第11話

「サラ、今、五十嵐のことを考えているでしょ?」

「どうして分かったんですか?」私は、瀬川の突然の問いかけに心臓が大きく拍動するのを感じ、さらに驚いた。

「顔に書いてある」

「その台詞、私一度でいいから言ってみたいんです」

「ごまかしてもだめ」瀬川は頬杖をつき、探るように目を細めた。少し間を置いて、言葉を続けた。「生徒たちの間で噂になってる。サラは五十嵐のことが好きなんじゃないか、ってね」


 夕日に染まった瀬川の顔が頭に浮かんだ。きっと、五十嵐の話がしたくて誘ったのだ。噂の真相を確かめるためか、それとも——。

「そんな、でたらめですよ」私は掌を胸の前で大きく振った。まさかそんな噂が生徒の間に広まっているとは知らなかった。

「分かっているよ。あなたは、五十嵐の授業中の態度が気に入らないんでしょ」

「気に入らない、というよりも気にしているんです。彼のことが心配なだけです」

「まあ、生徒たちの噂はいずれ立ち消えになるだろうけど。でも、言ったでしょ。五十嵐のことは気にしちゃ駄目。今あの子にへそを曲げられたら、それこそ厄介だよ」


「瀬川さんの言っていることも分かります。他の先生もそうやって、腫れ物に触るように彼に接していることも知っています。でも、本当にそれでいいのでしょうか」

 五十嵐の横顔を思い出していた。まぶたが重力に抗うことなく下がり、目を細めている姿だ。何かを凝視しているという感じではない。どちらかといえば、虚ろな表情をしている。かといって、授業を聞いていないわけではないし、理解できていないわけではない。そのことは、五十嵐の成績が如実に示していた。

「私たちも、別に諦めているわけじゃないの。私はね、あの子が授業中によそ見をしていることを注意するよりは、振り向かせる努力をする方がいいと思っているの」


「振り向かせるというのは、なんだか恋人に使う手段みたいですね」

「こちらの気持ちを伝えるという意味では、同じかも。相手が彼氏だと思えば、あ、私はちゃんと彼氏いるからね」瀬川は噂の立っている私と一線を引いた。「そう思えばさ、女がすることといえば、癇癪を起こすか、振り向かせようと努力をするとか、そう言う具合でしょ」

「注意することが、癇癪を起こすということですか」

「男からすれば、そう見えるんじゃない? 分かんないけどさ。男って理屈っぽくて、でも子供っぽいから、矛盾だらけだけど、そういうところを指摘するとすぐに怒るし、面倒臭いんだよね」


「それは分かります。英国の男性も同じような感じでしたし」私は、学生時代に交際していた二つ年上のスティーブのことを考えていた。スティーブは私に深い愛情を注いでくれたが、肝心なところでいつもすれ違いが起こった。私の誕生日に限って急な仕事が入ったり、クリスマス休暇の旅行は悪天候で散々な目にあったり、不運が重なった。まだ若かった私は、寂しいという気持ちを歪んだ形でぶつけていた。スティーブは私の機嫌をとるために色々と尽くしてくれたが、そのどれもが気に障った。

 そういう意味では、スティーブに癇癪を起こしていたのかもしれない。


「結局、男って、女なんか宥めればどうにかなるって思っているの。でも、そんなことしても心の隙間が埋まらない。そういう悪循環に陥る前に話し合うとかしないといけないんだろうけど。女が感情的になったら、試合には勝つけど、勝負には負けるだろうね。だからね、私は怒らないようにしているの。感情的にならず、静かに、振り向くのを待つようにしている。案外、男って女が静かにしていることには敏感でさ。そうして近づいてきた時に、一つだけ、こっちから注文をするの。意外と男はそれを真摯に聞いてくれる」

「まるで、瀬川さんの恋愛講座を聞いているみたいです」


 瀬川は掌を動かし、そんな大それたものじゃない、と顔を赤らめた。

「でもまあ、似たようなものじゃないの? 教育も恋愛もさ。人と人とがある期間同じ空間や組織で生活をしていくんだもの。軋轢や障害はきっとあるだろうし。それを感情的にどうにかするのか、それとも互いの利益や落としどころを探るか。いずれにしても、最終的には女が勝つんだけど、男にも納得してもらわないと意味がないし、意味のない喧嘩はするものじゃないよね。そんな消耗戦をしていたら、どっちかが根を上げちゃう」

 結局のところ、瀬川が何を言いたかったのか、全てが分かったわけではなかった。しかし、感情的に叱責をしても暖簾に腕押しであるなら、その暖簾を外してしまうのも方法なのかもしれない、と思った。五十嵐と私の間にある暖簾を外すことで、せめて私がここにいることを、五十嵐に分かってほしかった。そして、五十嵐のことを深く理解したいと思った。


「瀬川さん、私はただ、知りたいんです。彼が窓の外から何を見ているのかを」

「相手の気持ちを知るっていうのも、振り向かせるには大切なことだよね。男なんて、おだてておけば木にだって昇るし、大学にも合格するし、きっとそういうものじゃない?」

 笹本が大きなプレートを二つ掌に乗せてやって来たのは、瀬川が「きっとそういうものじゃない」と頬杖をついたまま、気だるい表情で言った時だった。

「さ、照り焼きバーガーのできあがりだよ。召し上がれ」笹本の声は、やはり恭しい英国紳士のそれだった。私はこの店に来るたびに、ロンドンの路地裏にあるバルを思い出す。淡い照明に照らされたテラスや味のある椅子やテーブルなど、大英帝国時代の気品や情緒が密やかに漂うその場所が好きだった。笹本の店にも同じような雰囲気を感じていた。東京の路地裏でロンドンの風景が蘇るとは想像していなかった。私が足しげく笹本の店に通っているのも、この望郷の念に応えるためだということを、笹本はもちろん知らない。


 バンズに収まりきらないパティも、照り焼きソースの甘い香りも、みずみずしいレタスやタマネギも、いつもと変わらなかった。変わらないことの安心感に、私はほっとした。

「美味しそう。これ、このまま食べるの?」

「私はいつもそうです。笹本さんには、豪快だって笑われますけど」

「だろうね」瀬川はバンズを両手で掴んで、一口ほおばった。レタスの繊維が音を立てた。瀬川は満足そうに目を細めた。私も笑った。笹本も、厨房で笑顔を向けていた。

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