八話 トリックスター、ロックオン!



【英雄志望768:発想と根気さえあれば、個人でも傑作ゲームに匹敵するものが作れる昨今。アニメから漫画、デスゲーム、なんでもござれの娯楽飽和時代にあって、ヘーラクレースという英雄を知らない人はいないと思う。だけどこれだけは言わせてほしい】


【英雄志望769:うむ】


【英雄志望770:『ヘーラクレース』は……日本自治区だと長母音を略して『ヘラクレス』と呼ばれる英雄は――女じゃ、ないんだよ……ッ! 『ヘーラクレース』と『ヘラクレス』は名前が似てる別人なんかじゃなくて、完全無欠に同一人物なんだ……ッ!】


【英雄志望771:う……嘘だッ! ヘラクレスってギリシア神話唯一にして最強の女英雄だろ!? アマゾネスの女王なんだッ!】


【英雄志望772:え? ヘーラクレースとヘラクレスって別人で、悪のヘーラクレースと善のヘラクレスが対決、その後に神話大決戦の末に世界崩壊させた奴なんじゃないの?】


【英雄志望773:いやいや時の女神をシメて世界と時代を股にかけて大冒険する英雄でしょ? 知ってるってそれぐらい】


【英雄志望774:……頭痛くなってきた】


【英雄志望775:著名過ぎて名作駄作問わず、創作の元ネタにされ過ぎた結果、原典が無名に近くなってしまった全ての神話にごめんなさいしないとね】


【英雄志望776:おれらの罪は重い】


【英雄志望777:確定無罪のおれを原罪に巻き込むな】


【英雄志望778:責任逃れカッコ悪いぞ。生きとし生ける者、全員が背負うべき時代の罪なんやからね……】


【英雄志望779:話を戻すぞー。ニコちゃんが反応しない今の内に、最低限『本物のヘラクレス』に関して話しておこうと思う】


【英雄志望780:ヘラクレスは知ってても、原典に関しちゃ知らんヤツ多いもんね。ネットの海に氾濫してるの、おおむねサブカルチャーに汚染されてるし。本気で調べない限り原典に触れられる人なんかおらんしな。いいか、ヘラクレスは金髪ロリの怪力ヒロインなんかじゃないぞ!】


【英雄志望781:長文いくぞ。目が滑る人、すでに知ってる人は流してね。


 ヘラクレスとは言うまでもなくギリシア神話の英雄だ。最高神ゼウスが対巨人のために生み出した最終兵器で、ある意味ゼウスの最高傑作と言える。ゼウスのコーディネートによって最高の血筋で生まれ、女神ヘラの乳を飲んで強力な力を得たヘラクレスは、ヘラからの神話的八つ当たりが原因で十の試練を課され、なんやかんやあって更に二つ足した十二の試練を成し遂げた。神対巨人ではほとんどの巨人を射殺して、十二の試練の他にも様々な冒険をこなし、自他共に認めるギリシア神話最強最大の血統大正義英雄になる。


 後世のおれらによって高潔な紳士だったりカブトムシだったり執金剛神だったりエロゲヒロインだったりもするが、それらは一部除きほとんどの場合が創作で、原典のヘラクレスは腕力こそ全ての典型的ギリシア英雄である。他の酷い英雄と比べると少しだけマイルドだけど、後世のおれらからすると野蛮オブ野蛮の原人だ。逆に当時の人からすると後世のおれらは腑抜けばっかりなんだろうけど、それはさておきギリシア英雄はほぼ全て、超がつくほどの危険人物であるということを覚えていてほしい。


 いい子のみんな! 今後ニコちゃんが無事に活躍していくと、おれも『オリンポス』に行ってみたーい! ってなるヤツも出てくるかもしれんが、忘れるな! 奴らとおれらの価値観は全然違うし基本的に危険人物だ! 誤解を恐れず言うと時代が違う分、おれらにとって古代の英雄はサイコパスだぞ!】


【英雄志望782: !? 】


【英雄志望783:夢を壊された。訴訟】


【英雄志望784:ちなみにギリシア神話だけじゃなく、神話と名のつくものに登場する英雄は、神様含めて畜生が多いのでそこは誤解のないように。日本神話も北欧神話もインド神話もその他諸々も例外じゃないぞ! 平和ボケしたおれらの価値観で接してたら痛い目見るからな!】


