第2話:駐屯地にて






 夏に別れを告げ、秋が顔を覗かせる季節。夜は心地よい半袖半ズボンも、朝にもなるとやや肌寒さを感じる。


 時刻は間もなく午前6時。時計は見ていないが、目が覚めたということは恐らくそれくらいの時間だろう。


 高槻は枕元に置いた靴下を手に取り、毛布の中でもぞもぞと動きながら靴下に足を通す。同居人の1人はすでに起き上がっており、着替えまで済ませた状態でベッドに腰を下ろそうとしていた。ちょうどその時、部屋に取り付けられたスピーカーから不快なラッパの音が鳴り始めた。


 久しぶりに聞いた時は気が気でなかったが、10年近くいたこともあり再びの順応は早かった。今ではもう慣れたもので、ギリギリまで安眠できている。


 他の同居人もぼちぼち起き上がると、ロッカーから帽子を取って廊下へと向かう。高槻もそれに続いて廊下に出て、3人の同居人と共に横1列に並んだ。他の部屋の住人もぞろぞろと廊下に並ぶが、新隊員のときほど機敏な動きをする者はおらず、みな一様にゆっくりとした様子だ。


 廊下を見渡すと、ゆっくりとした足取りで各部屋の前に並ぶ隊員を適当に確認していく当直の姿が奥の方に見えた。突き当たりに近い部屋というのは何をするにも不便で、このように朝は当直が来るまでがとにかく長い。新隊員のように自分から出向く手間がない分まだマシではあるが。


 「全員いるな?」


「います」高槻が当直の問いかけに答えると、4人揃って踵を返してさっき出てきたばかりの部屋に戻った。これから食堂が開く6時30分までに諸々身支度を整える。


 まだ何の支度もしていない高槻は、まずベッドを整える。とは言っても掛け布団1枚しかないので、四つ折にしてベッドの隅に置くだけで終わりだ。


 ベッドの片付けが済むと、今度は自分の体の整頓。電動シェーバーだけを持って洗面所へと向かうと、今日は運良く空いておりすぐに顔を洗うことができた。


 鏡に映る水に濡れた顔からは以前まで伸ばしていたあごひげが姿を消してした。しかし、綺麗さっぱりという訳ではなく昨日も剃った髭がもう伸びてきて、はっきりと視認できるくらいに濃くなっている。高槻はそれを剃り落とすと、後から来て隣で顔を洗う同居人のタオルを取って顔を拭く。頭にポンとタオルを乗せてその場を去るが、もはや日課とも呼ばれるようになった今では文句を言われることもない。


 部屋に帰ると、すっかり身支度を終わらせた同居人がテレビを点けてニュースを見ていた。肩越しに画面を一瞥すると、ロッカーを開けて戦闘服に袖を通した。


 「なんか面白そうな話ないか?」高槻がボタンを留めながら声をかけると、テレビを見ていた同居人は振り返ることなく首を傾げて特にないという意思を表す。


「また政治家の失言の話してますよ」情報を入手する時間が限られている身としては、もっと有益な情報が欲しいのもだが、肉体労働を主とする公務員が欲する情報など世間一般にはニーズがないのだろう。防衛省勤めのときは幾分かましだった分、自衛官として活動を再開してからは世間とのズレを余計に痛感する。


 そんなことを考えながらだらだらとしていると、着替えが終わる頃には同居人全員の支度が終わっていた。すると、同居人の中の1人がパンパンと手を叩いた。


 「さあ、やりますよ」そう言うと、同居人3人がほぼ同時に床に伏せて腕立て伏せの姿勢を取った。高槻は、ふぅ。と息を吐くとスマホを取って床に手をつく。そして、待機する3人の同居人の顔を見回すと、合図をして2分のタイマーをスタートさせた。


 朝6時10分過ぎ、4人の男が顔を突き合わせて一斉に腕立て伏せを始める光景は側から見れば異様なものだろう。何故こんなことをしているのか。その発端は高槻だった。


 高槻は特防隊に異動となったあと、体力の低下を防ぐために起床後すぐの筋トレを日課にしていた。その習慣から部隊復帰後も続けていたわけだが、空挺基本降下課程やレンジャー過程を修得したという経歴に目をつけた同居人の1人が後に続き始め、現在では同居人全員で行う朝の日課となった。


 ちなみに、同居人はこれが様々な訓練に耐える秘訣と思っているようだが、高槻自身がこの習慣を始めたのは特防隊に移ってからなので別に秘訣というわけではない。


 そうこうして2分が経つと、上半身が感じる負荷の余韻に浸ることもなくすぐに立ち上がった。時間もいい頃合いで、今から食堂に向かえばちょうど朝食の時間だ。


 高槻はベッドの上にほっぽり出した帽子を手に取ると、まだ息の整わない同居人を引き連れて部屋を後にした。






 食堂の扉を開けると、すぐ目の前にトレーと茶碗が積まれたテーブルが鎮座している。トレーと少し大きめの茶碗を取ると、プラスチックケースに入れられた白米を山盛りによそう。そして、進んだ先にあるカウンターにトレーを置いて滑らせながらおかずを受け取っていく。


 「いただきます」給仕の係からメインのおかずと味噌汁、小鉢を受け取る。そして、カウンターの最後に置いてある箸をトレーに載せると、空いている席に腰を下ろした。


 今日のメニューは、鯖の塩焼きにほうれん草のおひたし、味噌汁、そしてパックの牛乳だ。同居人の1人はパン派らしく、菓子パン2つと牛乳をテーブルの上に並べている。


 4人揃って手を合わせると、黙々と箸を進めた。少しくらいだらだらとしても問題はないが、おしゃべりしながら食事をするという習慣を誰一人として持ち合わせていないため、この食事風景が日常だ。


