夕紅とレモン味

蜜柑桜

ブランデー・クラスタ

 寄りかかった電車の窓から、夕陽が見えた。

 正確には、線路の向こうに不気味なくらい無機質に並ぶガラス張りのオフィスビルに映って、丸いはずのその形を醜く歪ませた禍々しいオレンジの像を。


 頭の中に言葉も感情すらも無い。ただ、無理矢理に人工化された光が視界をいくつも横切っていくのを、見送る。

 無機質なのはわたしも同じだった。



 窓に影が差し、電車は巨大なターミナル駅のホームに滑り込む。ドアが開くのを合図に動き始める人の群れに流されて、私はそのままホームに降りていた。何を考えるでもなく、一方向へ進む人の波に乗るままにして地階へ降り、定期券を改札機にタッチする。


 身体は異常に疲れているのに、帰りたくない。

 心は何も欲していないのに、何処かへ行きたい。


 無意識とも意識的とも分からない曖昧な判断力で、脚が動いた。どこに行くでもない。何を見るでもない。ただ足の向くままに、進んだ。



 騒がしい駅周りの繁華街。呼び込みの声。行き交う人の会話。街頭モニターのCM。雑踏の中に本来なら溢れているはずの音が全て混ざって、何が何だか判別不能になり、逆に静かだ。




 ふと、知覚が戻る。

 足と眼を止めたのは、一軒の店だった。



 大型デパートや専門店、いかがわしい店の混じる雑居ビルが無造作に乱立する中で、不自然な店。

 銅色の縁金具の付いた、濃い茶のドア。ステンドグラスの飾り窓。店の看板から下がる、錆びて味のある色を帯びたチャイム。

 ステンドグラスの看板は色褪せて暗く、中央に唐草模様に囲まれて、「Bar」の三文字が読めた。



 まだ少し、飲み会の時間にすら早い。

 でも、私の手が、扉を押していた。



「いらっしゃい」


 ニスを塗られて光る長い木製カウンターの向こうに、白髪の混ざった老人が立っていた。木壁に取り付けられた古びたランプが、色ガラス越しに薄暗い店内を照らしている。


「どうぞ、お好きなところへ」


 そう言われても、店内は狭い。カウンター席のほかは、年季の入った革張りのソファー席が二つあるだけだ。

 老人はこちらを注視するでもなく、グラスを磨き続けている。その淀みなく手慣れた動きに惹かれるように、私はカウンター席の端に腰かけた。


「御注文は」


 と言われても、実はバーで一人酒なんてしたことがない。メニューは、と探すが、それらしきものも見当たらない。


「初めてですか」


 仕草で肯定すると、老人は眼鏡の縁を少し上げて眼を細めた。


「そうですね。初めて見るお顔です。それならこの店では、まず店主の私が初めの一杯をお出しするのが決まりです」


 コトリ、と静かな音がする。グラスを拭いたナプキンを畳み、店主はカウンターの中を、私の前までやって来た。


「貴女にぴったりの一杯を作らせてください。そのために、貴女の今の御気持ちをうかがってもよろしいですかな」


 そう言って、正面から、私の顔を、私の眼を、瞳の中を、真っ直ぐに見た。


 その視線が、何も感じず、思考を拒否していた私の中の何かのスイッチを、押した。



 自信のあった仕事。

 叶えようとした努力。

 伝えたかった気持ち。

 そばに居たいと願った日々。

 優しさをくれた人。



 棄却された事案。

 砕け散った希望。

 言わずに終わった恋。

 会わない時間に広がる距離。

 永遠とわの世界への見送り。



 全てが渦巻いて、押し寄せて、身体のうちで溢れそうに広がる。隠して、下に追いやって、それでもそこにあり続けていたものが、突然すぐそこまで来てしまう。



 ランプの光が視界の中でぼやけた。私を見ていた店主がゆるやかに頷いた。



「そうですか……では」


 店主は音を立てずに棚からボトルを取り、シェイカーへいくつもの液を入れていく。その手がきゅっと蓋を閉じたのち、リズミカルな音が数秒間、店内に響いた。流れるような手つきで、飲み口を砂糖で飾ったグラスへと中身を傾けると、螺旋状のレモンの皮を一切れ。濃い橙色の液の中で、鮮烈な黄色のリボンが踊った。


「ブランデー・クラスタ。カクテルの言葉は『時間よ止まれ』です」


 スッとグラスが差し出される。受け取って鼻元に寄せると、ブランデーの甘苦さの中に、レモンの香りが広がった。


「たまには、止まってもいいんじゃないですか」


 店主は眼を閉じて、頷いた。

 私の身体の中で膨らんだものが、熱を帯びて、喉を通って、息と一緒に音になる。


 いつぶりだろう。


 差し出されたハンカチが濡れるのをそのままに、情けない声が沈黙に響くのをそのままに、グラスの柄を不格好に握り締めたまま、私はカウンターの上に水滴が落ちるのを、止められなかった。

 その向こうで何も言わず、店主がゆっくりマドラーを拭くのを感じた。


 グラスに揺れる橙色は、子供の頃に眼を見張った、帰り道の夕焼け色によく似ていた。


 FIN

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