電車、線路

 雨が降る夜、仁志は電車に揺られながら窓に張り付いて斜めに滑る雨粒を眺めていた。


 彼は昨月、日本に帰ってきたばかりだ。

 海外に出てから何年もあちこちの国を飛び回る生活をしていた。

 多くのことに興味を持ち、学び、活動を続けた。そして彼は特殊な職業に就くことになった。あまり一般的には聞かないものだ。

 それは俗に言う探検家というやつだった。

 

 彼は未知の土地や海域の探索依頼を受け、調査を行い、それを文章にするなどして生計を立てているのである。

 人生どうなるかわからないというが、十数年前の自分は将来、探検家になるとはこれっぽっちも思っていなかった。

 なんだかんだいってドキドキするこの仕事を、彼は気に入っているのだが。


 仁志は窓の雨粒の観察に飽きて、携帯電話を取り出した。

 ネットニュースを開いて見出しだけ流し読みする。

 ガソリン値上がり、若手ボクサー初優勝、干ばつ地域増加問題、人気バンド「OTO YO TODOKE」新アルバム発売などなど、様々な記事が目に入るが特に興味は無い。

 彼はケータイをしまい、本を取り出した。


 本を手にしたところで、ふと藍のことを思い出した。こうして本を読むようになったのも彼女と出会ってからだ。彼女は本が好きでよく読んでいた記憶がある。

 彼女とは空港で別れてからしばらくの間は頻繁に連絡を取り合っていた。されども次第に連絡の頻度はまばらになっていき、彼の方が忙しくなったことも相まって、遂には連絡を取らなくなってしまった。

 最後に電話をかけたのはいつだろう。何年前かも思い出せないほど前になってしまう。

 あれから仁志は幾回か女性との交際を経験した。

 しかしながらどの人ともまあまあうまくいくのだが、結局は藍のことが頭をよぎって何だか寂しい気持ちになるのだった。やはり、彼にとって一番はいつまでたっても藍のようだ。

 たまに藍に会いたくなるのだが、何年も連絡を取っていないと突然の電話をかけることに抵抗が生まれた。

 もしかしてあっちが電話番号を変えているかもしれない、そんな考えも浮かんできて結局いつも「また今度かければいいか」となってしまうのだった。


 それでもこうして日本に帰ってきて彼女のことを思い出すと、途端に彼女が恋しくなってきた。彼女の自分に対する気持ちは変わっていないのだろうか。

 もしまた出会えたら一緒になることはできるのだろうか。


 あれこれ考えて彼は深くため息をついた。


 電車が止まりドアが開いた。

 いつもこの時間、電車には人があまり乗っていない。

 埋まっている座席は大体、一番端の座席ばかりだ。真ん中に座る人はあまり見かけられない。

 そのおかげで座席の中央に座ると、向かいの窓を伝う雨の軌跡をじっくりと見ることができる。

 彼は再び雨の軌跡を目で追った。


 突如、彼の視界に横から人が入ってきた。女性だった。

 その女性は彼の前に座ると本を開いて読み始めた。

 女性は彼と同じ三〇前後で、黒いサラサラの髪の毛に四角く細い黒禄の眼鏡をかけている。


 彼は女性を見て、既視感を覚えた。

 頭の中で知り合いと照らし合わせてみると、当てはまる人物が出てきた。

 まさか……。


 彼は話しかけようか考えた。いや、でも人間違いかもしれないし……でも、もし本人だったら?

 彼は悩んだ。どうしよう、電車で知らない人に話しかけられたら気持ち悪いよな。

 

 悩んでいるうちに降りる駅が近付いてきた。

 自分の足元に置いてあるカバンを見つめて、迷い続けた。

 電車は降車駅へと滑り込み、彼はドアへと移動した。


 到着のアナウンスが流れ、扉が開く。

 しかし彼は降りずに扉が閉まるのを待った。

 駆け込み乗車を注意するアナウンスが流れ、目の前で扉が閉まる。

 それから彼は先ほどまで座っていた座席に再び腰掛け、足元に置いたままにしてあったカバンを見た。

 続けて顔を上げ、前の席に座る女性に目を向けた。

 

 彼女の頬を一筋の涙が伝っていた。それから彼女は仁志の目を見てくすっと笑った。

 仁志は自分の目頭が熱くなるのを感じつつ、立ち上がった。

 彼女の前のつり革につかまり、小さな声で「ただいま」と言った。

 彼女は手の甲で目をこすって、それから顔を上げると優しい笑顔を浮かべて口を開いた。


 おかえり。


 彼はその日、十数年ぶりに電車を降り過ごしたのだった。



 電車が大きく揺れた。

 座席の端、窓に張り付いていた一滴の雫が、線路の上へぽとりと落ちた。



 *****



 大切なものとは、どんなに離れていても気持ちは近くにある。

 僕が藍と再会できたように、彼ら人間にも知らずのうちに輝きの居場所を探し出す力が備わっているのかもしれない。

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