朱い花の咲う道④

「できれば仕事は続けたいんだけど」

「どうか今は無理しないでくれ。産後に復帰できるように、俺も協力するから」


 妊娠中、シュカはチームの裏方に回った。さすがに空を飛び回って戦うような激しい動きは厳禁だが、内勤であれば大きな腹でもギリギリまで働ける。


 シュカは初めての女性メンバーであり、産前産後の対応も前例のないことであった。

 弛まぬ努力によってシュカが勝ち得たものを、ここで潰してしまってはいけない。しかし大切な命をその身に抱える当人だけでは、やれることに限界がある。

 彼女はレイにとって人生の伴侶であると同時に、共に戦う仲間でもあるのだ。


 守ってやらなくてはならない。

 彼女はとても傷付きやすいから。


 と、思っていたのだが。




「うあああ……!」

「シュカ、大丈夫か」

「ううっ……、……大丈夫、なわけないわッ!」

「す、すまん……」


 ノース・シティ中央病院。

 出産の立ち会いに臨むレイは、カーテンによって仕切られた病室のスペースの中で、陣痛にのたうつシュカに付き添っていた。

 話には聞いていたが、その痛みは相当であるようだ。普段は我慢強いはずのシュカも、苦悶の呻き声を上げながら、壮絶な表情で耐えている。


「ううぁぁぁ……もう許してぇ……」


 陣痛開始から丸一日が経とうとしていた。初めのうちはまだ余裕がありそうだったが、そろそろ限界に近いらしい。体力的にも、精神的にも。

 痛みと痛みの僅かな波間に、気絶するようにして眠り込む。そしてまた一分も経たぬうちに激しい痛みで覚醒する。


 この場において、レイにできることは何もなかった。ただおろおろするばかりだ。

 それどころか、この馬鹿でかい図体が時々様子を見にくる助産師の邪魔になっている。

 むしろ自分がここにいる意味はあるのか。だんだん情けなくなってきた。いったいいつ終わるのだろうか。

 シュカの味わう痛苦とは別の種類の辛さを味わいながら、永遠のような時を過ごす。


 はたして。


「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」


 およそ二十六時間に及ぶ陣痛の末、ついに新しい命が誕生した。


「あぁ……終わった……」


 晴れて母親となったシュカは、長く厳しい死闘を制した戦士のかおをしていた。


 助産師が、生まれたての子供を差し出してくる。


「さぁ、お父さん、どうぞ」

「あ、はい」


 『お父さん』という呼び名がどうにもくすぐったい。

 恐る恐る我が子を受け取り、抱いてみた。


「うわ、小さいな……」


 驚くほど軽い。この太い腕では、「抱いている」というより「乗せている」と表現した方が正しいくらいだ。

 赤ん坊は、くしゃくしゃの顔で泣き声を上げている。

 なんて小さい。だが、力強い。

 確かな熱を持つ、まっさらで柔らかな身体。

 まだ父親になった実感はさほどないが、このあまりに無垢な命が、ただただ尊い。知らず知らず、視界が滲んでいく。


「可愛いね。レイさんに似てるよ」


 そう言って難なく微笑むシュカには、きっと一生かかっても敵わないだろうと思った。




 息子はイチと名付けた。


レイを始まりにして、一つ前に進むってことで」


 名前の由来に関して、シュカは分かるような分からないようなことを言った。


 産後しばらくは、試練の時だった。

 シュカは寝不足と疲労により、かなりの精神不安定に陥った。

 負担を少しでも減らそうと、レイも夜中のミルクやオムツ交換を分担した。

 しかし、これが意外と難しい。ママではないことを察したイチにさんざん泣かれて途方に暮れたこともあった。


 イチが生後半年を過ぎ、表情が豊かになるにつれ、レイも徐々に赤ん坊の世話に慣れてきた。


「だんだんレイさんそっくりになってくね」

「確かに……でも、髪の色はシュカに近いな」


 まだゼロ歳児なのに既にやんちゃ坊主の風格があるイチの寝顔を眺めながら、二人で落ち着いて言葉を交わす余裕も出てきた。


 優しい眼差しで我が子を見つめるシュカは、以前より纏う空気が柔らかくなったように思う。

 母性を増したシュカをますます愛おしく感じる。彼女の注意や関心がほぼ全てイチに向いているのが、少々寂しいところではあったが。



 離乳食が進み、掴まり立ちからの伝い歩きが始まる頃には、無事に保育園も決まった。


「早く筋力と飛行操作の勘を取り戻さなきゃ。スカイスーツなんて身体の線が丸分かりだから、体型ヤバいね……」


 職場復帰を果たしたシュカは、まずは筋トレと擬似オペレーションで身体と感覚を戻していった。

 どれだけ周囲の理解と協力があったとしても、身体のことばかりは当人でないとどうしようもない。

 本当に元通りに復帰できるのか、レイとしても心配ではあった。だが二ヶ月も経つ頃には、シュカはすっかり以前のような見事なプロポーションを取り戻していた。


 訓練と同時並行的に、小さめの敵を相手どった慣らしの実戦を行なった。

 始めは単体。続いて複数。剣で、銃で、時々徒手で。

 恐らく、身体が覚えているのだろう。その動きには一切の無駄がなく、的確にターゲットを打ち砕いていく。


「さぁ、さよならの時間だよ!」


 いつものセリフも楽しそうだ。

 妊娠前と比べても遜色のない機敏さでクリーチャーを狩るシュカに、レイはなぜだか胸が熱くなった。

 久々に目にする、仲間としての彼女の姿。


 改めて思う。

 いや、その感情をはっきりと自覚したのは初めてかもしれない。

 生き生きと空を駆け回るシュカは美しい、と。



 自宅と職場の往復にイチの保育園の送迎が加わるだけで、かなり慌ただしくなった。

 レイとシュカで、仕事が早く終わった方がイチを迎えにいくことに決めていた。彼女の方が早いことが多かったが、少なくとも週に一度は自分が先に職場を出られるように調整した。


