電車、忘れもの

 僕は形を変えて彼女の周りを飛び回っていた。

 彼女の毎日は静かに過ぎていた。

 

 その日も特別なことはない、いつも通りの一日だと思われた。しかしこの日、彼女の人生に深く関わる一つの存在が彼女の人生と交差することとなるのだった。

 


 *****



 雨の降る夕方、揺れる電車の中で仁志ひとしは向かいの席の窓を見ていた。

 雨粒が窓の表面を滑っていく。電車や車に乗っていると、窓についた水滴が斜めに下がっていくので面白い。

 向かいの座席の端には、誰かが忘れて行った傘が引っかかっていた。今頃、持ち主の人はどう雨をしのいでいるのだろう。

 彼は視線を窓の水滴に戻し、その動きを追った。


 そこに制服姿の女子高生が現れた。

 彼女は彼の向かいの座席に座り、本を取り出した。

 黒いサラサラの髪の毛、大きな瞳、キュートな唇。

 彼は本を読む彼女に見とれていた。


 不意に彼女が本から顔を上げ、仁志は彼女と目が合った。

 焦ってあたふたしていた彼を見て彼女がクスッと笑った。

 彼は顔を真っ赤にしてケータイを取り出し、それをいじり始めた。


 新ゲーム機「ERUTUF」発売、連日の雨で野菜の値段上昇、相撲で新横綱、角野龍輝(二〇)誕生などなど、世間を騒がせているニュースは全く頭に入ってこない。

 彼はちらとケータイから視線を上げた。すると同じタイミングで彼女も本から視線を上げた。

 また彼女は小さく笑った。彼もそれに返すように笑顔を浮かべた。


「発車します。駆け込み乗車はおやめ下さい」


 アナウンスが流れはっと我に返ると、そこは降りるはずの駅だった。

 彼は慌てて席を立ち上がり、電車から降りようとした。


 ん……待てよ、カバンがない!


 彼は座っていた席に目をやった。

 カバンは席の足元に置いてあった。

 彼はひったくるようにしてそれを掴むと再びドアへと向かったが、彼の目の前でドアは閉じ、駅のホームは徐々に遠ざかっていった。


 ため息をついていると後ろから気配を感じた。

 振り返ると彼のことを見て彼女が肩を揺らしていた。

 彼はおどけた顔で肩をすくめると、窓の外へと目をやった。


 まあ、彼女の笑顔が見れたし、降り過ごすのもたまには良いかな。


 顔が熱くなるのを感じながら、そんな事を考えるのだった。




 電車が大きく揺れた。

 座席の端、傘の先に垂れ下がっていた一滴の雫が、車内の床へぽとりと落ちた。



 *****



 僕には彼女が幸せを感じていることが伝わってきた。

 小さな出会いが人に幸せを与える。

 だがそれが本当に小さな出会いと呼べるものなのか。

 それはずっと後でわかるものだ。

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