【英雄志望785:時代が悪いよ時代がー】


【英雄志望786:ジェネレーションギャップというヤツやね。今のおれらの常識が、未来の奴らにとっての常識とはかけ離れてる可能性も高いわけやし】


【英雄志望787:おまえら好き放題言ってるけど、そのギリシア神話っぽい世界にニコちゃんいるんだからな……? ちょっとは心配してあげよ……?】


【英雄志望788:『主に貞操を』ですね分かります】


【英雄志望789:お客様お客様お客様! 困ります! あーっ! お客様困ります! 困ります! あーっ困りますお客様! ここは全年齢板! あーっ困りますお客様! エッチぃ展開だけは困ります! お客様! 困ります!】


【英雄志望790: 》》789 ワロタwww】


【運営:未成年の方がご覧になれない映像は自動的にカットされます。年齢認証をお済ましの視聴者の方のみ、変わらずご視聴いただけますのでご安心ください。ただし気分を悪くなされても、運営は対応いたしませんのであらかじめご了承ください】


【英雄志望791:運営? なぜここに……監視していたのか? 一秒も欠かさずに!?(腹パン)】


【英雄志望792:運営に腹パンとかおまえ勇者かよ……】


【英雄志望793:※このスレは『オリンポス』の運営に監視されています】




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『ヘーラクレース、貴様に九つ目の勤めを言い渡す。アマゾーンの国に出向き女王の腰帯を手に入れてくるのだ』


 根深く、頑迷な恐怖に取り憑かれた顔だ。妄想に支配された弱い男の声だ。

 取るに足りない小者。その指図に従わねばならないことは、とてつもなく巨大な不快感をヘーラクレースに齎した。

 だが、堪える。無言で頷く。

 ヘーラクレースは玉座にしがみつくように座っている男と、一度として言葉を交わしたことはない。彼はミュケナイ王の座に固執し、王位をヘーラクレースに奪われるのではないかと怯えているようだが、その勝手な思い込みを正してやる気にもならない。


 エウリュステウスから勤めを言い渡されると、ヘーラクレースはミュケナイからさっさと出て行った。


 アマゾーンとの争いになるな、と気が重くなる。アマゾーンはギリシアの英雄に負けず劣らず、血の気の多い女戦士の部族だ。女王の腰帯を寄越せなどと言えば、血を見ずに事態は鎮まらなくなると簡単に予想できる。

 そこでヘーラクレースはテーセウスをはじめとする数名の勇士を集め、アマゾーンへと乗り込んだが、争えば後々の遺恨となるのは自明である。無理を承知で交渉に踏み切り、せめて一度だけでも話し合おうとした。武器を取り戦うのは、あくまで最後の手段であってほしいと切に願って。


 だがヘーラクレースの予想は良い意味で裏切られ……そして直後、悪い意味で裏切られることとなる。


 女王ヒッポリュテーはヘーラクレースたちを見るなり、その強靭な肉体に惚れ込んできたのだ。自分たちアマゾーンの女たちと交わり、強い子供を産ませてくれれば腰帯を渡すと交換条件を出され、ヘーラクレースやテーセウスらは頷いた。――これが、良い意味で予想を裏切ったもの。

 ヘーラクレースは心中で安心し、アマゾーンの奥地にまで案内を受けた。争わず穏便に済むならそれに越したことはないだろう。ヘーラクレースをはじめテーセウスらはすっかり気を緩めていた。だがアマゾーンの女戦士たちは、与えられた館で休んでいるヘーラクレースたちを突如攻撃してきたではないか。――それが悪い意味での裏切りだった。


『待ってくれ、ヘーラクレース! 私は誓ってお前を罠に掛けたりなどしていない! 配下の者が誤解しているだけだ、すぐに命じて大人しくさせる! だから――』


 怒ったヘーラクレースは、ヒッポリュテーの誘いが罠であったと思い込み、武装を解除して弁明するヒッポリュテーの話も聞かずに殴り殺してしまった。


 だが後で冷静になると、ヒッポリュテーの目は嘘を言っていたようには見えなかったと後悔する羽目になる。


 きっと何か不幸な行き違いがあったのだろう。彼女の部下が血気に逸り、勝手に行動していただけなのかもしれない。少し考えればすぐ思い到れるのに、どうして自分はこうも短気なのだ。

