第4話

「流暢な日本語だね。日本は長いのかい」」笹本は鉄板でパティとバンズを焼きながら言った。油の跳ねる音が細かく鉄板を叩き、白い煙がうっすらと立ち上っていた。

「いえ、一年くらいです。イングランドの大学で日本の風俗や文化を勉強していて、日本語も一緒に覚えたんです」


 日本語のトレーニングは大変だった。文字だけでもひらがな、カタカナ、漢字と三種類もあるし、それが入り交じって文章を作るなんて、最初は信じられなかった。話し言葉と書き言葉も微妙に異なるから、テキストを読んでいても話せるようにはなれなかった。幸い、同じカレッジに日本からの留学生がいて、彼女から毎日のように日本語を教わった。日本語は知れば知るほど興味深く、私はすっかり日本語の虜になってしまった。村上春樹の「風の歌を聴け」を原文で読むことができた時は、大変感動したのを覚えている。日本語は綺麗な言葉だ。美しい自然と寄り添うように育まれた言葉なのだと思う。言葉の音色やリズムが奥ゆかしさを演出し、心にするりと染み込んでくる。


「大学からかい」笹本は驚きの声を上げた。「外国の人は本当に真面目だ。うちの息子なんて、中学から英語を勉強しているくせに、何も話せやしないっていうのに」

「息子さんは今何歳なんですか」

「二十歳だ。大学に通っているよ。数学を勉強しているらしい。私にはさっぱり分からないがね」笹本は話しながらも、作業の手を止めることはなかった。パティを裏返し、照り焼きソースを絡め、更に焼いている様子だった。醤油の焦げる香りが私の鼻腔を刺激した。


「数学を勉強なさっているんですか? 素敵じゃないですか」

「昔から、数学だけは良くできたんだ。私も家内も文系なのに、どうしてだろうな」

「確かに、不思議ですね」私は、笹本の息子が数式と格闘している姿を想像した。もしかしたら彼は、自身と両親との違いについて、数学的に明らかにするつもりなのかもしれないと思った。


 数学は会話だと聞いたことがある。自分とこの世界を創った神との果てしない会話だ。人間は、自然界を形成する仕組みを一つずつ解き明かし、神が創り賜うたこの世界を必死に理解しようとしている。ピタゴラスは直角三角形に潜む法則を発見し、ガウスは複素数の重要性を示し、ニュートンやライプニッツは現代に通じる微分積分学を構築した。それもすべて、自然の営みを理解し、人類の幸福を追求するその先に神の姿が見えたからだろう。


「ところで、名前を聞いていなかったが、お名前は?」笹本は、《What’s your name?》と続けた。先ほどと違って、滑らかに英語が笹本の口を滑り降りた。

「サラ ハリソンと言います」

「私は笹本浩平だ。それにしても、本当に日本語が上手だ」笹本は私が話すたびに感心していた。「サラさんは、今どんな仕事をしているんだい」バンズにマヨネーズソースを塗りながら、笹本は言った。

「今は、高校で英語を教えています。日本の生徒はみんなシャイですけど、真面目に話を聞いてくれます」言葉とは裏腹に、私は五十嵐の物憂げな表情を思い描いた。その時点で、五十嵐のクラスを担当したのはまだ数回だったが、五十嵐が一度も私の目を見ていないことに内心焦っていた。瀬川の言うように、そっとしておくことが本当にいいことなのか、心の中で反すうする日々だった。


「そうかいそうかい。俺の高校にもサラさんみたいな先生がいたら、俺ももう少し英語が得意になったかもしれないな」笹本は笑った。

 プレートに丁寧に盛りつけられた照り焼きバーガーを、笹本は慎重に運んできた。程よく焼き色のついたパティには、その名の通り照りがあり、見るからに美味しそうだった。何より、パティがバンズからはみ出すほどに大きい。タマネギが照り焼きソースを吸い込んでキャラメル色に輝いていた。

「さあ、特製照り焼きバーガーの完成だよ。どうぞ、召し上がれ」笹本はその瞬間だけ、英国紳士のように腕を胸の前で直角に折り曲げ、軽く頭を下げていた。私は、その仕草が可笑しくて堪らなかった。そんなことをする日本人には会ったことがなかった。


 大きなハンバーガーにたじろぎながら、バンズを両手で持ち、一口ほおばった。照り焼きソースの甘辛い風味とパティの柔らかな舌触りに、私は一瞬でこの照り焼きバーガーのファンになってしまった。

「とっても美味しいです。すごく、幸せな気持ちになります」日本語で美味しさを表現するのは難しい。とはいえ、この味を正確に語る英語が存在するとも思えなかった。その土地の味はその土地の言葉でしか表現することができない。日本の風土と文化が照り焼きを作り、そしてそれを表現する言葉を紡いでいるのだ。

 両手にバンズを持ったそのままの勢いでハンバーガーを完食した。


「サラさん、いい食べっぷりだ。食後にコーヒーはいるかい?」英国人と知ってもなおコーヒーを勧める笹本に好感を持った。その後、笹本が無類のコーヒー好きだということを知ることになるのだが、いずれにしてもその時、私は近いうちに再びこの街を、この店を訪れようと心に決めたのだ。

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