顔も忘れてきた頃合いだというのに、今更夫ヅラされても……②

 今言われた事が信じられず、ジルは茫然と父の顔を見上げる。

 もしかすると母からの手紙が届かなかった理由は、病気で身動きできなかったからなのかもしれない。

 思い返すと、手紙を貰えないのは違和感があった。結婚前ジルと母親との関係は良好で、よく一緒に買い物や庭いじりをしていた。それが人質に出されたとはいえ、いきなり何の音沙汰も無くなるとは考えづらい。


「母さんはお前から大公に対して離縁状を送ったという話を聞き、本当に胸を痛めておった! なんと親不孝な娘なのか! 儂と一緒に公国に戻り、事情を説明してやるのだ。常識知らずの娘を持った彼女を気の毒だと思え!」


「で、でも私もう戻る気なんて……」


「まだ寝言を言うのか!」


 ジルはブラウベルク国民になろうと心に決めている。ハーターシュタインと縁を切ろうと思っていたのだ。でも、実際に父の顔を見て、母の病気の事を伝え聞いてしまうと、動揺のあまり心が凍りついてしまうようだった。このまま生き別れてしまうかもしれない。そう思えば従者の手を振り解いて再び逃げる気力が湧いてこなかった。


「ジル君、その方は君のお父上なんだな?」


 いつの間にか近付いていたフェーベル教授が気まずそうに口を開いた。


「それは、ええと……」


「なんだね君は? ジルと一緒にいたが、どういう関係だ? まさか愛……」


「この方は私の恩師ですわ! 教授に変な事言わないでくださいませ!」


 下世話な事を口走ろうとした父の言葉をジルは慌てて遮る。フェーベル教授はたまたま立ち会ってしまっただけなのに、不快な思いをさせたくなかった。


「恩師……?」


「自分はブラウベルク帝国大学で植物学を研究しております。ジルさんにはいつも手伝ってもらっていて、とても助かっているんです。出来た娘さんをお持ちですね」


「ふん! 当たり前じゃ!! ジルにはシュタウフェンベルク家の優秀な遺伝子が受け継がれているのだからな!」


 父はフェーベル教授の胸にゴツリと十字と薔薇の組合せのデザインが入った杖を打ち付けた。


「ジルを実家に連れ帰る。ブラウベルクでのジルの暮らしは知らんが、関係する者どもにジルはもう戻らんと伝えておけ。分かったな!」


「……はぁ、了解いたしました。ジル君、あとの事は任せて」


「教授……。本当にすいません」


「気にしなくていい」


 苦笑いするフェーベル教授に、ジルは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「おい、行くぞ! もう出航時間までギリギリではないか! ジルを逃がすなよ!」


「仰せのままに」


 父から命令された従者は、ジルの腕をしっかりと掴み、馬車に引っ張って行く。ジルは母の事が気にかかり、もう抵抗気力が無くなっていた。馬車に押し込まれるジルの背に、フェーベル教授の優しい声がかかる。


「ジル君、保護者の意向に僕は口出し出来ない。だが、今回の事はちゃんと皇太子殿下に伝える」


「ハイネ様と教授は知り合いでしたの?」


「彼の家庭教師をしてた事もあったからね」


 ハイネの顔を思い出して、辛くなる。知り合ってから半年程なのに、あれほどちゃんと向き合った異性は彼が初めてだった。もう会えないのだろうか? でもその方が彼にとってはいいのかもしれない。


「ハイネ様に、私の事は忘れてほしいと伝えてください! それからマルゴットの事を宜しくお願いします!」


 涙で喋れなくなりそうになるが、なんとか声を振り絞った。ちゃんと聞き取れなかったかもしれない。そんな不安は、フェーベル教授が頷いてくれた事で払拭された。


 馬車は走り出す。小さくなっていくフェーベル教授に、窓から身を乗り出して手を振り続ける。彼の元でもっと学びたかったという思いを込めて。


◇◇◇


 丸1日かけてハーターシュタイン公国の公爵家に戻ったジルは、意外な程元気な母と再会した。でも病気なのは間違いないようで、時々不整脈を起こしているらしい。娘であるジルが人質として他国に渡されてしまった事があまりにもショックだったらしい。たぶんそのストレスと、肥満が原因だ。


 そして彼女はちゃんとジルに手紙を書いていた。だが手紙は父の命を受けた執事に全て取り上げられてしまっていて、この家を出る事は無かったようだ……。

 父への不満は募るものの、母の愛情が無くなったわけではない事がわかり、心の底から嬉しかった。


 しかし、そのまま公爵家でダラダラしているられるわけもなかった。帰国した次の日に邸宅にやってきた国で一番の仕立て屋に、驚くほどのスピードでオートクチュールを用意され、ジルはこの国の大公妃として恥ずかしくない様にメンテナンスされた。


 帰国後3日目、ジルは宮殿に連行される。


 ビシューのオフショルダーのドレスはミントグリーン。すっきりとした上半身に対してスカート部分はパニエをそのまま見せるかの様にふんわりとしたデザインで、歩くたびに裾が可愛らしく揺れる。

 大粒のダイアモンドがあしらわれたネックレスとブレスレット。大公妃として着用を許されているティアラは父が大金をはたいて作らせていたようで、邸宅を出る前にプラチナブロンドの髪に載せられた。


 公爵家の財力の化身と化したジルと宮殿で擦れ違う者達は、誰もが眩しそうに目を瞬かせた。

背後に札束が見えるのかもしれない。 


「ジルよ。お前を心から誇りに思うぞ。今のお前の姿は真夏の湖に現れる水の精霊の様に美しい!」


「大公に献上される粗品の一つとして、まともに見えるようにラッピングされているのかもしれませんわね!」


「粗品になれる事を喜ぶのだ!」


「喜べるわけないのですわ……」


 これから大公に会うのかと思うと、心が冷えてくる。今すぐハイヒールを投げ捨てて逃亡してやりたくなるのに、父にがっちりと手首を掴まれてしまっているせいでそれはかなわない。


「娘を連れて来た! この国の大公妃ジル・シュタウフェンベルク・フォン・ハーターシュタインをな!」


「大公がお待ちです。お入りください!」


 玉座の間の扉前に立つ近衛達は一瞬ジルの姿にギョッとした顔をした後敬礼し、扉を開けた。


(会いたくないわ……)


 玉座に足を組んで座る青年は不機嫌そうな顔をしていたが、ジルに視線を向け、目を丸くした。

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