 後悔しても、もう遅い。何もかも致命的に手遅れである。ヒッポリュテーを殺したことでアマゾーンと決定的に敵対したヘーラクレースは、女王の腰帯を持って脱出するしかなかった。


 テーセウスたちとも別れると、ヘーラクレースはミュケナイの地に向けて帰路に着く。

 英雄譚はいつだって血に塗れている。擦り込まれた血の臭いを人々は称賛し――しかしヘーラクレースだけは、栄光の光の下で血溜まりを見ていた。

 彼が転機を迎えるには、ある少女との邂逅を待たねばならない。

 その時は、刻一刻と近づいている。




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 英雄ペルセウスの子孫にして、ミュケナイ王家の血を引く英雄ヘーラクレースの心は深く沈んでいた。


 ミュケナイ王エウリュステウスに課された九つ目の勤めとして、アマゾーンの女王が持つ腰帯を無事手に入れたところである。

 彼は女王ヒッポリュテーを殺して腰帯を奪った。だが誓って言える、ヘーラクレースは最初、理性のある内はヒッポリュテーを殺めるつもりなどなかったと。

 仕方がなかったのだ……内心に留め置いたその言い訳が、微かな痺れとなって心を蝕む。

 豪勇で知られ、既に英雄の名声をほしいままにしているヘーラクレースが、斯くの如く情けない一面を持っていることを知る者はいない。知ってもらいたいという思いもヘーラクレースにはなかった。


 己の弱さは、己だけが知ればいい。己の弱さを克服できるのは、己自身しか在り得ないのだから。


 『英雄』としての道を歩み出した時から、ヘーラクレースは己に定めたのである。狂気に駆られ妻子を炎に投げ込み、無惨にも殺してしまった己の弱さ、狂気などに支配された己の脆さを必ずや超克してみせると。

 それは、ヘーラクレースの『逃げ』である。そんなことはないと誰かが否定したとしても、ヘーラクレース自身の深層心理が認めていた。これは逃げだ、と。

 妻子を殺めた罪の清算のため、神託に従いエウリュステウスから命じられた勤めを果たしているが、そんなものがなんの償いにもならないことぐらいヘーラクレースには分かっていた。

 たとえ全ての勤めを果たして世界や神が許そうと、そんなものは関係ない。己が定めた己の法を己が破ったのだ、ならば裁けるのは己だけである。故に、ヘーラクレースは断じる。他者の許しなど要らないと。

 欲するのは己自身が認める価値あるものだ。己が定めた償いだけだ。己の弱さが齎した罪を贖うためだけに、ヘーラクレースは自らが望まない最も険しい道を往くのである。


 世間では、敢えて苦難の道を行くことを『ヘーラクレースの選択』と言っているらしい。


 馬鹿馬鹿しいと思う。苦難の道を行くのは妻と子への贖罪のためでしかないのだ。『英雄』への道など、償いのためのものでしかない。

 他者の称賛や評価などなくとも、ヘーラクレースは自分が『英雄』であることを知っている。

 天上天下にただ一人、己は最強の存在であると自負し、その自負を裏付ける偉業を成し遂げてきたヘーラクレースを打ちのめせるのは、ヘーラクレースが持つ自責の念だけなのだから。


(オレは、愚かな男だ。冥府で待てヒッポリュテー。お前を殺した罪はお前に殺されることで贖いたいが、死者であるお前に殺されることはできん。故に、いつかオレはお前の味わった苦痛に百倍する苦しみの中で死のう)


 胸中に溢した独白は、苛烈な誓いである。激情家なヘーラクレースだが、だからこそ己への裁きも厳しくなるのだ。

 ヘーラクレースは己の仕出かした愚行を強く責める。全身に刻まれた傷の悉くは自傷によるもの。己の犯した罪の数と重さの分だけ体に傷を刻んでいる。

 忘れないために。いつか全ての罪を清算した時に、己を許すために。

 見上げるのは帰還すべき地があるだろう方角ソラ。遠く離れたそこを、忌々しげに眺める英雄の目は険しい。


(オレは――今はミュケナイには帰らん。今エウリュステウスの面を拝めば、手を出してしまわない自信がない)


