その3
――
いつの間にか、小鳥のさえずりが聞こえなくなっていた。かわりに、じわじわと近づいてくるゴブリンたちの卑屈な笑い声が、周囲をこだましていた。
魔物の集団に囲まれたノーラは、まずは状況を把握する。
――目の前に1…2…3体か。いや……
ちらりと左右の森に横目をやると、獲物を狙う眼光が暗い木の陰から見えた。
――左右にも1体ずつ、合計5体ね
――種族は……全部一緒。こいつらなら、魔法を放ってくる心配は無さそう
さて、ゴブリンというのは人の形をした魔物である。人間と比べるとかなり小柄で、5、6歳の子供ぐらいの背丈と言えば想像しやすいだろう。知能もやはり子供同等かそれ以下。中には高い知能を持ち、簡単な魔法を扱える種族もいるが、見る限りその心配は無さそうである。
むしろ、注意すべきは彼らの鋭利な爪のほうである。たとえゴブリンの筋力が弱いと言え、小型のナイフほどのそれは、人間の肉を切り裂く程度には十分である。
とはいえ、彼らの攻撃手段といえば、それぐらい。その爪の攻撃範囲に入らない限りは、とりえあえず危険はないだろう。ノーラは5体の魔物との距離を確認する。
――まだ遠いな。とりあえず大丈夫
――ただ、何か気になるな……
敵との距離は問題なさそうであったが、彼女が引っかかったのは、魔物同士の距離であった。というのも、それぞれが間隔を均等に保っているように見えるからである。
――何か、統率が取れているような……
――まあ、ゴブリン相手にあれこれ考えるのも馬鹿らしいな
気を取り直し、ショートソードをぎゅっと握り、戦いに備えるノーラ。
「さあ……」
鼓動が速まるのを感じた。
「いよいよ、だ……」
彼女はそう言った――訳では無かった。それをつぶやいたのはバベルだった。
「え?」
驚いたノーラはちらりと勇者のほうを振り返る。見間違いだろうか、一滴の汗が頬を伝っているように見える。
――もしかして、緊張している? ゴブリン相手に?
――なるほど、どんな相手にも気を抜かず全力で挑む。さすがは勇者ね
あこがれが強すぎるあまり、すべてを好意的に解釈しているようだ。その汗が彼女の想像とは全く違う意味を持つなど、この時はまだ知る由も無かった。
さて、どうしたらいいか。下手に動けば勇者の戦いを邪魔することになる。どちらかというと、後衛に回ってバベルの一挙手一投足を目に焼きつけたい。ノーラは隣にいるバベルに指示を仰ぐことにする。
「私はどうしたらいい? 攻撃魔法とか?」
「いや、違う」
「じゃあサポートするから補助魔法とか?」
「いや、ダメだ」
「じゃあ……」
バベルは諭すように告げる。
「いいか、ノーラ、お前の役割だが……」
「うん、私は?」
「何もしなくていい」
「え、それって……」
「俺が戦うのを、そこで見ていればいい」
そう言って、背後の木を指さした。それはつまり、戦いに加わるなという意味だ。そしてつまり、
――そうか、教育か
――ゴブリン程度は一人で十分。戦い方を教えてやる、ということね
そのように忖度したノーラは「分かった」と言って下がっていく。
「さあ……あなたの力を、あなたの魔法を見せてみて……って、やば」
思わず心の声が口から出てしまい、慌てて手で押さえる。幸い(なのかは分からないが)、集中した勇者には聞こえていないようだった。
「そうだ、お前にはやることがある」
「えっ! な、何を?」
突然のことに戸惑うノーラをよそに、こう続ける。
「まあ、その時がきたら話すが…… いつでも魔法を使える用意をしておけ。今は、戦いが終わるのを待って、じっとしていろ」
「わ、分かった……」
一体、何のことか。自分がしなければならないこととは。全く想像できないが、考えるのが苦手なノーラは、勇者の指示どおりに後ろに下がり戦いを見守ることにした。
さあ、今の状況はバベル対ゴブリン5体。一方は最強の勇者、対するは最弱の魔物。やや不釣り合いな組み合わせではあるが、彼の真剣な表情からは一切の油断は感じ取れない。
――かっこいい!
ノーラは本気でそう思った。もはや、戦いを学ぶとなどは建前になりつつある。雲の上の存在を目の前に興奮を抑えきれない、例えるなら、アイドルと対面して舞い上がってしまう追っかけファンのような状態になっていた。さあ、どんな戦い方をするのか、どんな魔法が飛び出すのか。期待は最高潮に達した。
バベルは一通りあたりを見渡したのち、いよいよ戦いへの態勢を整える。精神を研ぎ澄ましたかのように、ゆっくりと左手を突き出し、魔法を唱え……
「あ、あれ?」
いや、その姿は魔法を唱えるものの姿では無かった。
左手の拳を握りしめ、そして顔の前に構える。右手も同様に拳を作り胸の前に掲げている。これは……魔法を使う構えとしては何か様子が違う。そう、例えるなら、飲み屋前で喧嘩を始めた酔っ払いのそれに近い。
「ええっと、これは、どういうことかな?」
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