第8話

 夏休みが終わり、二学期に入った。とはいえ、九月の東京はまだまだ暑かった。弓道場は半分屋外にあるため、湿気を大量に含んだ熱風が容赦なく袴に吹き付け、私の背中はすぐに汗でぐっしょりと濡れた。袴は風の通りが良かったが、それも気休め程度でしかなかった。

 額からこぼれそうになる汗を手の甲で拭い、弓を構えた。胸を大きく開き、弓を引く。息を止め、弓矢の軌道を目線の先に描く。指先に全神経を集中させると、周りの喧噪が遠のく気配がした。筈にかけた親指を素早く離すと、風を切る音と共に矢が飛んでいく。的に向かえばあの横顔が蘇ってくることもないと思っていたのだが、私の頭はそう単純ではないらしかった。いつしか、その横顔を的に重ねるようになった。矢はいつも五十嵐の顔を避けるように、的の端に中るばかりだった。


「サラ、少し休憩すれば? あんまり根を詰めると熱中症になるよ」瀬川はそう言って、ペットボトルのスポーツドリンクを手渡してきた。

「ありがとうございます。そうします」私は快くそれを受け取り、奥に下がった。代わりに中嶋が弓を構える。西洋人の私と違って、日本の生徒は袴が良く似合った。自分の袴姿を鏡で見たことがあったが、どうしても違和感を感じずにはいられなかった。まるで、ハリウッド映画にしばしば登場する謎の武道家みたいだった。


 生徒たちが真剣に的に向かう姿勢や眼差しを見ながら、私はまた、あの五十嵐青年のことを考えていた。

 五十嵐は活動の実態があるかどうか分からない文化部に所属していて、それは帰宅部と同義だった。休み時間にクラスメイトとじゃれ合っている姿を良く目にしていた。友人と言える存在はいたはずなのに、帰りはいつも一人だった。夕方の教室で、彼が一人残って窓の外をぼんやりと見ている光景を、一学期の間に何度も見かけた。その横顔を見るたび、心がざわつくのを感じた。その感情が一体なんなのか、判然としなかった。

 意識を目の前の風景に戻した。遠くの方から、蝉の声が聞こえた。弓道場はケヤキで囲まれていた。風が吹く。枝がざわざわと揺れ、葉のこすれる音がした。いつしか太陽がケヤキの陰に隠れ、弓道場は木々の影の中に入った。風が少しだけ涼しく感じた。

 日没を待たず、部活動は終了した。片付けをしていると、瀬川が近づき、「このあと時間ある?」と言った。瀬川と私は、たまに夕食を共にした。彼女も中野に住んでいて、家も近いので、彼女の車でドライブがてら色々なところに出かけた。私は即答した。


「ええ。大丈夫です」

 日本における友人と呼べる存在は、よく考えてみれば瀬川くらいだった。東京支社にも日本人のスタッフはいたが、こちらから話しかけても、仕事以外の話題に触れるのを嫌っている様子だったし、仲良くなるきっかけが掴めなかった。彼らは今頃どこで何をしているのか、私は知らない。

 シャワールームで汗を洗い流し、着替えると早速学校を出た。西の空が茜色に染まっていた。日本の空は鮮やかだ。雨の多い英国ではなかなか夕日を拝む機会がない。見ることができても、日本の夕日とは違いどこか色褪せていた。湿度のせいか、はたまた緯度の違いなのか、理由は分からない。


 駐車場に向かう通路を二人で並んで歩いた。グラウンドではまだ野球部が練習をしていた。甲高い音に振り向くと、打者がバッターボックスから一塁に向かって走り出す姿が見えた。野手が大きく手を振っていた。グラブにボールを捉え、内野に走り始めた。スリーアウト、攻守交代の合図が遅れて聞こえた。

 駐車場にはたくさんの車が停まっていた。高校の教師は忙しかった。ALTの自分でさえ、日々の授業計画や学校行事の打ち合わせなど仕事がたくさんあるのに、日本人のその他の教師は担当するクラスや科目も複数抱えていて、毎日遅くまで残業をしていた。瀬川も例外ではないが、私のために無理して時間を取ってくれるのだ。


 瀬川の車は駐車場の一番隅に停まっていた。銀色の小さなボディーが夕日を反射して光沢を放っていた。瀬川がキーを操作すると、車のウインカーが点滅した。

 運転席側に回った瀬川の顔に西日が当たり、その頬をオレンジ色に照らした。瀬川はどこか寂しげで、いつもと違う何かを私は感じていた。「さて、今日はどこに行こう」瀬川は言った。「この間は六本木だったし、その前は麻布でしょ? 有名どころは行き尽くした感じがするし、どうしようか」瀬川は、英国人の私に日本の美味しい料理を食べさせようと躍起になっていた。英国の料理があまり美味しくないということは世界に知れ渡った事実のようで、もちろんそこに住む私たちはそのことに無自覚でいるわけではないが、レストランの味にはそもそも期待していないのも事実だった。英国の大学に留学経験のある瀬川にとって、そこでの食事は甚だ不本意だったらしく、日本人で良かったと心から思ったという。


「それじゃあ、私のよくいく場所にしましょうか?」

「どこなの?」

 瀬川にそう尋ねられ、私は用意していた答えを言った。

「月島、です」

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