 ヘーラクレースは己を知る。いや、己しか知らないとも言えるだろう。すべての判断基準が己自身に帰結しているためだ。

 自己中心的な男、自己評価はそれだ。そのくせ己は非常に短気で、度し難いほど気性が荒い。そう認めている。だから己が今、嫌っているエウリュステウスを見れば、何を仕出かすか分かったものではないと分析できた。

 英雄ヘーラクレースは、その精神も超人的である。しかし半神デミ・ゴッドである彼も半分は人間なのだ、疲弊した心を慰めるために目的から逸れることもある。過ちを犯してしまいそうな己を自覚したヘーラクレースは、ひとまず一度着いた帰路から離れることにした。


 寄り道をする方便として、以前小耳に挟んだ噂話を利用しよう。


 その噂話とは初代イリオン王の子であったガニメデに、最高神ゼウスが惚れ込んで誘拐したというもの。代償としてガニメデの父親に神馬が贈られ、彼の神馬は今もイリオンにいるという。

 はっきり言えば、ヘーラクレースは神馬を欲しいとは思わない。しかし寄り道をする方便には使える。イリオンに向かい、神馬を譲ってくれとイリオン王へ頼む。まず断られるだろうが構わない。なに、些細な寄り道だ。慰安旅行の口実でしかない。断られたからと怒るような自分ではないはずだ。


 そうしてヘーラクレースはイリオンに向かった。


 まさかそこに、外宇宙の因果による運命が己を待ち受けているなどとは、全知に程遠いヘーラクレースに予期し得るはずもなかった。

 イリオンはエーゲ海に面した都市だ。アマゾーンの住んでいる黒海沿岸からそこを目指すということは、必然的に海に面した道を旅することになる。ヘーラクレースも当然その道を行き――見掛けたのだ。見掛けてしまったのだ。

 断崖絶壁のすぐ近くに、乱雑に築かれた大岩のような祭壇を。

 その壇上で佇み、海上に姿を現した怪物を眺める少女を。


 あの怪物を鎮めるための生贄だろうか? まだ若いだろうに……。


 憐れに思い、ヘーラクレースは彼女を助けようと馬を進める。

 偶然見掛けて捕まえた黒馬も、ヘーラクレースの巨体と重い棍棒のせいで潰れかけている。良い休憩になるだろうとも思った。


 ヘーラクレースの接近に気づいたらしい。少女が振り返ってくる。


「―――」


 息を呑んだ。

 多くの美女を知る身である。己が殺めた妻も、アマゾーンの女王ヒッポリュテーも、近隣に並ぶ者のいない美女だったという思いがヘーラクレースにあった。

 だがその少女は、ヘーラクレースがこれまで見たことがないほどに――それこそ今まで美しいと思ってきた全てよりも、比較にならないほど美しかった。

 美しい、だけではない。可憐だった。一目で心を奪われる。血に塗れた己の手で触れるのが躊躇われるほどに清く、そしてどんな神よりも神聖だ。


 さながら原初の神の彫刻。神殿から削り出された無垢なる器。同じ肉と血を持つ生き物とは思えない。


 美しく、可憐で、清く、神聖だ。だからこそヘーラクレースは心を奪われ、獣と化した己の欲望が彼女を組み伏せろと命じてくる。攫って自分のものにしてしまえと悪しき心が誘惑してくる。

 ヘーラクレースは理性の力で無理矢理に色欲を捻じ伏せた。

 好色なゼウスの血が、己の理性の鎖を断ち切るなど許せるものではない。己は己のものだ、たとえ神であっても己という存在は奪わせない。


「娘、こんな所で何をしている?」


 知らず声が震えていた。そんな己に舌打ちしたくなる。そしてこの段になってようやく、彼女が素晴らしい刀剣を所持しているのに気づいた。

 見たことがない形状の剣だ。細長く、優美な曲線を描いた片刃の刀身を有している。だが脆い印象はない。途方もない質量を感じた。

 少女は自然体のまま、ふわりと微笑む。神域の森を突き抜けて吹く、清らかな風のような笑みだ。ヘーラクレースは体を震えさせる。あたかも懸想している乙女に対しているかのような初心な反応に、自分で自分を殺したくなった。


