挟まっていた。


良かった、今朝もちゃんとベッドで起きたぞ——ベッドから落ちて変な夢を見て起きるのは、良い朝とは言えない。あれ以来一度もベッドから落ちていないことにかすかな達成感を感じつつ、俺は目覚まし時計に手を伸ばした。

5時ちょうど。寝直すにも起きて準備を始めるにも微妙な時間だ。俺は薄暗がりの中、机の上のスマホを手に取った。毎朝やっているように、天気予報をチェックする。


『今日は一日曇り 毒霧ドクム注意報発令中、マスクとボンベの準備を』


毒霧注意報……?

耳慣れない言葉に、俺は首をひねった。こんな単語があったかどうかすら記憶に怪しいところだが、良いものではないことは明らかだ。クローゼットを開けると、スーツや普段着にまじって、2つの黒いレンズにチューブの伸びた呼吸器のついた濃いカーキ色の袋が1つ、チューブの伸びた革袋とともに収まっている。良かった、ひとまず大丈夫だ。俺は胸をなでおろすと、カーテンを開けた。


薄暗い空。どこかぼんやりした景色。なるほど毒霧もちゃんとした霧らしい。そんなことを考えながら、俺はキッチンでコップに一杯水を汲むと、半分を飲んで半分をサボテンにやった。嬉しそうに身をよじるサボテンを眺めて、ああ、今日も可愛いな、と、スマホのカメラを起動した。


町を歩く人々は、皆カバンとは別に濃いカーキ色の袋を提げている。あーあ、マスクとボンベまじ重いわー、とぼやく女子高生とすれ違いながら、俺はどこかで見たような色と形のマスクとボンベを思い描いた。もちろん、俺も濃いカーキ色の袋を提げている。一雨来てもおかしくない空模様なのに、そうではなくて有毒物質を含んだ気体が空気中に充満するというから不思議だ。もっとも、毒霧のあとには必ず雨が降る。そうして有毒物質をきれいさっぱり洗い落とした空気は、人々にまた無害な酸素を供給するのだ。


そういえば、空気清浄機はちゃんとつけてきたか?俺は不安になった——今日みたいな日は、留守の間空気清浄機を回しておかないと、家じゅうに毒霧が蔓延してしまうのだ。人間や動物はマスクとボンベで何とかなるが、家の中から毒素が消えるまでは飲み食いができないし、何よりサボテンが心配だ。スマホを取り出してハウスキープアプリを開き、家の状態を確認する。空気清浄機がちゃんと動いているのを確かめると、俺はニュースアプリを開いた。通勤時間はニュースに限る。俺は目の前に浮かび上がる記事の見出しにざっと目を通した。今日のニュースは毒霧についてのことばかりだ。アメリカで大規模な毒霧が発生した、ヨーロッパ全土に毒霧警戒情報が出た、日本でも毒霧注意報が発令中……なんだ、一体何が起こってるんだ?


このニュースを見て、俺はふと、そういえば毒霧って何だろうと思った。学校でも習った覚えはないし、ましてやニュースや天気予報で見たのも今日が初めてではないか。待てよ、そういえば今朝のサボテン——植物があんな風に動くなんて聞いたことがない。じゃあマスクとボンベは?さも当然のようにクローゼットに入っていたではないか。あの、どこかで見たことのあるような色と形——だが、それがどこか思い出す前に、俺は職場のあるビルに到着した。ロビーを突っ切ってエレベーターに乗り、オフィスのあるフロアで降りる頃には、不可解なあれこれは俺の思考から消えていた。


結局、今日もいつもどおり、何事もなく終わりを迎えた。

俺は部屋の電気を消して床に就いた。カーテンの向こうからは雨の音が聞こえる。キュッと身を震わせるサボテンに寒いか?と声をかけてやると、サボテンがコクコクと頷いた。俺は空気清浄機のスイッチを入れ、室温を高めに設定した。それからベッドに戻ると、掛け布団の上に横になって目を閉じた。

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