第2話 しぼむ風船のように

 どちらかというと朝は決して得意な方ではない。でも毎日の僕の登校時間は早い。早い上に足取りも軽い。

 なぜなら。


「ぉ、ぉはよう」


 昨日の帰り際の出来事があったため、多少の不安は拭えなかったので少しおどおどした感じではあるが、僕より先に登校してすでに着席している羽深さんに挨拶する。


 そう、僕が足取りも軽く早い時間に登校している理由はこれ。


 ある時、満員電車が嫌でたまたまたま早出したら、僕より先に羽深さんが教室にいた。それからしばらくの時間、まあほんの少しの時間だけど、教室には僕と羽深さんの二人きりの時間があったのだ。


 だからといって会話を交わすわけでもなく、ただ同じ教室に二人しかいなかったというだけなのだけど、僕にとっては至高の贅沢なひと時だった。

 偶然だったかもしれないけど、翌日も念のため早く登校したらやっぱり羽深さんだけが教室にいた。


 すっかり味をしめた僕は、それからは毎日早い時間に登校することにしたのだ。


 分かってる。僕のここまでの妄想も行動もはたから見たら全てが気持ち悪いことだって分かっている。だけど、こんなことでくらいしか彼女との距離を埋められないなんて切ない話じゃないか。


 これから話すことは多分もっとキモいはずだし……って自分で言ってて怖くなるわ。


「おはよう、楠木君。今日も早いね」


 僕が到着すると、朝の挨拶を交わしてから羽深さんはイヤホンを装着して何かを聴き始める。

 そりゃね。そうしていれば僕なんかと話さずに済むし……それ以上を望むべくもないって分かっているさ。


 だけどそんなひと時も存外悪くはないと思ってる。

 イヤホンを着けると羽深さんは若干唇を尖らせながらも、決して怒ってそうする感じではなくて、笑いを噛みしめるようなはにかむような、なんとも嬉しそうな微笑みを湛えるのだ。そして気持ち頬が上気しているようにも見える。


 その幸せそうな様子に、こっそり見惚れている僕もなんとも幸せな心持ちになってしまうのだ。

 あんな表情で羽深さんは一体どんな音楽を聴いているのかなぁ、なんて音楽好きとしては知りたくて堪らなくなる。でも羽深さんと比べてしまえば、スクールカーストの底辺と言ってもいいような僕にはそれを知るすべもない。


 だから他人に知られたら薄気味悪く思われるだろうけど、僕は羽深さんが聴いている音楽のプレイリスト(あくまで僕の妄想上のだけど)をこの時間聴くことにしている。

 そうすることで今、僕は羽深さんと一緒に音楽を聴いているって気分に浸れるのだ。


 分かる。もしこんな話を他人に聞かせたらドン引きされること必至だ………。

 だからこれだけは絶対に誰にも知られるわけにはいかない秘密だ。他人に知られたら羽深さんに迷惑をかけるし、僕の高校生活は完全に詰む。


 羽深さんに迷惑が掛からないように、僕は他の生徒がそろそろ登校してくるかなという時間を見計らって、一旦教室を出てトイレに行く。少し時間を潰してから改めて、今登校してきましたよという体で教室に戻ってくる。


 それくらい気を遣わないと、昨日の帰りみたいなことが何をきっかけに起こるか分からないのだ。

 それにしても昨日は失態だったな。今日は昨日の反省を踏まえてなるべく気配を消しておとなしく過ごそう。


 そんな風にしてどうにかこうにか午前の授業を終えると、僕は粗相を起こさないようにと極力視線を自分の周囲1メートル以内に限定して教室を出た。

 我ながら卑屈だとは思うが、ごく一部の生徒の中には、モブキャラの揚げ足取りを生きがいにでもしているのかというような悪趣味な人間がいるのも事実だ。


 ホントのカーストトップの人間に関して言えば、僕みたいなのは関心の対象ですらないから基本なんでもないんだけど。中途半端な中間層が面倒くさくしてくれるのだ。


 あとは恙なく購買部までたどり着き、パンと飲み物を購入する。

 昨日は自分の席で食べていてうっかり羽深さんの微笑み(の幻?)に見惚れてしまうという粗相をやらかしてしまったので、今日の昼休みはどこか別の場所を探そうと思ってる。


 世間ではぼっち飯っていうのはなんだかものすごく寂しいことのような扱いだけど、個人的にはそうまで思わない。もっとも僕は別にぼっち飯を強いられる立場というわけでもないから気楽に感じているだけだろうか。

 クラスでだって別にぼっちというわけでもないし、昼食を一緒に食べようと思えば入るグループの一つや二つ苦もなく見つけられる。


 しかし昨日みたいなことが続いたらぼっち飯どころか本物のぼっちになりかねないので、危機回避のために今日は独り教室を離れて昼を過ごすことにした。


 校庭の片隅の植樹の辺り、校舎からは少し離れているので生徒も少なく木陰が涼しそうで、なかなかの穴場かもしれない。いい場所を見つけた。地面も芝が植えてあって座り心地もフサっとしていて悪くない。

 腰を落ち着けて買ってきたパンを齧り齧り、今朝の至高のひと時に想いを馳せる。


————あれれ……?


 今朝、昨日のことがあってちょっと緊張気味に挨拶したんだけど、羽深さんが挨拶を返してくれた時……。


 性懲りも無くまた脳内であの時の映像が音声とともに再生される。


「おはよう、楠木君。今日も早いね」


 羽深さんが僕の名前を呼んでくれた!?

 ていうかあの羽深さんが僕の名前を知ってくれてた!? しかも「今日も早いね」って……!


「スゲェッ!!」


 って思わず叫んでしまって少し離れた場所にいた生徒から怪訝そうな目を向けられてしまった。


 あれ、でもこれも拗らせすぎた妄想の一環だったり?

 そう思った瞬間、まるで風船が萎むみたいに、あれが現実だったという確信もみるみるうちに萎んでしまうのだった。

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