マイ・フェア・ディテクティブ

ギヨラリョーコ

第1話


 ピンクのゾウなんて見えない。見えているのはロンドンの夜空くらいだ。星が降ってくるだけだ。白いし、それに何の変哲もない丸だ。ピンクのゾウなんて見えない。 

 ひどく酔うとピンクのゾウが見えると言う。ピンクはそんなに好きじゃないし、ゾウよりヒョウの方がいい。でも見てみたかったんだ。ピンクのゾウなんて愉快に決まってる。俺は愉快な気分になりたかったんだ。


 滅多に飲まない酒はそりゃあもう良く効いた。最初の二杯ですっかり舞い上がり、次の二杯は笑えて笑えて仕方なかった。

 最後の一杯が突然脳天に響いたように気分が悪くなり出して、禿げ頭の店主に20ポンド札を押し付けて逃げ出すみたいに店を出た。出口の段差で足がもつれて、ゴミ袋の中に突っ込んだところで、釣り銭を受け取るのを忘れたことを思い出した。

 禿げ頭が追いかけてくる気配もない。自分は裏口から出てきたんだろうか。釣り銭の分がないと明日の朝飯も買えないんじゃないか。ひょっとするとあの20ポンドが全財産だった? あの、古いトレンチコートの内ポケットに入れておいた旧札の20ポンド紙幣は、俺の全てだったんじゃないか。


 旧札、エルガーの20ポンド、作曲家エドワード・エルガーの顔の描かれた紙幣の最後の一枚。記念にとっておこう、絶対に使うまいと思っていた頃はまだヴァイオリンを弾けなくなる日が来るなんて思いもよらなかった。

 脳裏に流れるのは思い出深き《エニグマ変奏曲》、偉大なる作曲家にしてヴァイオリニストの名を世に知らしめた大作。次の定例会で演奏するはずだったのに。本当に、突然に、我らがオーケストラはなくなってしまった。

 金が無いんだ、オーナーはそう言って手を振っていて、俺の隣にいつも座っていた、ハイドンを愛していた男が叫んでいた。本を焼く国がいずれ滅びるように、楽譜を捨てるあんたもいずれ滅びるよ。残念ながらそうとも思えなかった。俺はヴァイオリンケースを抱えて、信じられない気持ちで公会堂を振り返っていた。俺たちはステージから追い出されてしまった。

 

 星はますます加速している。なんにも、全然愉快じゃない。


 足音がする。ゆっくりとこっちに向かってくる。


「やあ」


 顔が見えた。男の丸い顔。杖をついている。笑っている。何が愉快なんだか。


「どうしたんだい」

「のんだんだよ」

「何を?」

「あおくないのにあおいやつ」


 呂律が回らない。 あの酒の名前は何だったか。綺麗な青の瓶だったから、中身も青いとばかり思っていたのだ。水のように透明な液体がグラスに注がれたときはがっかりしたというより何かの間違いではないかと思うくらいに、綺麗な青色だった。


「なんだい、それ」

「さけ」


 聞いたはずの名前が思い出せない。頭の下で生ゴミがぐんにゃりと潰れていく。丸顔の男は少し顔を寄せて尋ねてくる。


「別に何か薬の類いをやっているわけではない?」

「やってねえよ」

「じゃあ君、靴の泥から人の住所を当てられる?」

「なんだ、それ」

「射撃は得意?」

「できねえ、よ」

「ヴァイオリンは弾ける?」


 変なことを訊く野郎だと思っていたが、途端にどうでもよくなった。ヴァイオリン? 大得意だ。得意で、好きで、それしかやってこなくて、ついにはそれしか出来なくなってしまうくらい。そこのお前に信じられるか、俺はつい2週間前まではオーケストラでヴァイオリンを弾いていたんだ。パブの裏口で生ゴミの袋に埋れている奴が、タキシード姿で公会堂のステージにいる姿を、お前は、信じてくれるのか。


「ひける」

 

 男の笑顔が輝くのが分かった。男は軽く杖を振り上げる。耳の真横に、突き刺さる様な音がした。


「君、きみ」


 俺の顔のすぐ側、ゴミ袋とゴミ袋の隙間に思い切り突き入れた杖を支えにして、男がぐっと顔を寄せてくる。杖なんてついているからてっきり爺さんかと思っていたが、こうして見ると40かそこら、下手すれば俺より若いかもしれない。


「君」

そんなにしつこく呼ばなくたって、お前のせいで酔いはほとんど醒めている。そう言う代わりにゆっくりと頷いた。あんまり素早く動かすと頭が痛む。



「君、僕のシャーロック・ホームズになってくれないか」



 何の話だ?


 酔いは醒めたと思ったが、どうも酒はまだ残っているらしい。もしくは相手もしたたかに酔っているかだ。

 シャーロック・ホームズ。音楽関連以外の本など一切読まない俺でも知っている、ベイカー街の、世界一有名な――恐らくは――名探偵。それは分かるが、それになるとはなんだ?


「ルームメイトを探しているんだ。名探偵のルームメイトを」


 混乱する俺をヨソに、男はぺらぺらと喋り続ける。


「君がなってくれたらいいなあと思うんだよ」

「おれが」

「そう。君は、ヴァイオリンが弾けるから」


 頭がひどく痛んだのは、思わず体を勢いよく起こしていたからだった。男は俺の目の色が変わったのを察しているのかいないのか、顔を離すと、杖を突きなおして少し杖の側に傾いた立ち方で俺を見下ろす。


「部屋ならひとつ空いているんだけど、君、帰るところはあるのかい」


 俺は独り住まいの家の家賃のことを考えた。払ってくれるアテのない給料と、多くもない貯金と、ヴァイオリンのことを考えて、それからゴミの中に手をついてゆっくりと立ち上がった。

痛む頭を押さえる。男は首を傾げて俺を見ている。


「来月には、なくなってる」


 だから。

 男に向かって、舌を無理矢理回して答える。そうかい、と男はその答えを知っていたかのように頷いて、ひとつ手招きをするともと来た方向に踵を返した。杖は飾りではないらしい、右半身を杖に預けるようにしてのったりと歩いて行く背中に向かって問いかける。


「あんた、名前は」

 

 脳が揺れるのはてっきり自分が大声を出しているからかと思ったが、そうじゃなかった。頭の後ろの方でヴァイオリンとトランペットがひっきりなしに鳴っている。イギリス生まれの偉大な作曲家、エドワード・エルガーの《エニグマ変奏曲》。星がどんどん降ってくる。男が振り向いて、少し右に傾いて立っている。きっと彼は真っ直ぐ立っているつもりなんだろう。


「僕のことは、ジョン・ワトソンと呼んでくれ」


 酔っているのか? そう訊く代わりに、荷物を取りに行っていいかと尋ねると、ジョン・ワトソンはもちろんと頷いた。


「君のヴァイオリンを持ってきてもらわなきゃ」


 ジョンでもジャックでもジョニーでも何でもいい。酔っていようがいかれていようが知るものか、大事なのはそんなことじゃない、そんなことなんかじゃないのだ。


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