 あまり料理が得意でない高槻からすれば上等な食事であることは間違いないが、それでも味わって食べることはしない。思い通りに体を動かすためのただのエレルギー補給に過ぎない。そういうわけで、わずか5分程で朝食を全て平らげた。


 ストローを咥えながらパックを握り潰して中身が残っていないことを確認する。そして、食器類を返却しに席を立った。パン食の同居人以外はまだ食べている途中のようで、特に急かす意味もないので彼らを置いて独り先に仕事場に行くことになるだろう。


「お先に失礼する」


 食器を返却して紙パックをゴミ箱に投げ入れる。そして、本日の課業は午前が屋内射撃場を使用した射撃訓練、午後が装備点検と体力錬成ということになっているので、食堂を出て武器庫に向かう。


7時にもなっていないということもあって、当然まだ誰もいない。高槻は今のうちに訓練の内容を再度確認することにした。もっとも今日、もとい再び部隊に配属されてからはわざわざ事前に確認する必要性を感じることはない。


 通常、陸曹は訓練の指導役に立つ場合が多いが、いつ部隊を離れることになるかわからない高槻が任されるのは指導の補佐のみだ。そのため、気楽な日々を送っている。


 とは言っても、この部隊への配属や再び部隊を離れることへの対応など、駐屯地司令や中隊長には様々な根回しをしてもらっているので手を抜くつもりは一切ない。


 手順の確認が終わると、始業までの1時間で日課となっているトレーニングを行うために柔軟体操を始める。そうこうしているうちに食堂に置き去りにしてきた同居人が合流する。そして、同居人たちのストレッチを見守ると、高槻はおもむろに走り出した。






 「ねーねー聞いてよ高槻さん!」電話口から発せられたその甲高い声に、高槻は思わずスマホを耳から遠ざけた。音もなく体を跳ね上がらせたその姿は側から見れば実に滑稽な姿だが、幸い同居人は隊員クラブに飲みに行って不在のため誰にも目撃されることはなかった。


 電話の相手は高槻の交際相手である鶴岡瑞希ツルオカ ミズキ。交際していると言っても、休みのたびに勝手に家へ押しかけてくる瑞希と、それを許している高槻がそれぞれで1日を過ごすだけという奇妙な関係である。 歳も成人を迎えてあまり日が経っていないということも相まって人に言うのは憚られる。


 きっかけも、特防隊が関わった事件にたまたま巻き込まれて高槻と出会ったということで、どこをどうとっても世間一般でいう普通の交際とは言えない。


 唯一普通に近いことと言えば、課業や夕食など自衛官における1日が全て終わってやっと手にした自由時間に毎日電話を掛けてくることだろうか。今のように。


 「さっきね、コンビニにお酒買いに行ったんだけど年齢確認されちゃってさ」話し口調はその時々で変わり、今日のように元気なときもあれば、落ち着いていたりひどく沈んでいたりするときもある。正直話の内容にはついていけないので、どんな調子で語りかけてくるのかが高槻にとっては楽しみとなっている。


 「私ってそんなに子供っぽいかなぁ?」背丈こそ極端に低くはないが、それ以外が子供っぽいことは全くもって否定できない。むしろ、コンビニ店員が年齢確認したのは当然と言える。しかし、それを正直に口にするべきではないだろう。それこそ子供っぽいのだから拗ねるに決まっている。


「若く見られてていいじゃねえかよ」そんな地雷原を切り抜けるようと、高槻は安易に当たり障りのないことを言ってみせた。しかし、そんな小手先の言葉だけに命運を託すのは心許ない。


 「そう言えば」下手に突っ込まれる前に強引に話題を変えて主導権を自分の方にたぐり寄せる。


「明日の夜から家に帰るつもりなんだが、来るか?」高槻がそう言うと瑞希は、ほんと!?と、より一層声のトーンをあげて食い付いた。家に行って何をしようかと色々提案してくる様子から、無事に地雷原は抜けたようでほっと胸を撫で下ろす。


 「高槻さんは何したい?」いきなり何をしたいかと聞かれるとやや返答に困る。隊舎での暮らしが長くなると、やれることばかりを求めてしまいやりたいことが中々見つからない。思い返してみれば、瑞希が家に来たときも、時々仕掛けてくるちょっかいをいなすだけで特にこれといったことことをした記憶がない。せっかく久しぶりに会うのだから、何か普通のことをしてみてもいいかもしれない。


 「映画でも観るか?」


「高槻さんから映画観ようなんて珍しいね」自身でも柄にもないということはわかっている。それでも、普通の生活を送ってみるにはいい機会なのではないだろうか。今までの普通じゃない生き方を顧みてみた高槻はそう思った。


「じゃあ、観たい映画のDVD借りてから行くね」ああ。と相槌を打った高槻は、楽しみにしてる。そう言いかけた口を咄嗟に噤んだ。流石にこれ以上はあとで自分が気恥ずかしくなるような気がする。高槻は、二歩目を踏み出すことはしなかった。


「楽しみにしてるね」そう言った瑞希は、おそらく満面の笑みを浮かべていることだろう。これだけ素直に感情を伝えられる瑞希を羨ましく思いながら、高槻は窓の外に視線をやった。


 「そろそろ寝る時間だ」隊舎の外を歩く同居人を視界に捉えた高槻がそう言うと、瑞希は名残惜しそうに、うーん。と唸り声をあげる。


「いいじゃねえかよ。どうせすぐに会えるんだから」すると、瑞希はふふっと笑った。高槻には、それがなんの笑みなのかはわからなかった。だが、もしかしたら抱いている感情は同じなのかもしれない。不思議と安心感を覚え、自然と口元が緩む。


「それじゃあ、おやすみ高槻さん





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