ソフィ(3)

 訳ありそうではあるけど、そんなに酷い人生を送っているようにも見えないけどな

――と思いかけて、私は少し考え直した。

 それこそ「人の世は複雑怪奇」ということかも知れない。この子とは今さっき出会ったばかり。私がいくらかの印象を抱いていたとしても、それはいわば彼女の人生の一番上澄みの、更に表面だけを数分ほど見つめて下した判断に過ぎないわけで。

――それで「幸せそう」、あるいは「不幸そう」だなんて決めつけられるのは、ソフィもたまったものじゃないか。


「――じゃあ、私の答えは簡単よ」

 私はさっぱりと答えるようにした。「考えても仕方のないことは考えず、目の前のことを精一杯頑張るだけ。たまには暇つぶしに『たられば』を考えるのもいいけど、ずっとそんなことやってる暇もないし。私はそういう性分ね」

「……でも、」

 私の答えに納得が行かなさそうにソフィは切り出した。「『こうであってほしい』と思うことと、今の現実が、まるで重なり合わない時もあると思うの。そういう時、エリザならやっぱり目の前のことを黙々とやるべきだと思う? 例え、自分の想いを、押し殺してでも…」


 私は少し頭を掻いて、彼女の抽象的な問いかけを頭の中で整理した。

 問い掛けが漠然とし過ぎていて、如何様にも答えられるし、如何様に答えることも出来ない。

 それでも、ソフィも言語化さえ出来ないから悩んでいるのだろう。ここは軍隊でも戦場でもない。それぐらいは酌量してあげようと思った。


 回答の筋道が一応見えてきたので、私は彼女の顔を真っすぐに見つめた。

「つまらない答えで悪いけど、ソフィ――私にはあなたの言う『こうであってほしい』という強い想いが、今は何もないの。だから、『あまり考えたことがない』というのが正直な答え」

 期待されている答えでないとしても、下手に言い繕うのは苦手だ。耳障りのいい言葉で煙に巻くのも自分の信念に反する。思いつくままに本音で答えた。「そもそも私は下っ端の軍人だから、どれほど理不尽な命令だろうと四の五の言わず遂行しなきゃいけない立場なのよ。自分の置かれた状況や受け取った命令が道義的に間違っているかどうかを評価する暇はないし、『かくあるべし』なんて“べき論”をこねている暇もない。どこまでも眼の前の現実を所与のものとして歪みなく認知して、対応を検討し、決断し、遂行するの。そういう意味では、ソフィの今の悩みに的確な回答は出来ないかも知れないわね」

「……わかったわ、エリザ。ありがとう」

「待って。まだ話の途中よ」

 ここで話を切られてしまうと、私は何も答えていないことになる。もう一度ソフィの意識を引き留めた上で、私は続けた。「私自身は今言った通りの人間なのだけど……本当に現実の方を動かしたいと思うのであれば、私みたいな働き蜂根性じゃいけないと思っているわ」

「現実を、動かす……?」

 ソフィはまるで野ウサギのように聞き耳をぴんを立てたように見えた。

「今言った通り、私は現実から遊離して物事を考えることはあまりしない。でも、ソフィはまず『間違っている』と感じていることに対して考え、行動したいということでしょう?」

「ええ……でも、わたしも踏ん切りがつかないの。わたしの願っていることが、ただのわがままなのかどうか」

 眼を伏せるソフィが、机の上で組み合わせていた手の指先に、ぎゅっと力を込めるのが見えた。「そのわがままを貫こうと思えば、たぶん色んな人に迷惑がかかってしまう。私自身もすごく消耗してしまうし、危険な橋をいくつも渡らないと行けないのかも知れない」


「――じゃあ、諦めれば?」


 冷徹に私は言った。敢えて、だ。

「それは……」

 ソフィは口ごもった。

 私はもうひとつ厳しく畳みかけた。

「あなたの『こうであってほしい』という想いが何であれ、それをやることが他人の迷惑になって、あなたも危険な目にあうのなら、諦めてしまえばいい。のだから。――どうなの?」


 ソフィは一瞬苦渋の表情を見せたが、すぐにそれを振り払うように、はっきりと眼を見開いて私に言った。

「そうかも知れない。でも、それでもわたしは……」


「――わかったわ、ソフィ。それが答えよ」

 私は口調と表情を緩めた。「試すような真似をしてごめんなさい」

 いえ、そんな、と戸惑ったようにソフィが応えたのを見て、私は告げた。

「私に揺さぶられたぐらいで諦めようと思う程度の気持ちなら、ろくなことにならないから軽挙妄動は慎むべきだわ。でも、そうではなくて、その想いが本当に強くはっきりとしていて、他の誰にも否定しようのないものであるのなら、これだけは言っておく。――その想いを無視すれば、あなたは絶対に後悔する。いい? 絶対に後悔するわ。断言してもいい」