「おや、旅の御方ですか?」


 声まで耳を貫通し、脳を掻き回し、魂にこびりつくような甘さがある。振り払うように黒馬の背から飛び降りると、身に帯びた超重の質量で小さな地響きが起こる。ヘーラクレースの棍棒の重量のせいだ。

 黒馬は崩れ落ちるように倒れ、息も絶え絶えの様子。構わず、少女の問いに「ああ」と短く答える。


「無関係な方にお話して、無為に気にかけさせてしまうのは気が引けます。どうか何も言わず、何も見なかったものとして立ち去ってください」

「……そういうわけにもいかん。見たところアレは海神の化生。お前は荒ぶる海神を鎮めるため、生贄にされているのだろう。知ってしまったものを見捨てたとあってはオレの沽券に関わる」


 そうだ、いつも通りだ。己の決めたように動く、何も迷うことなどない。

 ヘーラクレースは英雄だ。この世で誰よりも強い。ともすると神よりも己は強いだろう。

 設計された通りに強者として生まれ、英雄になるべくして在り、比肩する者のない剛力を活かす技を備えた。そんな自分を縛れる法などあらゆる国に存在せず、己の魂しか指針足り得ないのであれば、己自身を縛る己の法を以って、己は生者の世界で呼吸する。

 英雄なのだ、己は。その矜持だけが生きるための背骨。それを曲げることはゼウスにすらできない。そしてそうであるなら、英雄として弱き者を襲う悲劇を見過ごしはしない。弱者を襲う理不尽を見過ごすのは弱者と卑怯者だけ、強者にして英雄である己の法が下す裁定は、力づくの救済である。

 傲慢なまでに一方的に救う。弱者は救われ、女は女らしい幸せの中で生きればいい。


「助けは要るか? いや、答えは聞かん。もしお前が命を落とす瀬戸際にいるのなら、オレはお前に救いの手を差し伸べる。手は伸ばさなくてもいい、オレが勝手に掴むだけだ」

「……勇敢な方なのですね」


 少女は笑みを失わない。


「ですが神罰の獣マレハーダの贄となるのがこの私に課された責務。神罰の対象はイリオンです、故にイリオンの人間だけが当事者であるべきでしょう。部外者の介入を受けたとあっては王家の恥となる。故に私は責務を果たします、邪魔立てしないでください」

「ほう……」


 死を受容する少女の言には、高貴な身の上からくる自己犠牲があった。

 尊い意志だ。ヘーラクレースは素直に好感を持つ。


「娘、名は?」

「ニコマと申します。イリオン王家の末席を汚す身です」

「王女だったか。なるほどイリオン王は素晴らしい娘を持っているらしい。自らの命を以って国を救おうとする高潔さは、まさにイリオンの宝と言える」

「望外の賛辞です。ありがとうございます」

「礼は要らん。ニコマ、お前がイリオンの王女として責務を果たすと言うのなら、オレはギリシアの英雄らしく振る舞おう」


 見下ろす英雄と、見上げる少女。交錯する視線に、英雄は誇りを込めた。


オレは・・・ヘーラクレースだ・・・・・・・・


 その名乗りには、無限大の説得力がある。絶大な重みがある。九つの勤めを果たしているヘーラクレースの名は、既に世界に轟いているのだ。

 何より名乗った男自身に極大の凄みがある。桁外れの迫力がある。

 少女は驚いたように目を見開いた。


「……ヘーラクレース。あなたが、あの」

「そうだ。あの程度の化生、オレの敵ではない。だが弱き者共には天が落ちてくるのに等しい脅威だろう。故にオレはイリオン王に要求する。お前の娘を救い、そして同時にイリオンも救った対価として、ゼウスにガニメデの代償として授けられた馬を寄越せとな」


