平気・二個ない・念のため


「ほら、遥」


 冷えたお茶をグラスに注いで差し出すと、遥はコクッと頷いた。

 声には出さないところを見ると、やはりかなり、キツいらしい。


「飲めるかな? 少し身体を起こせるか?」


 遥の背中を支えるように、上半身を少しだけ起こしてやる。

 お茶を多めに飲んで、遥はまたバタンと横になった。


「何か食べたいものはあるか? 食欲は?」

「……食べ物は、いいです。ありがとうございます」

「そうか。お礼はもう言わなくていいから、楽にしててくれ。喋るのもつらいだろう?」


 またコクッと頷く遥。

 さっきまでよりも、ずっと安心したような顔をしている。

 細まった目と、汗で額に張り付いた髪。

 なんだか色っぽく、大人っぽく見えてしまって、橙子は胸が高鳴るのを感じた。


(よく見ると、案外端正な顔をしているんじゃないだろうか……)


 乱れた髪を手櫛で直してやると、また遥に手を握られた。

 トクン、と心臓が内側から強く胸を叩く。


「……熱いな」


 遥の手と額は、かなり熱っぽかった。

 微熱、と言うには些か熱すぎるだろう。


「冷えピタか何かはあるかな?」

「……たしか、タンスに」


 遥が指差す方に目を向けると、小綺麗な装飾の施されたタンスがあった。

 橙子はそちらへ移動し、それらしい引き出しを開けた。

 ベッドの方をチラッと見ると、既に遥は布団に顔を埋めてしまっていた。


 早く、冷えピタを貼ってやらなければ。

 遥を助けたい一心で、橙子は引き出しの中を丁寧に探索した。


「……ん? ……ん!?」


 思わず大きな声が出て、橙子は慌てて手で口を押さえた。

 遥がこちらを見ていないことを確認しつつ、橙子は見つけたそれをまじまじと凝視した。


『スキン ゼロゼロワン 12個入り』


「……」


(こ、これは!? ……これは!!)


 シンプルで、やけに高級感のある小箱が、ちょこんと鎮座している。


(これは、要するに、つまり、あれなのではないだろうか……)


 人生で初めて目にするそれは、しかし一目でそれだとわかるような外観をしていた。


(……し、しかも……封が開けられている……!?)


 おそるおそる、橙子はその小箱の中を覗き込んだ。


(1、2、3……9、10……!? に、に、二個無い!?)


 橙子は目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。

 くらっと目眩がして、すぐさまあらゆる映像が頭の中で想像されては消えていく。


(い、いかん……! 気を確かに持つんだ、汐見橙子……!)


 倒れ込んでしまいそうになるのを必死に堪えながら、橙子は小箱を元の場所に戻した。


 高校生だとは言え、恋人同士の同居生活なら、もちろんあり得ない話ではない。

 しかし、橙子の心はもはやボロボロだった。

 やっとの思いで見つけた冷えピタを遥の額に貼る時には、どちらが病人なのかわからないくらい顔色が青白くなっていた。


「……ありがとうございます、橙子さん」

「い、いや……」


 橙子はすとんっとその場に座り込むと、膝を抱えてしばらく動けずにいた。


 来なければ良かった。


 いや、どうせ自分は遥のことが心配で、どんな結果になろうと、それがあらかじめわかっていようと、ここに来ていたに違いない。

 しかし今、こうしてショックを受けている自分が惨めで、どうしようもなくつらかった。


 異性と交際する、というのがどういうことか、橙子は初めてしっかり理解したような気がした。

 今目の前にいる男は、自分が好きなこの男は、本当に他の女のものになってしまったんだ。


 橙子は溢れてくる涙をグッと押し戻し、もう一度立ち上がった。


 遥はいつの間にか眠っているようだった。

 苦しそうな表情ながらも、穏やかな寝息を立てている。


 今度こそ、帰らなければ。


 橙子はそう決心すると、重い足をなんとか持ち上げて、遥の部屋を出た。



   ◆ ◆ ◆



 体調は、翌日の夕方にはかなり回復していた。

 遥が丸一日ぶりのまともな食事を終えた頃には、ちょうど都波たちと解散した雪季も帰ってきた。


 冷えピタを貼った遥を見るなり、雪季は飛び込むように遥に抱きついてきて、何があったのかと問いただしてきた。


「ちょっと、謎の体調不良に見舞われまして……」

「ん……平気?」

「まあ、今はなんとか……」

「……よかった」


 雪季は涙目になりながら、遥にキスを迫ってきた。

 だが、感染る風邪かもしれない。

 遥は雪季の肩を押さえ、顔の接近を防いだ。


「……どうして連絡しなかったの」

「いやぁ、心配かけちゃ悪いし……」

「遊ぶのより遥が大事!」

「で、でも、大丈夫だったし……」

「……ひとり?」

「あ……そ、それが、実は……」


 遥は昨日の出来事を雪季に話した。

 バイト後、橙子に家まで送ってもらったこと。

 少しだけ、橙子を引き止めてしまったこと。

 気付いたら朝で、橙子はいなくなっていたこと。


「……ふぅん」

「ご、ごめんな……けっこう、マジでキツくてさ……つい」

「……ん、いい。橙子さんにお礼、言わないと」

「う、うん……」


 雪季は思いのほか、機嫌を悪くしたりはしなかった。

 スマートフォンを取り出して、何やら操作している。

 ひょっとすると、さっそく橙子に何か連絡をしているのかもしれない。


「冷えピタ、残っててよかった」

「そうだな。前の風邪の時にけっこう使っちゃってたけど」

「まだある?」

「ああ、たしかタンスの引き出しに……」


 遥が引き出しを開けると、あった。

 箱の中に、冷えピタがまだ四枚、残っている。

 これならもしもの時も、なんとかなるだろう。


「…………あっ!?」


 そこで遥は、とんでもないことに気がついた。


「ん、なに?」

「……橙子さん、ここ、絶対開けたよな……?」

「ん、冷えピタ貼ってくれたなら」

「……すぐ隣に、アレの箱が……」

「あ……」


 冷えピタの箱の横に、アレの箱がちょこんと置いてある。

 しかも、雪季が「予習」と言って開封したままの状態だ。


「…………これは」

「……ん、平気平気」

「平気なもんか! うわぁぁあ!!」


 遥は泣きながら頭を抱えた。

 まだ一つも使ったことはないとは言え、持っていることを知られたのはとてつもなく恥ずかしい。

 いったい、次はどんな顔で橙子に会えばいいのだろう。


「せめて、中が一つも減ってないことまで確認してくれてれば……」


 言いながら、遥は箱の中身を数え直した。

 1、2、3……9、10……。


「ない!!? 二個も!? 使ってないぞ!! 絶対!!」


 誰にともなく大声で言い訳しながら、遥は雪季を見た。

 雪季は少し考えたあと、なにかを思い出したかのように財布を取り出し、中から四角い小さな袋を出した。


「……念のため、持ってた」

「お前はアホな男子か!!?」

「……予備もある」

「二個も持つな!!」


 二つとも雪季の仕業だった。

 こうなってくると、下手をすれば最悪の形で橙子に誤解を与えている可能性がある。

 かと言って、自分から弁解するなんてことはできっこない。

 枕に顔を埋めて、遥は嘆いた。


「……遥」

「……なんだよ」

「……今日、これ使う?」

「使うか!!」


 激しい頭痛を感じて、遥はベッドに倒れ込んだ。


 きっとこれは、風邪が原因ではないのだろうな。

 遥はそう思わずにはいられなかった。

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