「エリザ……」

「だいたい、他人の迷惑が何、身の危険が何。そんなもの、くそくらえよ。あなたの人生というものは、あなたの信念で動いて、あなたの責任で泣いて、笑って、死ねばいい。孤独を恐れることはないし、そうするあなたを理解してくれる人は必ず現れるわ。あなただけが持てるその想いを、恥じたり押し殺したりする必要はこの世のどこにもないのよ」


 ソフィに語りかけながら、私は少し情けないことに気づいた。

 これはソフィを勇気づけるための言葉ではない、自分を慰めるための言葉だ。

 そうやって生きることに憧れたのは、私自身だったから。

 迷惑、責任、しがらみ――あぁくそくらえ、私は私だ、と言いたかった。

 でも、そうして何もかも自由になってしまうのは許されないことだった。そう考えた当時の私は、大人たちの理不尽な要求に対しても、聞き分けの良い子どもを演じてしまった。それが運の尽き。残酷にも、くそくらえと叫ぶべきであった瞬間は、私にとってはとっくに過去のものになっている。


 そんなこんなを経て、私はアリゴレツカの生まれた家から追い出されることになり、気づけば故郷に進軍せんとするパングラフト連邦軍の末席を汚す羽目になっていた。同じ大陸に生まれた同胞との殺し殺されを繰り返し、功を上げたり勲章を貰ったりとまずまずの軍人暮らしを送りながら、先日は蛮教徒カルトの小僧に「侵略者に魂を売った」などと罵られたことにムカついて斬り殺す始末。

 そんな自分を取り巻く現実を捕まえて、「何かがおかしい」と考えることに私はもう疲れてしまっている。ソフィの言う『こうであってほしい』――そんな純粋な想いも、以前の私ならあったのかも知れない。でも、曲がりなりにも私の人生は走り始めている。今ある現実を否定し、再構築を企むには、私はあまりにも物事に流され過ぎてしまっている。

 でも、ソフィはまだそうではないはず。17歳という彼女には、まだ確かな前途と可能性があるはずだ。

 だったら、そんなところで遠慮に負けて、想いを挫いて、尻込みしていちゃいけないのだ。



 そんな気持ちを隠しながらも「どう?」とソフィに伺うと、彼女はふっと笑って、大きく頷いた。

 まるで憑き物がとれたような爽やかな笑みだった。


 おもむろに、ソフィはその小さくてきれいな両手で、私のてのひらを掴んだ。

「ありがとう、エリザ。わたし、ずっと悩んでたの。心の底から相談できる人もほとんどいなかったし……。でも、決心がついた気がする」

「そりゃよかった」

 私のあんな言葉でも、彼女にはいくらか響いたのかも知れない。「……でも、いいの? 大事そうなことなのに、こんな通りすがりの女の言葉を信じて」

「エリザはもう“通りすがりの女”なんかじゃないわ」

 ソフィはその柔らかな瞳と微笑みで私の眼を射抜くように見つめた。

「わたしたち、今日初めて会ったばかりだけど、何だかとても似ている気がするの」

「んー、そうかな……」

 少なくとも、私はあなたみたいに可憐でもお淑やかでもない。

「そうだよ、きっと。それでね、お願いなのだけど」

「何?」

「――よければ、わたしと友達になってくれない?」

「……友達?」

 私も思わず笑みがこぼれた。

 ただ友達になることに、そんな風に頼まれたことなんて初めてだったから。

「もちろん、ソフィ。だけど、友達になるなんて、そうやって相手に許可を得るようなことじゃないね」

「えっと、じゃあどうすればいいの?」

「簡単なことよ。そうだな、――ソフィの好きな本を教えて。明日までに読んでくるから」

 そう言ってあげると、ぱあっとソフィの笑みが咲いた。

「もちろん! わたしこそ、エリザの好きな本を教えて!」

「そうそう。それでいいの」


 こうしてやさぐれた私にもかわいらしいお友達が出来ました。めでたしめでたし。

 私たちはしばらく互いに好き嫌いを打ち明けながらお互いのために選書し合っていたが、やがてさっきこちらを観察していた男がソフィのもとへやって来て、耳打ちをした。

 ソフィの顔がほんの少し陰ったように見えた。

「……エリザ、ごめんなさい、そろそろ門限みたい」

「そうなんだ」

 まだ昼下がりなのにえらく厳しい。「それじゃあまた明日かな。私は何もなければここにいるよ」

「よかった、明日も会えるのね。今日は楽しかった、また明日お話しましょう」

 ソフィはにこにこしているが、男の方は仮面を被ったようにぴくりとも表情を動かさない。じっと私の顔を見つめて「下がれ」と凄まれているような印象さえ受ける。

 そんないけすかない男をお供のようにして、ソフィは席を立ち、図書館から出て行った。完全に姿が見えなくなる前に、こちらを一度振り返って、小さく手を振ったのが見えたので、私も同じようにした。



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