 無償で寄越せと要求するよりも、俄然譲ってもらえる可能性は高まる。元々神馬は寄り道の方便でしかなかったが、にわかにその入手が真実味を帯びて機嫌が上向いてきた。

 

「海神の化生を滅ぼした後での要求になる。いい顔はされんだろうが、まさか断りはしないだろう」


 何せ国を救い、娘も救うのだ。文句など出るはずがない。

 ヘーラクレースがそう言うと、ニコマはさらに笑みを深めた。


「私如きがヘーラクレース様をお止めするのは不可能ですね。仕方がないと諦めて、救いの手を掴ませてもらいます」

「そうするといい。オレとしても死にたがりを救うのは手間だからな。さあ家に帰れ、ニコマ。そしてオレの要求をイリオン王に伝えろ」

「嫌です」

「……なに?」


 予想外なことに、少女はヘーラクレースの命令を撥ね退けた。

 女とはアマゾーンの者以外、貞淑で男に忠実であるのが美徳とされる。そんな常識に真っ向から歯向かって、ニコマは楽しげに言うのだ。


「これは誰にも秘密にしているのですが、私は軍神アレイス様の血を引く半神デミ・ゴッドです。ほら、私は武装しているでしょう? ただで喰われるぐらいなら、せめて一矢報いてやろうと思っていました。ヘーラクレース様がご助力くださるなら、一矢を報いるどころか討ち滅ぼせてしまうでしょう、必勝を確約された戦で身を引くだなんて、アレイス様の血に恥じる行ない。私もあなたと共に戦わせていただきます」

「――クッ」


 クッ、クッ、と。

 ヘーラクレースはニコマの言葉に腹の底から湧いて出るものを感じた。

 笑いを噛み殺す。殺し切れずに肩が震える。愉快だった。ニコマが猛々しい戦士の一面を持っているのが、堪らなく魅力的だった。

 笑うしかない。ヘーラクレースは、自らが認める価値あるものを見つけた。


「ニコマは、軍神の娘か」

「はい。この件はどうか内密にしてくださいね。知られてしまうと大変なことになってしまいます」

「ああ、いいだろう。そんな血よりもお前の方が価値がある。――決めたぞ。オレは馬など要らん、お前を貰う・・・・・

「……え?」

「独り身も寂しい。旅の道連れもほしい。勤めを終えるまでそう長い時は掛からんだろう。お前が小娘から女になるまでには迎えに来れる。なんなら連れて行ってしまうのもアリだ」

「………」


 血が昂ぶってくる。ああ、この少女は本当にイイ女だ。ヘーラクレースは背負っていた愛用の棍棒を掴み、鎧に取り付けていた金具を弾いて棍棒を抜く。

 もうすぐそこまで迫ってきているマレハーダなる神罰の意志、それに向かって行きながらヘーラクレースは獰猛に笑い、ニコマに言った。


「ニコマ、オレは奴の体内に飛び込む。お前は死なないように好きにやれ。軍神の娘なのだろう? 下手な戦をして親の名を汚しては、お前に流れる血の矜持が泣いてしまうぞ」


 言うや否や、ヘーラクレースは雄叫びを上げた。凄まじい声量は人間の限界値を超え、海面はおろか海深くにまで貫いてしまう。

 マレハーダは驚いたのだろう、思わずといった様子で海面に顔を出してしまう。――そこへ擲たれたヘーラクレースの棍棒が直撃し、上体を大きく仰け反らせた。

 英雄が跳ぶ。マレハーダの眉間を撃ち、虚空に跳ね返されていた棍棒を掴んだかと思うと、金獅子の如き髪を靡かせてマレハーダの口の中に飛び込んだ。


 それを見ていたニコマは、硬直していて。怪物の中に消えた英雄を、欠片も心配することなく呆然とする。


「……え?」


 二度目の困惑の声。

 ニコマは戸惑っていた。意味が分からなかったから。


「私を『貰う』って……なんでそうなるんです?」


 考える。考える。考えて、思う。


「……うん。これは早々にえんがちょする必要がありますね」


 がんばえー、女神ヘラ様ー! とでも言っておきましょうと呟いて。

 ニコマは意識を切り替え、眼前で悶え苦しむマレハーダに向かって行った。






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