「パパぁ!」


 保育園もすっかり馴染みの場所になった。

 レイの姿を認めるや、舌足らずの甘えた声を上げ、満面の笑みで駆け寄ってくる幼い息子。

 嘘かと思うほど愛らしい。どれほど疲れが溜まっていても、一瞬で吹き飛ぶような気さえする。

 シュカは「歩かせた方がいい」などと言うが、自分はすぐにイチを抱っこしてしまう。

 男の子が甘えん坊で可愛いのは小さいうちだけだろう。それとも、成長して甘えん坊でなくなっても、可愛いものだろうか。

 ずっと一緒に過ごしていけば、いずれ分かるはずだ。


 こうして先に帰った日には、イチと二人でシュカを出迎えた。


「おかえり」

「ただいま」


 この瞬間が一番好きだった。

 イチも、「ママ」「パパ」の次くらいに「おかえり」という言葉を覚えたほどだ。

 二人が自分を出迎えてくれるのも嬉しい。家族が自分を待っている、『帰る場所』がある。これ以上ないほど幸せなことだ。


 子供と一緒に生活していると、その目まぐるしい成長に驚かずにはいられない。

 レイにとっての一年と、イチにとっての一年では、時間の密度が全く違う。

 自分は衰えていく一方だが、イチは一歳、二歳と年を重ねるごとに、できることがどんどん増えていく。


 きっとイチ自身は大きくなるにつれ、この時期のことを忘れてしまうだろう。

 その分、父親である自分が覚えておけばいい。



 ■



 イチの三歳の誕生日が過ぎて数ヶ月経った、冬のある日。小雪がちらつく寒い朝だった。

 その日は三人でいつもより少し早く家を出た。夫婦とも同じ特別任務に参加することになっていたのだ。


 眠いせいで酷くぐずったイチをタンデムベルトで自分の腰に括り付け、バイク二台で保育園へと向かう。

 ぎゅっとしがみ付いてくるイチをどうにか引き剥がして先生に預けた時にも、彼は半ベソをかいていた。


 小さな頭に、大きな手を乗せる。


「いいか、イチ。今日はパパとママ一緒に迎えにくるからな。そしたら皆でごはんを食べにいこう」

「えっ本当? やった!」


 なぜか隣にいるシュカが真っ先に歓声を上げる。

 イチは涙に濡れた目でレイを見つめ、ぐすんと洟をひとすすりしてから言った。


「はやくおむかえちてね」

「分かった。頑張って早く来るよ」


 イチに手を振り、シュカと並んで園舎を後にする。

 今日は久々にスクラップ投棄エリアでの任務だ。国防統括司令部からの指示で、エリア内にいる五体のスクラップ・ドラゴンを狩ることになっている。


「終了予定、一六〇〇ヒトロクマルマルだっけ。投棄エリアから帰ってきて、片付けして、割といい時間に迎えに来られそうだね」

「そうだな。何が食べたい?」

「うーん、久々にジェニーちゃんとこかな」

「おぉ、俺もそれがいい」

「よっし、決まり!」


 シュカが今にも弾みそうな勢いでガッツポーズした。

 普段の仕事ならいざ知らず、終日の特別任務をこなした後で夕飯を準備する気力など残っていないだろう。


「さぁ、ドラゴン五体くらいパパッと片付けてこよう。予定より早く終わるといいね」

「トバリさんもいるし、あのメンバーで苦戦することはないだろ」

「うん、頑張ろう」


 園の門に差し掛かった辺りで、後ろから大きな声が聞こえてくる。


「ママー! パパー!」


 振り返ると、園舎の出入り口にイチが仁王立ちしていた。


「いってらっちゃい!」


 先ほどとは打って変わり、しっかり顔を上げて、大きく手を振っている。

 その眼差しに、シュカに似た強さを見た気がした。


「いってきます!」


 二人で声を揃えて、手を振り返す。


「ああいう顔してると、やっぱレイさんに似てるよね」

「え? そうか?」

「うん」


 ふふ、と悪戯っぽく笑うシュカに、小さなときめきを覚える。


 門を出て、駐めたバイクに行き着くまでのその一瞬。

 そっと彼女の手を握った。


「ん?」


 付き合い始めた頃と変わらない、ハンターの手。

 今では大切な我が子を抱くためでもある、最愛の妻の手だ。


「いや、ちょっと触りたくなった」

「あっ……そう」


 少し恥ずかしそうにするシュカを、素直に可愛いと思う。

 正直なところ、特別任務を面倒に思っていたのだが、何だかんだで気合いが入った。


 延々続く日常は、平坦なように見えて、小さな凹凸が無数にある。

 そのどんな時でも、隣にはシュカがいる。

 今日はいつもより少し頑張る日だ。しっかり仕事をした後、家族で美味しいものを食べて帰ろう。

 そして三人で玄関をくぐり、声を揃えてこう言うのだ。

 「ただいま」と。


「さぁ行こう、シュカ」

「うん、レイさん」


 二人連れ立って、愛車を発進させる。


 この先も果てなく続く長い道を、ずっとこんな風に、一緒に進んでいくのだろう。


 そう、疑うことなく信じていた、最後の朝だった。



—朱い花のわらう道・了—

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